【オルタの広場から】

新型コロナウイルスの鏡 『隠されたパンデミック』(岡田晴恵/著)

三上 治

(1)

 新型コロナウイルスの出現と共に、見慣れた顔というか、存在になった女性がいる。岡田晴恵さんだ。彼女を僕が初めて見たのはテレビ朝日の新型コロナウイルスについてコメンテーターとしてであった。着飾らないというか、お化粧もあまりしないで、テレビに登場した女性のコメンテーターは珍しく、おやと思って見ていたのだが、彼女のコメントは官邸筋から槍玉にあげられていた。注目度が増したせいか『週刊文春』で批判もされていた。
 今、彼女はコロナの女王とよばれ、多くのテレビ局でも見かけるようになったが、その彼女が書いたのが『隠されたパンデミック』である。これは2009年10月に書かれた本の重版であるが、現在の新型コロナウイルスを予言しているような趣があり、とても面白い。

 彼女はかつて国立感染症研究所のウイルス第三部の研究員であり、この領域の専門家であるが、また、児童文学者でもあり、多くの著作がある。僕は彼女の感染症に関する多くの著作に目を通したわけではないが、2009年の新型インフルエンザについて書かれたこの本は、現在、パンデミック(世界的な流行)に入っている新型コロナウイルスの(あるいはそれを巡る)動きを映し出している。例えば、新型コロナウイルスに対する政府や厚労省や医療機関の動きは僕らにはなかなか見えない。不透明なところが多い。それを透視させてくれることになるところが多々ある。

 今、日本では新型コロナウイルスの検査を抑えることで、その発生(感染)の数を少なくしていると言われる。これには様々の理由が考えられるだろうが、これは今に始まったことではない。こういう記述がある。
 「◇医療現場での医師の怒り。検査しないため、感染者数がわからない」(第二章 それぞれの思惑)。
 「発熱外来を設置せずに、一般の全医療機関で新規患者を診断する、患者の全数把握は中止し、学校などの集団感染が起こった場合にのみおこなうという。綾は、新聞の一面のこの記事を読みながら胸がむかむかした。全数調査なんて、今までだってしてこなかったじゃないか! 何が中止だ。腹立たしさがよぎる」(186P)。
 この小説の主人公の永谷綾の怒りだが、この直ぐ後には新型インフルエンザの患者と思しき人が検査を拒否される場面がでてくる。

 市中の飯塚医師が保健所に新型インフルエンザの検査を依頼したのだが、保健所の課長は検査するとも、しないともはっきりしない。それを「何で検査をしてくれんのかい?」とつめると、国の指示では感染地(アメリカやメキシコ)から帰国した人物を検査することになっている、海外渡航歴のない人は該当しないので検査できない、という。新型コロナウイルスに感染したとされる人もなかなか検査してくれないといわれてきた。救急車でたらい回しされ、なかなか病院に収容されない人の例がテレビで報道されるが、これは今にはじまったことではないのだ。
 オリンピック開催のために、なるべく患者数を小さくする等の理由で検査を抑えてきたためともされる。そうだろうと思う。東京都の小池知事がオリンピックの延期が決った途端に染者数の公表を始めたことなどでそれはよく分かる、でも、これは以前からの国のやり方だったことも本書で明らかにされている。

(2)

 この小説は2009年の新型インフルエンザの流行(パンデミック状態)を扱っている。2009年の新型インフルエンザとは、2009年4月12日にメキシコで発生した原因不明の呼吸器感染症であった。これは豚由来のインフルエンザH1N1と規定さるが、6月には多くの地域に広がり、WHOによってパンデミック(世界的流行)が宣言された。この新型インフルエンザは214の地域に広がり、18,097人以上の死者を出したとされる。日本では2,100万人以上が感染し、198人が死亡したとされる。新型コロナウイルスの死者数は既にそれに近づいている。

 季節性のインフルエンザは季節ごとに特に冬季に流行し、死亡者も生じさせるが、これとは区別されるウイルスによる病状をもたらすものとして新型インフルエンザとよばれた。新型インフルエンザは弱毒性であることが明瞭になり、季節性インフレエンザと同等のものとみなされ、ワクチンも開発されてパンデミックは終息した。
 今、地球上で一番流行しているインフルエンザはこの新型インフルエンザで、これは消滅したのではなく存続している。この時期は麻生太郎が首相であり、舛添が厚労省の大臣だった。直ぐ後に政権交代が起こり、2012年には5月には新型インフルエンザ対策特別措置法が施行された。現在の非常事態宣言はこのときに用意されていたのである。

