【オルタの視点】

新潟県野党共闘前史―新潟米軍飛行場拡張反対運動(3) 左右社会党の伸長

仲井 富


◆◆ 砂川・新潟などを結ぶ野党勢力 左右社会党の前進と統一(朝日地方版から)

 新潟県の米軍飛行場拡張反対闘争において、砂川闘争との結びつきの強さを前回も指摘したが、今回は朝日新聞新潟支局の地方版1953年~1958年までを、朝日本社の友人を通じて入手できた。それによって新潟県野党共闘の前史がいっそう明らかになった。

 まず第一に挙げられるのは、1953年4月19日の総選挙における左右社会党の前進である。朝日新潟版には以下の記述があった。朝日新聞新潟版がトップ記事で大きく報じている。
 ――「県民が選んだ新代議士 革新派予想外に躍進 保守票8万票減る」
 意外なことに新潟一区(定員3)から佐渡出身の有田八郎が無所属で最高点当選している。2位が左派社会党の桜井奎夫、3位に自由の北玲吉が滑り込んだ。朝日によると、有田氏は右社系とされており右社2名、左社4名、有田氏を加えると革新派は7名が当選した。有田八郎は戦時中の外務大臣で、56年・60年の都知事選に出たことで知られる。護憲連合の代表委員としても活躍した。当選者のうち、2区の井伊誠一は弁護士で農民運動出身、3区の稲村順三、三宅正一も農民運動出身である。(朝日新潟版1953.4.20)

 戦後社会党は、片山・芦田連立政権の失敗で、1949年の総選挙で最低の46議席まで転落した。西尾末広の除名などを経て、講和安保両条約をめぐって1951年に左右に分裂したが、鈴木左派社会党委員長の有名な「青年よ銃を取るな 婦人よ夫を子を戦場に送るな」の呼びかけが、おりからの朝鮮戦争・警察予備隊の発足などと相まって、戦争体験の色濃く残る時代に強くアピールした。左右社会党を含めて上り坂の時代だった。そして1955年2月の総選挙で左右社会党を併せて護憲議席三分の一を上回るに至った。砂川・新潟などの米軍基地拡張問題が持ち上がった1955年10月、左右社会党の統一大会が開かれた。分裂していた保守政党も同年11月、自由民主党として大同団結し、いわゆる55年体制が発足した。

画像の説明
  1953年4月総選挙における革新派予想外の躍進 朝日新聞新潟版 1953年4月20日

◆◆ 地元農民と新潟大農学部の基地拡張に対する不安と反対闘争への立ち上がり

 朝日新聞新潟版の解説によれば、当時の反対運動の立ち上がりの中で、地元農民と新潟大学の強固な反対意思が闘争の勝利につながったということが分かる。
 一番密接な関係にあるのは地元農民だ。生活に結びついているので反対の態度も根強い。河度新町の農民30戸は宅地ごと、川渡、松崎、下山では160戸から170戸は耕地を取り上げられるため、ここでは反対の根拠は「農民から土地を取り上げるな」ということだ。飛行場拡張はこれまで二、三回あったが、その中に宅地はなく、ほとんどが砂地、荒れ地だったため、買収価格でいざこざがあったが、今回のように生活問題と結びついていなかった。関係村落の住民は耕作地に関係ない者もほとんどが反対に同調している。飛行機ことにジェット機の発着による爆音がこれ以上、強くなってはたまらないというのがその言い分だ。新潟大教授会が「大型機が発着するようになれば事実上学問研究は不可能になる」と反対を決議、職員会は反対の声明書、学生は対策委員会を設けて街頭署名運動をはじめた。(朝日新聞新潟版1954.12.26)

