【オルタの広場の視点】

新潟米軍基地拡張反対闘争余話①朝日記者と新潟日報記者をめぐる因縁

仲井 富

◆◇ 江田書記長時代の江田番だった中瀬記者

 今年1月7日から8日にかけて、加藤宣幸さんと新潟の旅をした。オルタ編集委員で新潟出身の福岡愛子さんの手引きで、関係者に会ったり県立図書館で資料探しをした。特に印象に残ったのは、1955年代前後における新潟米軍飛行場拡張反対闘争における新聞記者の重要な役割であった。新潟県教職員組合の資料末尾には「またこの闘いが県民ぐるみに盛り上がるまでの組織化の一大要因として、各社新聞記者の活躍をあげなければならない。特に朝日支局の中瀬記者、新潟日報の滝記者の活躍は特筆すべきであり、今もなお関係者の間に忘れがたいものが残っている」と書かれていた。

 その後の調査で判明したが、滝記者とは新潟日報の滝秀則記者、中瀬記者とは朝日新潟支局の中瀬信治記者だった。ところが、朝日の中瀬記者と加藤さんは昵懇の間柄であった。というのは、新米記者として1948年4月から1952年4月まで朝日新潟支局の記者だった中瀬さんは、その後60年安保の最終局面では、朝日政治部の第一線記者として社会党を担当していたのである。当時、戦後初の池田首相、西尾末広、江田三郎の三者による三党首テレビ討論は江田三郎を天下に知らしめたが、このアイディアを仕掛けた人は、朝日政治部の江田番であった中瀬信治記者だった。

 その後、社会党は構造改革論争を含めて左右の激突があり、ついに1977年3月、江田三郎は社会党を離党し社会市民連合を立ち上げた。しかし志半ばにして5月22日、68歳で急死する。さらに悲劇は続く。その江田三郎の追悼集『江田三郎 そのロマンと追想』⦅1979年3月発行⦆の追悼原稿を執筆中の中瀬さんは1978年6月12日、江田に遅れることわずか1カ月足らずで急死するのである。48歳という若さだった。
 加藤さんは、親交のあった中瀬さんのことを追悼集『回想の中瀬信治』⦅1979年6月発行⦆に以下のように記している。

◆◇ ユニークな江田番 中瀬幸治さん

 中瀬さんとの出会いは、彼が政治部記者として、一柳、久芳両氏と共に60年安保闘争前後の社会党を担当していた時のことだった。その頃の私は、本部書記局の教宣部や機関紙局の部長などの党務に励みながら、社会党再生の夢を、鈴木派から一人分離した江田氏をかついだ構造改革派の結成と拡大に託して、多忙をきわめていた。たしか〝江田番″であった中瀬さんは、仕事熱心でいい加減な記事を書くことを嫌い、江田氏と党外学者グループとの議論の場などにも加わって、ウィスキー片手に持論を譲らなかったのを覚えている。
 党大会が始まると政治路線上の対立に人事ポストの争いもからんで、各派閥の確執は一層深刻になる。そんな時に、彼は、一柳キャップから江田派に深入りしすぎていると注意を受けながらも、自宅が同じ方向であったせいか、夜遅く私の家に寄って、あれこれ話し合った。

 こうして、中瀬さんと私とは、60年安保闘争の盛りあがりを背景に、社会党をめぐって情熱をこめて語りあった。朝日新聞も世論を大胆にリードしていこうとする覇気を感じさせる時代であった。間もなく、彼は九州に転勤となり、私も社会党を離れ、しばらくの間、二人は会うことがなかった。
 ところが、江田三郎氏の急逝が再び私たちを引き合わせた。彼が江田三郎追悼集の中で、「三党首TV討論会」の顛末を執筆することになり、私は彼から十数年ぶりに取材をうけることになった。今から思えば、絶筆になったその文章を書くために、彼は、丹念に当時の関係者を訪ね、記録を整理していたのである。⦅中略⦆
 私と中瀬さんの出会いも別れも、安保、社会党、構造改革、江田三郎氏をめぐる動きの中にあった。安保の頃の交友が第一期とすれば、これからは、政党に属さない市民の一人として、第二期の充実した交際を深めようと誓いあってわずか旬日のうちに、彼は去ってしまったのである――

◆◇ 新潟日報記者滝秀則さんは生きていた

 朝日新潟版とともに新潟日報記者として、特筆大書されたのが滝秀則記者である。私は何とか、滝さんと連絡したいと思っていた。ところが意外なところで滝記者のことを知った。生前の加藤さんが持っていた追悼集『回想の中瀬信治』のなかに滝秀則記者の回想記があった。二人とも相前後して新米記者として新潟米軍基地拡張反対闘争取材の第一線にいたのである。滝秀則さん「忘れ得ぬ取材態度 滝秀則 中瀬信治の思い出」と題して以下のように記している。

