【オルタの視点】

新潟米軍基地拡張反対闘争余話③
戦後初浅間山米軍演習場の完全勝利

仲井 富


◆◇ 浅間山米軍演習場を三カ月余の全県民闘争で勝利した長野県

 1955年の砂川、新潟などの米軍基地拡張計画反対闘争の前に、米軍基地反対闘争が各地で始まっていた。1953年、朝鮮戦争が末期に差し掛かっていたころ、長野県と群馬県に米軍の演習地をつくる計画が同時並行的に進められていた。
 朝鮮戦争でアメリカ軍を主力とする国連軍は、当初の予定の37度線確保に成功すると、さらに朝鮮の奥深くまで侵入し、中国との国境の鴨緑江に迫った。1950年10月末のことである。これに対して中国人民軍が立ち上がり、国連軍を大破し、翌1951年1月ソウルが陥落する事態となった。この国連軍大敗の原因の一つが、不慣れな冬季山岳戦にあった。アメリカ軍にとって朝鮮半島における冬季山岳戦に備えた演習が必要となった。その候補が浅間山と妙義山だった。

 1938年4月2日、米軍のマレー参謀、リンク中佐、外務省、農林省、調達庁が軽井沢町へ訪れ「日米行政協定合同委員会覚書」を手渡した。その主な内容は、演習地の名称は「山岳冬期戦学校」、場所は浅間山西麓、目的は訓練場、期間は無期限、訓練の内容は襲撃登はん陣地構築などの山岳戦術が主、訓練生の数は下士官幹部400名、毎年3月から11月の間、月曜日から土曜日まで、30ミリ口径の空砲使用というものであった。

 翌日、『信濃毎日新聞』で報道されるとともに、リンク中佐から軽井沢町長、町議会、特別都市審議会、近隣町村代表など40名に説明された。軽井沢町議会は、説明のあった午後、議会を再開し特別対策委員を選出、富士山麓山中湖の基地の視察を行い、4月17日の町議会で満場一致絶対反対を決議した。決議の提案理由は以下の七項目である。

①活動期にある火山浅間山を演習場とすることは、極めて危険無謀、不適当である。
②軽井沢在住町民2万を始めとして、浅間山周辺10ケ村の経済と生活の根底を破壊する。
③親米的な知識人及び文化人を失い、反って日米協力の重大な阻害となる。
④軽井沢町の理想と歴史とその性格を全く変ずる。
⑤地震国日本の火山活動研究に重大な障害となる。
⑥上信越高原国立公園中最も秀麗特異な景観浅間を失うことにより、国立公園は事実上抹殺される。
⑦日本政府が法律253号によって表明した軽井沢国際親善文化観光都市建設は事実上終息する。

◆◇ 5・3町民大会から6・7県民大会に全県から5,000人が結集

 5月3日の町民大会は、中学校体育館で盛大に開かれた。西地区からは、ムシロ旗を先頭に「聖地軽井沢を守れ」「パンパンの町にするな」「子供たちを守れ」などのプラカードを持って堂々と行進した。町内で誘致の陳情をした連中や取り巻きは、真っ青になっていたそうである。その後、町は県への陳情、町民大会を開催し、全県的な反対運動を起こすため県評などと連携を進めた。
 このほか東京大学地震研究所も、5月4日「浅間山演習地化に反対する意見書」を発表した。8日、日本地震学会の全国総会でも演習地化反対の決議がされた。信州大学、東京大学が反対の声明・陳情を行っている。長野県市役所職員組合協議会も反対の要請を行った。

 5月27日、長野県議会は満場一致で反対を決議、同日、県連合婦人会・県連合青年団・教育7団体・県総評など労農団体・県観光連盟・県仏教界・キリスト教関係各団体・県教育委員会・県農業委員会・県公民館連絡協議会・県市長会・県町村長会・県町村議会議長会・県農協婦人部協議会・県農協青年協議会・県部落解放委員会・北佐久群関係の団体など計72団体で「浅間山米軍演習地化反対期成同盟」が発足した。
 6月7日に軽井沢中学校で開催された県民大会は、雨天の中にもかかわらず、5,000人が詰めかける大集会となった。かくして7月16日、日米合同委員会で浅間山使用を取り消すことを了解された。計画発表からわずか3カ月余、200万人の長野県全県民闘争の完全勝利だった。