 この地元農民の結束は最後まで崩れなかった。砂川闘争では1955年9月の強制収用開始後、町議会の半数近くが基地誘致派となり、以降は反対同盟130数戸は切り崩しによって次々と脱落、最後まで残ったのは23戸だった。最終的には美濃部革新都政の下で強制収用が不可能になった背景もあり、ようやく1969年に米軍の完全撤退をかちとった。1958年に完全勝利した新潟に遅れること11年、その間、筆舌に尽くせぬ法廷闘争による抵抗が続いたのである。新潟飛行場拡張反対闘争最大のニュースは1955年11月21日の中央への大陳情団だった。当初600名を予定したが最終的には1,091名が夜行列車12両編成の大陳情団となった。反対を決議した県下市町村は10名を割り当てたが、亀田町の26名を含め予定を倍する参加者となった。

画像の説明
  中央陳情団 夜行臨時列車で12両1,091名が上京 新潟日報 1955年11月21日

◆◆ 砂川闘争と一体化した新潟闘争 北村知事の砂川激励訪問

 砂川闘争と新潟闘争の連帯と団結は、われわれの考える以上に強固だった。
以下は砂川闘争の最大の1956年10月、警官隊による暴行で1,000名余の負傷者を出したときのことだ。以下は当時の新潟飛行場反対期成同盟が『砂川 ひろがりゆく日本の抵抗』に寄稿した当時の反対運動参加の記録である。しかもこの大闘争の最中、10月14日に北村新潟県知事が砂川闘争の現場を訪れていたのである。

 ――新潟飛行場拡張反対期成同盟 砂川の次は新潟。これがわれわれの合言葉であり、砂川を守ることが新潟を守り日本を守ることであると考へて来たわれわれは、9月2日の、砂川と沖縄を結ぶ大集会に代表を送り、砂川を支援し最後まで共に闘うことを表明したのである。(中略)10月2日 第16回常任委員会に於て当面の活動を砂川支援一本にしぼり、新潟の全勢力をあげて砂川闘争に投入することを決定し、一陣20名ずつを6日から3日間交代で派遣することになった。結果的には6日より15日迄、総人員122名、延べ375名が派遣され、12日、13日の激突には45名が闘いに参加した。14日は急報により馳せ参じた人員あわせて75名にふくれあがったのであった。
 「砂川の次は新潟」の、合言葉でわかる様に、同じ立場にあるわれわれは砂川での10日間は真にわれわれの闘いであり他所で闘っている感じは少しもしなかったと云える。12、13両日の闘いには越後人特有のねばりで勇敢に闘った。全体の数から云ってわれわれは微々たる数であったし、一人の英雄も出なかったが、45名が一丸となって常に闘いの最も激しい個所にスクラムを組んでいた。全員が大なり小なりの負傷をして、帰郷後20日間も職場を休む者すら出た。
 われわれは砂川地元民と同じ場所に配置されて、話し合い・歌声・フォークダンス・佐渡おけさ等々で、砂川の人達をして「新潟に親類が出来た」と云わせる程に心と心がぴったりと一つになることが出来た。また合間を見ては畠の手伝い、持に陸稲の刈入れ、稲架の作り方、稲の束ね方等を教えたりして、農業技術の交流を行ったことも互いの闘争意欲を大きく高揚したと思う。新潟県下各地から闘争に参加した関係上、報告大会が各地で開かれ、砂川―新潟の路線で大きく基地闘争の意義が県民にアピールされ、砂川報告オルグ団の受入れもきわめてスムースに行われて、各会場とも盛会であったし、そのことが即、新潟闘争に大きくプラスとなった。北村県知事が14日に砂川を訪れて、安井都知事を非難し、立入調査の公告をあく迄も拒否することを再び声明したことは注目すべき事であろうと考へる。(後略)――

 戦後の米軍基地反対闘争で県知事が他県の闘争に参加し激励するなどあり得ないことだったが、北村知事は砂川現地まで足を運んだ。
(『砂川 ひろがりゆく日本の抵抗』われわれはかく闘った、参加団体の意見と自己批判)

