【コラム】
槿と桜(59)

文在寅大統領の「チョㇰパンハジャン」から思うこと

延 恩株


 8月2日に安倍政権は輸出管理上の優遇対象国(いわゆるホワイト国。今後はこの言い方をやめてグループAと呼ぶそうですが)から韓国を除外する閣議決定をしました。すると韓国の文在寅大統領はすぐさま日本批判の声明を出し、「盗人(ぬすっと)猛々(たけだけ)しい」と強い調子で批判したことが日本のマスメディアでは大きく取り上げられていました。
 「盗人猛々しい」という表現は、日本語ではあまり面と向かっては使わない、かなり露骨に相手をけなす言い方です。ですから、いくら安倍政権の韓国への輸出管理上の規制が不当だとみなしても、こうした表現を一つの国を批判するときに使うのはあまりにも冷静さを欠いていると思いました。もっとも、文大統領には日本向けというよりは韓国人向けへの力強いメッセージを出す必要があって、敢えてきつい表現を持ち出したという面もあったと見ていますが。

 そこで文在寅大統領の発言の中で使われたという表現、実際にはどのように言ったのかを調べてみますと、「적반하장 賊反荷杖 チョㇰパンハジャン」という韓国語の四字成語が、日本語では「盗人猛々しい」と訳されたようです。
 この四字成語は日本語にはありませんし、本家の中国語にもないようです。どうやら韓国製の四字成語のようで、私も韓国製とは知りませんでした。私自身はめったに使うことのない表現です。
 そこでふっと、それでは漢字を知らない韓国人はこの言葉をどのように理解したのだろうか(ちょっと変な言い方ですが)と、思ってしまいました。

 幸い私は日本語を学んだおかげで漢字がわかりますから、「賊反荷杖」という4つの漢字からおおよその意味の見当がつきます。「賊」は「泥棒」や「犯人」、「反」は「反対」「逆」「かえって」、「荷」は「かつぐ」「持つ」、「杖」は「つえ」「こん棒」といった意味がそれぞれの漢字にはあります。そのため「チョㇰパンハジャン」という音が私の耳に入れば、「チョㇰ」→「賊」、「パン」→「反」、「ハ」→「荷」、「ジャン」→「杖」というように漢字が浮かんできて、〝泥棒が反対にこん棒を持った〟という意味なんだろうぐらいの見当は辞書を見なくてもおおよそつきます。
 実際、辞書には「居直る」「道理に合わない」のほかに「盗人猛々しい」という解釈もあるようです。でも四つの漢字それぞれの意味から考えますと、私の感覚では、今回の文大統領の言い回しは「居直る」「道理に合わない」といった意味の方がニュアンス的に近いように思います。

 さて、漢字を知らない韓国人に話を戻しましょう。特に若いハングル世代の人たちで「チョㇰパンハジャン」から「賊反荷杖」という漢字を思い浮かべることができた人は、ごく少数(個別に漢字を学習してきた人)だったはずです。つまり「チョㇰパンハジャン」を「チョㇰパンハジャン」として、その人の語彙体系の中に記憶、整理されていない限り、その人にはまったく意味不明な言葉になっていたはずです。
 四字成語は日本でもそうですが、漢字の知識が求められるかなり高度な表現方法です。ちなみに、韓国では長年にわたって漢字使用派とハングル専用派で論争が続いていますが、大きな流れは漢字不使用だけでなく、韓国語の中にある漢字語(日本語もかなりの数に上る)を韓国の固有語に変えようという国語純化政策が強められています。しかしその一方で、ハングル専用派でさえも、四字成語などは、漢字を知らなければ理解できないと認めています。

 ハングルは1446年に(李氏)朝鮮時代第4代国王の世宗が「訓民正音」(フンミンジョンウㇺ くんみんせいおん 훈민정음)として公布したもので、漢字の素養がない「民を訓(おし)える正しい音」からその名がつけられました。つまり音を表すだけの表音文字です。
 日本や中国で使われている漢字のように表意文字ではありませんから、文字を見れば、意味がある程度わかるというわけにはいきません。その点では欧米語と同じです。たとえば「報道」は韓国語では「ポド(보도)」という音ですが、漢字を知らなければ「報道」という漢字があることさえ知らないことになります。したがって、韓国の首都・ソウルがある「京畿道」という行政地区(「道」は日本の県、都、府に当たる)がありますが、この「京畿道」(キョンギド けいきどう 경기도)と「報道」に同じ「도」というハングルが使われていても、「道」という同じ漢字が使われているから、と気づかないまま「ポド」「キョンギド」と使っている人も出てくるわけです。                   

 私は日本で生活しているためか、韓国語の表記はハングルだけでなく、漢字も混ぜて表記した方が良いと考えています。私の経験から読解力を増すはずだと思っているからです。
 その点から言えば、今回の文大統領の日本批判に「チョㇰパンハジャン」という四字成語が使われ、日本では「盗人猛々しい」と訳されてしまい、一時期、日本でも冷静さが失われてしまったようでした。
 でもこの声明が多分に韓国内だけと見ている私からすると、ほかの視点から少々気になることがあります。

 それは、文大統領の「チョㇰパンハジャン」が韓国の人びとにどれだけ正確に理解されたのかということです。文大統領の激しい日本批判という声明の雰囲気だけは十分すぎるほど理解され、それで文大統領の目指した自分への国民の支持を高めるという目的は果たされたのかもしれませんが。
 しかし自分の使った言葉が漢字で、しかも四字成語や故事成語であったために、通じなかったり(実際、韓国のネット上には「チョㇰパンハジャン」とはどういう意味かという質問が散見されました)、誤って理解されたり、ニュアンスを異にして理解されてしまったりしたら、それはいつしか自分に跳ね返ってくることになると思うのですが。

 ハングル使用を主張している人びとでさえも、四字成語などは、漢字を知らなければ理解できないと認めている現状があります。したがって私は、法律や医学、科学などの専門職領域はもちろんのこと、日常生活での言葉でも、その表現や言語内容をきちんと理解するためには漢字の廃止はできないだろうし、一定程度の漢字教育は必要だと思っています。 

 (大妻女子大学准教授)

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