■「敗戦、いや終戦、それは奇跡であった」

                          西 村  轍

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 敗戦というのが正直なところで、終戦はごまかしだと言われる。そのとおりで

ある。国としてものを言う時はそうであらねばならぬ。終戦などと、他人事のよ

うに敗北の責任をはぐらかすのは、一億総懺悔とか自己責任とか、言葉をすりか

えて国の責任を国民に丸投げしたのと同じく狡猾の極みではある。

 しかし、それはあくまで国のはなし。国の責任を丸抱えするいわれなどない私

にとって1945年8月15日はまさしく終戦、戦火の終息(war-cease)、あえて

言えば敗戦どころか、われらが勝利でさえあった。国家とか国民という概念はフ

ランス革命以後に生まれたに過ぎず、たかだか200年余の歴史しかない。179

1年当時「選りぬきのドイツ人たち、クロップシュトック、シラー、フィヒテ、

ヘルダーリーンらは自由の理念のゆえに、ドイツ軍の敗退することを望んでいる」

(シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』32章)し、「ドイツ連

合軍の総司令官ブラウンシュヴァイク公が・・ドイツ軍に鋒先を向けてフランス

軍司令官を引受けるべきではあるまいかと、本気になって考えていた」(同上)こ

とを想起してみればよかろう。

もっとわが身にひきつけて言うと、あれは奇跡であった。あのときのあの想い

は、考えるほどに表現が見つからず、結局のところ奇跡と呼ぶほかないと今あら

ためて思う。事実が事実でなくなった、きわめて近い未来というより鼻先の、死

という事実が突如として消えた。瞬時にして闇が反転して、眩しい光が一杯に身

を包んだ。それは奇跡が起こったとしか言いようがない。スポーツの選手がガッ

ツポーズをする、些かはしたなくもあるが、あれと似た気分でもあったろうか。

「勝った」というより、勝ち負けをすら超えて、やはり奇跡であったと思う。

 あのとき私は兵隊をしていた。兵隊といっても四十過ぎから下の、男という男

はほとんど悉く兵隊にされた末期の、銃は一晩で錆びを噴く鋳物で、一発の弾丸

もなければ、ゴボウ剣の鞘も水筒も竹でもって自前で作るような、百姓一揆以下

の兵隊であったが、とにかく兵隊というものをしていた。そして、遠州灘の沖合

に迫る第七艦隊から今にも上陸してくるM4重戦車を迎撃すべく、蛸壺に身を潜

め10キロ急造爆雷を抱えて戦車の下に跳びこむのが任務とされた。みかん箱に

土を詰めて荒縄で縛った演習用以外に爆雷の実物はお眼にもかかったことはない

が、「卑劣なる敵はわが同胞婦女子を楯にして上陸してくる。心を鬼にして同胞婦

女子の胸板を貫いて敵を討て」などともいう。支離滅裂で嘘八百と判りきっては

いても、そう言われれば当方の死は一段と現実味を帯びる。

 前に私は、「死がすべてに浸透して」というように書いた。それは薄い膜を貼っ

た岩礁のように意識の海の底に拡がっているのであって、常に如実に感じられる

ものではない。それが露頭を現すのはこのような時で、ふと死の戦きとともに幽

かに頭を過ぎった想いは、まことに散文的で利己的でもあった。戦車の通り過ぎ

るのを待ってハンカチを振ろう。糸一筋の望みはあるかもしれぬ。捕虜になって、

あるいはアメリカに行けるかもしれぬ。いのちの危機にあって、そこまで野放図

な空想もちらりとではあるが浮かぶほどに、私はこの国に愛想もなにも尽き果て

ていた。その愛想尽かしは、中学に入って、その野蛮と下劣に驚愕して以来のも

のであったかと思う。

 この、軍と警察が黐(とりもち)のように列島全体を覆い、国民を残らず絡め

とってきた不仁の国の体制がついに滅びるとは!(司馬遼太郎をなぞれば)徳川

が創った相互密告制度の上に、明治政府の川路利良がジョセフ・フーシェの秘密

警察制度を接木して、次第に民権派の息の根を止めてその先に出来上がったのが

昭和の軍事警察国家である。アメリカの手であれ誰の手であれ、それが消滅する

とは!なんたる慶事。これで黐(とりもち)は剥されて国びとは存分に自由に呼

吸ができる。新生の慶事でなくてなんであろう。大方の知識人はそう受け取って

いた。晴れやかに「終わりましたね」と千葉医大助教授の軍医殿が言った。兵舎

近くの休学中の一高生が同じことを言った。敗戦は知識人大方の「想定内」では

あったが、なにせ兵隊は戦況を全く知らない目隠しされた戦闘奴隷。沖縄の惨状

も広島、長崎も知らずのままだったから、まさか自分が死ぬ前にそれがあろうと

は。やはり奇跡でしかなかった。

 うれしかった。なぜ加害に言い及ばぬといわれても、この際それは詮方ない。

                  (筆者は大阪女子大学名誉教授)