◆◆ 戦前農民運動の遺産と戦後の農地改革 日農全盛時代の米軍基地反対

 新潟米軍基地拡張反対闘争では、労働組合の力は新潟県労協のまとまりを中心にして強かったが、砂川のように労働組合と全学連の動員を主体とした闘争ではなかった。
 地元の反対農民はもとより、戦前の日本農民運動最大の争議となった木崎争議を中心とする農民運動の伝統、そして戦後はそれを引き継ぐ形で農地解放をすすめた日本農民組合の全盛時代でもあった。三宅正一は戦前戦後を通じて新潟農民運動の中心的存在だった。
 戦後一時追放されたが、弟稲村順三の死去によって、1955年2月の総選挙に補充立候補し当選した稲村隆一は、著書『稲村隆一の軌跡』のなかで「三宅正一の越後入りと日本農民組合新潟県連合会の結成」のなかで、天性の農民運動家三宅正一を評価している。

 ――三宅正一が越後入りしてより、急速に県内の農民組合の指導権は、日農に移行するに至った。1925年新潟で開かれた日農第二回全国大会における参加者は4千名に達し、意気天に沖するの観があった。かくして第2回大会以後は、日農の県下における地位は不動のものになった。――

 1950年代はまだ戦前農民運動の影響は大きく残っていた。日農両派を中心に農民組合の動員力も大きかった。『農民運動家としての三宅正一』の著者飯田洋は以下のように述べている。

 ――昭和20年代には、農地解放により、小作農から自作農へと変わった農民が、地主に変って主役として登場した。戦前の小作争議の伝統が日農に引き継がれ、日農一色に染まった時代である。「日農にあらずんば、人にあらず」と言われ、元小作農民のみならず、旧地主層まで、雪崩を打って日農に加入した。日農は多くの地区で村長始め、農協組合長、役員、農地委員、部落総代など村の要職をことごとく握った。「木崎、大香田、和田村を忘れるな」「日農魂を発揮せよ」が当時の三宅のスローガンだった。――

 このほかにも新潟県連合青年団は当時団員20万人と言われたが、同じく米軍基地反対を決議、新潟県議会、新潟市議会をはじめ過半数の自治体が反対を表明して、文字通り全県民闘争として発展したのである。

◆◆ 新潟米軍飛行場拡張反対闘争の年表作成 新潟日報・朝日新潟版の果たした役割

 末尾に付した年表は新潟日報・朝日新聞新潟版・新潟県教職員組合史第三巻を参考として作成した。2018年1月のメールマガジン・オルタに掲載したものに追加訂正を行った。新潟県教職員組合の資料末尾に以下のように記されていた。
 「またこの闘いが県民ぐるみに盛り上がるまでの組織化の一大要因として、各社新聞記者の活躍をあげなければならない。特に朝日支局の中瀬記者、日報滝記者の活躍は特筆すべきであり、今もなお関係者の間に忘れがたいものが残っている」

 その後の調査で判明したが、滝記者とは新潟日報の滝秀則記者、中瀬記者とは朝日新潟支局の中瀬信治記者だった。
 労組には珍しい記者個人への賛辞だが、新潟日報、朝日新聞新潟版などを通読してよく分かった。一言で言えば、この二紙は反対期成同盟の広報版の役割を果たしていた。当時はテレビもなく、日々の反対運動の動きが翌日の朝刊記事になるということは、一番大事な広報宣伝の役割を果たしていたことになる。しかもしばしばトップ記事として報道される。米軍撤退の情報をいち早くトップ記事として報道したのも朝日地方版(1957年5月25日)だった。否が応でも、反対同盟の決定事項や行動計画を参加団体や個人、世間一般に周知徹底させることができた。当時の広報活動は、文書でガリ版を切り、封筒で郵送して周知する以外なかった。その故に地方紙や地方版の有能な記者たちが最も活躍する時代でもあった。朝日新聞の中瀬信治記者は1977年に急逝したが、江田三郎社会党委員長代行時代以降の彼をめぐる因縁話は後述したい。