 小説の主人公は作者の分身と思しき永谷綾である。彼女は国立伝染疾患研究所に勤めている。研究所ウイルス部長が大田信之で、彼女はその部下で所員である。この国立伝染疾患研究所はかつて作者が所属していた国立感染症研究所がモデルである。これは厚労省の直属機関であり、国の医療行政や感染症対策を司る機関である。彼女と上司の大田はその科学的見地において新型インフルエンザの出現を予測し、そのための対策を提言していた。2009年にそれが確認される以前の段階から、それを予測し対策を講じるべく動いていたのである。

 その当時は、これまでのヒト・コロナウイルスとは異なる新たなコロナウイルスであるSARS(2002年、中国で発生)などもあり、ウイルスの問題は注目されていた。そして、また、2005年に出て来た鳥インフルエンザの動きが注目されていた。鳥インフルエンザはH5N1型と呼ばれていて、人に感染することは少ないが、ウイルスが突然変異を起こし、新型インフルエンザとしてパンデミックが起きることが懸念されていたのである。しかも、ウイルスは強毒性であることも恐れられていた。強毒性ウイルスと弱毒性ウイルスということが、しばしば語られるがこれは次のようなことである。

 「インフルエンザの強毒型か弱毒型かというのは、どこの臓器に感染するかという事なんです。強毒型のウイルスの典型例がH5N1型鳥ウイルスですが、これは鳥でも人でも“全身感染”を起こします。そして、人でこのウイルスに感染したら、致死率も6割と高い。一方、今回の豚由来ウイルスは弱毒型です、これは、私たちが良く知っている呼吸器感染症である季節性のインフルエンザと同じです。」(第二章 それぞれの思惑、132P)。

 この強毒性ということと弱毒性ということは一般にはなかなか理解されにくいことだったが、鳥インフルエンザは強毒性のゆえに突然変異によって人間にも感染するウイルスになることが懸念されていたのである。新型コロナウイルスは呼吸器感染症であり、全身感染を起こす致死率の高いものではない。だからといって季節性のインフルエンザのように致死率の低いものとは現段階ではいえない、といわれている。
 致死率は人に恐怖を喚起するが、ヒトウイルスでは罹患率ということがある。罹患率が高ければ、多くの人に病状とそして重症化ももたらす。新型コロナウイルスは目下この問題に遭遇している。非常事態宣言が発せられ、人の接触が抑えられようとしているのは罹患(感染)の問題である。新型インフルエンザではこの点(弱毒性)での安心感が問題だったことが指摘されているが、これは新型コロナウイルスの初期に見られた楽観論と関係していたように思える。

 綾は大田を上司(部長)とするウイルス部に属していたが、新興感染症(SARSや鳥インフルエンザ、エボラ出血熱など)の出現状態の中で、その対策を提言していたのである。大田はWHOという国際機関でも活動していたし、綾は出版もしていたが、彼等は厚労省や国立伝染疾患研究所内では孤立していた。

(3)

 国立伝染疾患研究所に、インフルエンザセンターの設置計画が打ち出されたのは2008年であったが、それは政治主導でなされたから、官僚にとっては驚きだったらしい。ウイルス学の学者たちには鳥インフル(H5N1型ウイルス)は従来のインフルエンザの常識を覆すほどの認識をもたらしたが、厚労省や研究所はそうではなかったらしい。反応は鈍く、それに抵抗すらしていたとある。

 厚労省や綾の属していた研究所の動きは興味深い。これは、今、新型コロナウイルス対策の司令塔というか、指導機関の不透明さ、疑念を抱かされる所業を想起させる。厚労省も、国立伝染疾患研究所も医療行政を司る機関である。新型インフルエンザにせよ、新型コロナウイルスにせよ、こうした新しい感染症には初期対応が重要であると言われる。これは情報の問題も含めてそうである。何故なら、僕らは情報によってしかこのウイルスの発生とそのもたらすものを知らないからである。
 新型コロナウイルスにおいてはその発生源が中国の武漢であったが、その情報が当初は隠ぺいされ、発生を拡大されたといわれる。「中国のような情報統制が厳しい社会において、国から提供される情報に透明性がなく、信じることができない、と市民が判断すれば非常に危険な状況に陥る可能性がある」(ウォルター・ラッセル・ミード、4月18日の朝日新聞)。透明性のある情報というのは信頼されるということだが、中国政府の発せる情報についてはそうであった。これは科学的なものを、政治が統制していることに原因がある。情報の自由がないからともいえるが、これは日本では厚労省や研究機関の問題でもある。