 ――中瀬さんとお会いしたのは1949年4月のことで、私が記者1年生、彼が2年生のときだった。全く新米の私にとって、中瀬さんの落ち着いた取材態度は畏敬の的だった。背筋をピンと伸ばし、歯切れのよい低音で質問する、その自信を秘めた姿に近寄り難さすら感じていた。
 その年の秋、新潟市内の地方銀行で賃上げをめぐる争議が起きた。彼と私は共に労働を担当していたので、その銀行に毎日通い続け紙面でもかなり大きく扱われた。中盤に入ったある日、私が書いた記事をめぐって、突然組合青婦部につるし上げられる羽目になった。確か銀行の賃金を含めた労働条件を解説したものと記憶しているが、そのとき居合わせた中瀬さんの心配りが実にうれしく、今だに胸に焼きついている。組合書記局で、何人もの若い活動家に矢継ぎ早に攻め立てられた私は、オタオタしながら弁解に努めたが、納得されるどころか、ますます追及は厳しくなるばかり。身の置き所を知らぬ私に彼は「後はオレにまかせとけ」とささやき、部屋の外へ押し出した。
 その後、彼は新聞のあり方までも含めて彼らに理性的に説明、説得してくれたのだ。争議が終わってから、青婦部の人たちがその経過を感心して話してくれたが、当の本人は「いや、いや、どうも…」と、多くを語らなかったことを覚えている。前に近寄り難さを感じたと書いたが、やさしい心根の人なのである――

 この追悼記を読んで、私は滝秀則さんに会いたくなった。いろいろ調べたあげく、滝秀則さんの自宅に電話した。すると「滝です」という返事。私は、新潟飛行場拡張反対運動を取材しているメールマガジン・オルタの仲井と名乗った。すると彼は次のように答えた。「すでに昔のことでよく覚えていない。いまは半ば病身であり、お会いしても正確な話ができないことを諒とされたい」。諄々と話をされたのが印象的だった。私はそれを聞いて、これ以上は失礼だと思って、夜分の電話を深くお詫びして電話を切った。
 新潟飛行場拡張反対闘争はすでに63年前の話である。当時の関係者でお会いできたのは元新潟県総評事務局長の風間作一郎さんのみである。

◆◇ 歴史に残る新聞記者と住民運動の関係

 振り返ると私自身も、社会党本部時代の砂川闘争から安保闘争への1955年から60年安保まで、さらに江田・佐々木対立時代の60年から1970年時代、70年以降の住民運時代にかけて、新聞記者との接点が多々あった。優秀な取材記者のお陰で、各地の住民運動の発掘が出来た例は枚挙にいとまがない。
 主なものだけでも、水俣病を最初に報じたのは熊本日日新聞の「猫の狂い死に」が発端である。和歌山の住金公害を告発した33日間の宇治田一也さんのハンストを書き記した『海があちらへ死んで行く』は朝日和歌山市局の松本英昭記者だった。伊達火力環境権訴訟の発端は、正木洋さんの「北電誘致に疑問を持つ会」のことを報じた北海道新聞の記事を知ったことによる。
 東京で公害研の周辺にいた新聞記者は朝日の松井やより氏だった。彼女は若くしてがんで亡くなったが常に公害研の宿泊会議に参加し、まるで公害研の一員のようだった。1973年の「石油タンパク反対運動」の勝利は松井記者のスクープを発端としている。「大規模林道反対運動」は山形や福島支局の朝日・毎日や共同記者の協力によって全国的に広がった。徳島県木頭村の「巨大ダム計画」を中止に追い込んだのは、共同通信平野真佐志記者の執念の取材が大きい。

 私は1970年代から80年代にかけて住民ひろば、住民図書館などを計画立案したが、この支えとなったのは東京日日新聞⦅毎日新聞の前身⦆週一回のミニコミ紹介を2年間連載する企画を実現した富田昌志記者のおかげである。また渡辺文学さんが1978年から始めた嫌煙権運動は発足の頃から有力な新聞記者が先頭に立っていた。毎日新聞の科学記者牧野賢治氏である。
 さらに歴史を溯れば、足尾鉱毒事件の発掘に最も貢献した東京日日新聞⦅毎日新聞⦆の松本英子記者の存在を忘れることはできない。東京日々新聞の記者として、足尾鉱毒事件を取材し、政府筋のありとあらゆる迫害に遭いながらも、新聞に60回に及ぶ現地レポートを掲載し、真実を世に告知した女性記者だった。
 私は2006年から住民運動再訪の旅を全国的に続けているが、その第一に足尾鉱毒事件の佐野市を選んだ。その中で松本英子氏の存在を深く知り感動した。「住民運動と女性解放」の原点は足尾鉱毒事件に起源があったのだ。

 次号以下では余話②として新潟黒人米兵の強姦事件と群馬のジラード事件の対比、③米軍基地反対闘争における新潟県史と新潟市史、他の県史町史などとの比較を論じてみたい。

 (世論構造研究会代表・オルタ編集委員)

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