◆◇ 戦後三期にわたる革新県政と浅間山米軍演習場反対闘争など三つの勝利

 私は、新潟県の米軍基地拡張反対闘争の時期、1955年10月の左右統一大会後の三宅坂本部において、軍事基地委員会のただ一人の書記として砂川の10月闘争にかかわった。以降数年間、米軍基地及び自衛隊基地反対闘争の現地オルグとして派遣された。
 しかし、最初の米軍射撃場反対闘争のあった内灘闘争(1952年~54年)、さらに浅間山(1953年)・妙義山(1953年~55年3月)の米軍山岳演習場反対闘争から山形県の大高根米軍射撃場反対闘争(1955年9月)の頃は、まだ岡山県左派社会党の県本部書記だった。ようやく1955年10月から砂川をはじめとする全国的な基地闘争にかかわることになった。したがって米軍基地反対闘争で最初の完全勝利を収めた長野県浅間山の米軍山岳演習場反対闘争のことは知らなかった。

 注目すべきは、長野県の演習地反対運動では、この他に有明原(穂高町)保安隊演習地化反対運動があった。有明原は戦前・戦時中において松本50連隊の演習地であったが、戦後緊急開拓の対象地となった。この開拓地に最初入り込んだのは松本50連隊の軍関係者で、その後地元増反希望者も入植した。このため、地元農民が推進と反対に二分された点で浅間山米軍演習地の場合と異なる。また、米軍ではなく朝鮮戦争がきっかけで設立された保安隊の演習地化という点でも異なる。
 したがって、県会も意見は二分され、結果的には演習地化が可決された。しかし、農林省は賛成・反対者の農地が入り組んでいて、演習地として使用することが困難であるとして不許可にした。食糧事情がまだ厳しい時期であったために、農林省の発言力は強かった。この結果、私たちが知る自然豊かな現在の安曇野がある。

 戦争は弾薬を必要とする。その弾薬の原料である硫黄採掘が、朝鮮戦争と同時に日本の各地で展開された。長野県も八ヶ岳と菅平が硫黄採掘の対象地となり、業者による採掘が進められていた。しかし、米軍と通産省ぐるみで推進された硫黄採掘も、佐久地方と上田小県地方の自治体・住民による一致団結した反対運動で阻止することができた。
 このことにより、佐久地方の農業用水は確保されたし、上田市住民は安心して神川の水を水道水源にして飲用できるのである。いずれも素晴らしい住民運動の歴史だが、あれから60年の歳月を経過して、これらの硫黄鉱害反対運動を知る人も少なくなっている。

◆◇ 長野県史と新潟県史の相違点 戦後平和民主主義運動の一環として

 私は長野県の米軍演習地反対闘争の歴史を知りたいと思った。6月下旬に長野市と上田市、小諸市を訪ねた。ここで長野県立図書館、小諸図書館などで主要な記録を見てコピーすることが出来た。
 全県民闘争で勝利したとはいえ、新潟県立図書館などでは、新潟県史以外には見るべき資料は発見できなかった。しかし長野県の県史、軽井沢町誌をはじめ、様々な長野県の戦後史研究の成果は多種多様であり、また出版物も多様であった。単なる米軍演習場反対闘争だけではなく、長野県の戦中、戦後史がまとめられていて、その一環としての軽井沢米軍演習場反対闘争の位置づけも明確である。

 その他の勝利した山形の大高根米軍射撃場反対闘争や群馬県の妙義山米軍山岳演習場反対闘争の記録も、山形県史、群馬県史にそれぞれ数ページを割いて記述している。さらに闘争としては敗北したが、戦後初の米軍実弾射撃場の内灘闘争の資料は、内灘町史や石川県史のみならず、さまざまな出版物でその歴史を検証できる。後日、石川、長野、群馬、山形、新潟などの県史を比較、分析してみたい。
 しかし新潟県の県史やさまざまな研究資料の貧弱さは眼を覆うものがある。田中角栄に象徴される大型開発、柏崎原発や新潟新幹線などに代表される開発政治が、戦後唯一の保革共闘による新潟米軍飛行場拡張反対闘争の完全勝利を評価する研究や資料集の発刊を妨げたと言えるかも知れない。

<参考文献>
『朝鮮線戦争と長野県民』信州現代史研究所 2003年
『戦争と民衆の現代史』長野県現代史研究会 現代資料出版発行
『長野県史』通史編第9巻近代3 平成三年三月三十一日
『軽井沢町誌』歴史編 近現代編 1993年
『軽井沢を守った』田部井健次 軽井沢文化協会 1981年
『長野県評運動史』長野県評センター編 1994年
『長野県連合婦人会25年史』長野県連合婦人会編 1975年
『二百万人の勝利』浅間山演習地化反対期成同盟編集委員会編 1953年

画像の説明

  (信濃毎日新聞 昭和27年7月16日 他)

画像の説明

  (信濃毎日新聞 1948年7月16日 浅間山演習場計画取り消し)

 (世論構造研究会代表・オルタ編集委員)

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