<新潟飛行場拡張反対期成同盟 関連年表 1950~1959>

1950・7・1  第一次23町歩の農地が占領軍の圧力で一方的につぶされ米軍基地になった。
1952・11・  第二次農地2町2反接収 第三次接収27町歩がつぶされた。
1953・4・2  衆員総選挙で革新派予想外に躍進 保守票8万票減る結果となった。当選者左右社会党・無所属で議席7、自由・改進など保守議席8。
   11・8  新潟市内で午前2時ごろ、駐留米軍の黒人兵士が少女を暴行する事件発生。
   11・9  黒人米兵ジョージ・T・ジョーンズを逮捕、容疑を否認。
   12・13 新潟地裁で日米行政協定改定後初の外国人兵裁判の第1回公判。

1954・1・14  裁判長黒人米兵に懲役年5年の求刑。
   7・16  米軍ジェット機の爆音で魚群が散ってしまい、漁民1,800人の生活が脅かされていると新潟市松浜町松ケ崎漁業協同組合(組合長南米太郎)は新潟調達事務所を通じ、騒音により魚が逃げたと、年額428万円の補償要求。
   11・25 調達庁 第4次拡張計画発表。地元説明会で追い返された。拡張計画は①土地約70町歩、②土地所有者240人、③世帯42戸。
   12・  河渡新町をはじめ関係4部落が反対決議、知事に陳情書提出。
   12・11 新潟大教授会が「大型機が発着すれば学問研究は不可能になる」と反対を決議。職員会は反対の声明書。学生は対策委員会を設けて街頭署名へ。
   12・18 日農主体性派が新潟飛行場拡張反対を決定。
   12・20 日農統一派が新潟飛行場拡張反対を決議。新潟大学生自治会は飛行場拡張反対を決議し街頭で反対署名運動を開始。
   12・25 新潟県労協幹事会は満場一致で新潟米軍飛行場拡張反対を決めた。