 この本では冒頭から「遅々として進まない新型インフルエンザ対策」というのが出てくるが、そこで国立伝染疾患研究所や厚労省の事が指摘されている。
 「役所仕事というのは、問題が起きるまでは<検討中ですから>、<今後検討する予定です>、<部署が違います>、<所轄ではないから>と、対策も検討もしないのが慣例のようになっている。厚生労働省は、年金問題だけではなく、薬害エイズ問題、肝炎問題、原爆症問題から、近年は雇用問題に至るまで多くの問題を抱えている。ここに新型インフエンザ対策の遅れというさらなる懸案事項が加わるのだ」(第一章 Xデーの到来、12P)。

 ここに現在はコロナウイルスの問題が加えてもいいのだと思う。厚労省という官僚組織は何なのだ。これは国民の意志(意向)を政策的に遂行する機関である。それはウイルス問題に即せば、それがもたらす病状から国民の生命と健康を守る、そういう政策をやる機関である。そういう機能を果たしていないことを僕らは随所で経験している。僕は原発問題で経産省や対峙している。多くは語らないが、経産省が原発政策(行政)で何をやっているかは驚くべきことばかりである。厚労省という役所を支配しているのはここで言われている役所仕事であるし、お上の仕事である。国民の福祉(国民の健康の保持)のための機関であるが、そういう機能を果たしていない。綾は厚労省の機関である国立伝染疾患研究所に属していたが、厚労省にとって厄介ものだ。

 「綾が<対策提言>した著作は、言い逃れのしようがない事実を書いてあり、これは、後々、“厚労省の不作為証拠”とされる可能性もある。なにせ、これを“国立”の研究所、つまり、役所“の研究所員が書いているのだ。<永谷綾はやっかいだ><どうかしろ>と、研究所の上層部は、大田の子飼いである綾を、要注意人物と見なすようになっていた」(第一章 Xデーの到来、14P)。
 綾の大田も危険人物視されていた。監督官庁を気にする研究所の上層部は大田こそが問題だとしてもいた。大田は部長職にあり、WHOなどの国際舞台でも活躍する人物であったから、大田を排除することは容易ではなかった。だから、大田から綾を切り離すことが画策される。

 大田と綾はこの研究所では自己の考え(科学的見地)に沿った政策(対策)を進めようとしている人物であるが、だから、孤立し、奮闘せざるを得ない存在だ。科学的な学者によって組織される機関も、科学的な見地で仕事(業務)をやろうとする人間は排除される。科学や科学技術を根拠にする研究所が科学的に運営されるわけではない。科学に携わる人間が科学的な思考を持つわけではないように。科学や科学技術には自由がなければならないことを示しているのだ、と思う。これは科学や科学技術は科学的精神に支えられなければ科学的に存在しえないという事でもある。そして科学的精神と自由は不可分なものである。これは情報には自由がなければ危険であるように、科学は背景に自由を持たなければ科学も危険でもあるということだろう。

 永谷綾と大田が置かれた位置として示されているのだが、綾は研究所を離れる。彼女は新型インフルエンザ対策が政治と世論にとって厚生省や研究機関を動かすしかないからだと考えるからだ。彼女の著作によって世論を喚起するしかないと考え、著作に専念せんとするが、やがて新型インフルエンザのコメンテーターとしてテレビなどに登場するようになる。現在、彼女はコロナの女王とよばれるコメンテーターだが、それにはこの時期の経験が大きいのだろうと推測した。

 鳥インフルエンザの新型インフルエンザへの転移はウイルスの突然変異で起こる。それを懸念し、対策の提言をしていた大田と綾だが、2009年の新型インフルエンザは別の形でやってきた。豚由来のインフルエンザとして4月にメキシコで発生し、6月には複数の国に広がり、パンデミックが宣言された。これは上記で述べた通りであるが、新型インフルエンザがやってきたときの動きがこの本ではよく描かれている。これは現在進行中の新型コロナウイルスをめぐる人々の動きと重なるところもあり、大変、興味深い。院内感染や医療崩壊(危機)は規模の問題はともかく、鋭く描かれているといえる。新型コロナウイルスは当初の予想を超えたものとなっており、その今後を見通すことは難しいが、そのためのヒントになることが本書には随所でみられる。

 (評論家)
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