1955・1・14  新潟県労協の呼びかけで新潟飛行場拡張反対期成同盟発足。
   2・27  総選挙で左派社会党89、右派社会党67当選、合計156議席へ。
   4・2  県知事選で野党の押す統一候補北村一雄、21万票差で保守現職を破る。
       (北村は自由の現職参議 当選 北村一男 671,007/落選 岡田正平 412,295 投票率83.60%)。
   5・24  県議会で新潟飛行場拡張反対決議、満場一致。
   5・12  反対同盟知事と会見、知事は首相、調達庁に反対の意思を伝えると回答。
   5・29  福島調達庁長官、知事と会見。知事は立ち入り調査要請に、県議会決議尊重と回答した。
   5・29  新潟県教組第18回大会、新潟米軍基地拡反対を決議。
   5・30  新潟市議会、絶対多数で拡張反対を決議、反対1名。
   6・2  全日通全国大会、新潟米軍基地拡張反対を決議
   6・3  衆議院内閣委員会で箱岩善一事務局長他1名が米軍飛行場反対理由陳述、席上福島調達庁長官は新潟について10月頃着手したいと言明。
   6・5  左社成瀬基地対策委員長、茜ケ久保、桜井代議士らを迎え、中央情勢について意見交換、県出身衆参19人の議員に地元の利益を代表して超党派的に拡張反対の議会活動を求めることを決定。 
   7・25  知事は福間仙台調達局長に立ち入り調査要請に、公告は困難と拒否。知事と会談の後、反対期成同盟の杉山委員長らと会談したが、同盟は実力を持って強行するなら我々も実力で対抗すると言明。
   7・26  仙台調達局長一行と地元反対派と懇談会、拡張反対の鉢巻きを締めた農民組合員や主婦300人が強く反対意見を述べた。新潟市連合青年団、飛行場反対総決起大会で反対を決議。
   8・4  県農業会議は飛行場拡張反対特別委員会で、参考人として新潟大教授、県労。協議長、反対期成同盟田村会長などの意見を聴取、その後、①農地の保全、②新潟大農学部の教育研究を守る、③会議独自の運動を行う、などを決めた。
   8・5  政府は閣議で米軍基地拡張について声明、新潟始め砂川、横田、木更津の4飛行場拡張へ協力要請、北村知事は、もし業務命令が出て知事の首が飛ぶようなことになれば、県民が承知しないだろうと反対持続を表明。/左右社会党の国会議員、県議など新潟市内古町で街頭演説、政府の強硬姿勢を批判。
   9・3  白山公園で新潟飛行場拡張反対県民大会、全県下から5,500名参加。砂川、大高根、浅間、その各基地代表参加 砂川から田中反対同盟副委員長が参加、集会後トラックを先頭に市内目抜き通りをデモ行進。
   9・10  県市長会臨時総会、19市、11対8の賛成多数で基地拡張反対を決議、県内市町村議会は過半数が反対決議、現地闘争本部を河渡に完成、農民労組員が友好祭を行った。
   9・12~13 砂川町で第一次の強制測量、砂川町議ら検挙者27名、軽傷者40名。
   9・18  反対期成同盟常任委員会、砂川町強制測量後初の会議で絶対反対の方針を確認。具体的には、①県知事の公告拒否をさらに続けさせる、②調達庁の強制測量は断固阻止する。
   9・21~22 第4回全国軍事基地反対代表者会議参加。
   9・23  根本官房長官、新潟基地問題で知事、県会、地元との話し合いを持たずに測量を強行したり、知事に対する公告実施の強制命令発動、また知事罷免の挙に出ることはないと語る。
   9・26  地権者の委任状を取り付けるための第一回法律懇談会
   9・27  福島調達庁長官、新潟県知事があくまで公告を拒否する場合、調達庁が代理公告することが出来ると表明。これに対し北村知事は新潟飛行場に反対するという私の態度はいまも変わらない。地元の被害、その他基地の及ぼす影響を考えれば当然のことだと述べた。
   10・1  新潟市の大火発生。昭和30年(1955年)10月1日未明、当時新潟市医学町にあった県教育庁から出た火は、おりからの強風にあおられて、またたくうちに燃え広がり、市街地を火の海にした。出火原因は、教育庁の漏電とされている。8時間にわたって燃え続けた火により、市の中心部の主な建物を総なめにして、さらに礎町の方にも飛び火した、全半焼した家屋は1,000余戸に達した。
   10・13 県労協は11月中旬頃臨時列車を仕立てて600人の陳情団を国会に送ることを決めた。構成団体500人に1人、反対決議をしている37市町村は一市町村10人などで計600人を送りだす。
   11・4  新潟女性文化会、友の会、婦人公論読者グループ、働く婦人の会など婦人団体代表10人は北村知事と公舎で会い新潟飛行場拡張問題について「最後まで反対を続けてもらいたい」と要望した。知事は反対の態度を変えるつもりはないと答えた。
   11・7  調達庁の立ち入り調査に備えて反対同盟は予定地に鉄条網、見張り所などを構築、地元民、支援労組員、学生ら延べ200人が降りしきる雨の中で作業、費用は7万円、反対同盟が集めた寄付でまかなった。
   11・20 臨時列車12両による大陳情団1,091名が夜行列車で上京。
   11・21 上野駅着、社会党軍事基地委員長加藤勘十、三宅正一、桜井、石田、稲村、清沢、小林の衆参議員が出迎え、両国国技館で砂川、大高根、木更津、茨城神之池、福岡板付など全国から合流、総勢約1,500名の大陳情団が結成された。10時半、28台のバスに分乗して調達庁、自治省、農林省、首相官邸、米国大使館、防衛庁、大蔵省など氷雨を衝いて陳情。午後3時半から浅草公会堂で報告大会後、夜11時半発夜行列車で帰郷。
   11・22 箱岩県労協事務局長ら9名、全国軍事基地反対連絡会議参加。
1956・1・7  闘争開き 現地闘争本部で開催。
   2・9  新潟商工会議所、新潟市長とともに知事に会い、他の地への移転を要望。
   2・21  全国軍事基地反対連絡会議(基地連)大阪会議に参加。
   3・4  新潟県社会党左右統一大会、白山神社社務所で600人参集。
   4・4  米空軍ジェット機が新潟上空で故障を起こし、米軍飛行場に強行着陸。
   6・20  新潟市公会堂で、新潟基地拡張反対期成同盟一周年記念大会。
   8・9  長崎市での原水爆禁止第二回大会に保科事務局次長ら参加。
   8・15  反対期成同盟の箱岩事務局長急逝、新事務局長斎藤和彦就任。
   9・1  沖縄人民党瀬長亀次郎を迎え寄居中学校で報告会、その後沖縄問題解決促進協議会発足。
   9・2  沖縄と砂川を結ぶ大集会が砂川で開催され同盟代表が参加。
   10・2  砂川現地闘争に第一陣20名、第二陣10名参加。
   10・6~15 砂川現地闘争支援隊、6日より15日迄、総人員122名、延べ375名が派遣され、12日、13日の激突には45名が闘いに参加した。14日は急報により馳せ参じた人員あわせて75名にふくれあがった。
   10・14 北村知事、砂川町訪問、安井東京都知事を批判し、新潟飛行場拡張の立ち入り調査の公告をあくまで拒否することを声明。
   10・20 新潟と砂川を結ぶ集会、新潟市公会堂で開催。砂川の青木行動隊長ら10余名参加、沖縄代表も参加、この集会で資金確立のため、農民米5合、労組員50円のカンパ方針決定。
1957・2・13  基地反対期成同盟の婦人代表20名が砂川訪問 一泊懇談、砂川町役場で青木行動隊長ら地元民50名と懇談。
   3・30  基地反対期成同盟の要請で砂川から婦人8名が新潟へ。
   4・3  社会党の軍事基地対策会議委員長野溝勝を団長とする9名の調査団来る。
   4・5  拡張反対期成同盟報告大会を開催。
   5・25  米軍新潟基地から調達庁の情報によると、米軍の航空戦術の転換に伴い、新潟米軍飛行場の規模を縮小する。それに伴い基地内の日本人労務者260人を解雇する方針が明らかになった。
   6・30  米軍飛行場の機構縮小で日本人労務者260人解雇、9月第二次81人解雇。
   6・17  農民と労組員のカンパによる宣伝カー命名式で「平和号」と決まる。
   6・24  砂川、大高根、沖縄の代表を囲んで地元座談会を開催。
   7・   平和号県内を巡回、基地反対、原爆反対のスローガンを掲げる。
   8・10~16 「平和号」第3回原水禁長崎大会に参加。
1958・3・4  在日米軍は仙台調達局に新潟飛行場を31日に返還すると通知。
   3・31  新潟飛行場返還式。5月以降、東京―新潟間の民間飛行場空港となる。
1959・1・26  新潟飛行場反対期成同盟婦人部が砂川に越後の餅を贈る。

<参考資料>
 ①『新潟日報』関連記事 1955~1958年 国会図書館立法考査局国会レファレンス課作成
 ②朝日新聞新潟版関連記事 1953年~1958年 朝日新聞本社資料より
 ③『新潟県教職員組合史』第2巻第16章 新潟飛行場拡張反対の闘い
 ④特集 基地日本―この実情を見よ 相次ぐ拡張と接収 新潟飛行場基地 河出書房『知性』昭和31年第3巻1号
 ⑤新潟飛行場拡張反対期成同盟 渋谷武 論文 『年報政治学』11巻 1960年
 ⑥『砂川闘争の記録』砂川闘争年表 宮岡政雄/著 お茶の水書房
 ⑦『砂川 ひろがりゆく日本の抵抗』 砂川町基地拡張反対支援労協/編集発行
 ⑧新潟県連合青年団 結成40周年記念誌『けやき』
 ⑨『稲村隆一の軌跡』 稲村隆一記念出版委員会/編集発行
 ⑩『農民運動家としての三宅正一 その思想と行動』 飯田洋著 新風舎刊

 上記資料のうち、①③④⑤⑧⑨は国会レファレンス課文献提供係・係長諸橋邦彦氏による。

画像の説明
  米軍撤退の動きを報じた朝日新聞新潟版 1957年5月25日

 (世論構造研究会代表・オルタ編集委員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