【コラム】
ザ・障害者(21)

改善か変革か

堀 利和

 イスラム教世界が永年にわたって原理主義か世俗主義かで抗争を繰り返してきたが、もちろんその外部要因には、ヨーロッパのキリスト教文化とその後の近代化の影響が避けられなかったことは確かであるが、いずれにしろ、私にとっては原理論と現状分析の立体的な統一、つまり原理主義か現状主義かのいずれかの二項対立に陥らないためにも「変革」の道を歩み続けることが肝要であると考える。なぜなら、後進国のロシア革命と違って先進国日本には「日本十月革命」といったものもないだろうし、また一方いくら改善を繰り返してもオルタナティブな高次の日本社会は望むべくもないであろうからである。したがって、それは永続的変革ということに他ならない。

 ところで幾分話は変わるが、世界史に今だ大きな影響を与えている4人の人物についていえば、釈迦、キリスト、マホメッド、そしてマルクスといったところであろう。マルクスもレーニン主義の下で善かれ悪しかれ地球滅亡の世界戦争まで結果的に影響を及ぼし、また一時は世界人口の三分の一が社会主義圏に属し、今なおその思想は水脈のように生き続けている。この4人の人物は歴史的制約はあるものの、おおむねそれは社会の中の異端者、例外者、浮遊者、あるいは故郷を失った高貴な身分から離れた人物であったということが言えよう。

 18、19世紀は大学制度が今日のように完成度を高めてはいないし、決してアカデミックとはいえないが、それにしてもヘーゲル、アダム・スミス、キュルケゴール、マックス・ウェーバー、ケインズ、ハイデッカーなど全て大学人であった。これに対し、ロバート・オーエン、プルードン、フーリエ、ニーチェ、バクーニン、ランボー、ロートレアモン、エンゲルス、そしてマルクス、皆在野の知識人である。

 では、現代はどうか。大学制度やアカデミックが開花した現代は、在野の知識人はほとんど価値をなさない。大学制度と学会の下に大学人は包摂され、学会を離れては学者として、知識人として生きていくことは皆無に等しく、困難を強いられる。大学制度の下に身分制度が確立された。

 このアカデミックな大学制度は、牙を抜かれた大学制度は、それが学生にまで浸透しているのだが、広義の意味での「体制」の枠組みの中に包摂される。それはまた日本においては特に、国・官僚制度との関係、審議会の審議員になることが学者としてのステイタスにもなり、しかもその傾向は人文科学系に強くみられ、また、「なぜ」ではなく「いかに」の対処療法としての現実政策に貢献できるか否か、それゆえ体制にとってなんら役にたたない例えばマルクス経済学は今や大学の講座から影を消し、学者として食えない、身分が保証されない学科「講座」は人気もなく消えていく運命にあるだろう。

 またたとえ「学」の中に身をおいていても、根源的な批判の立場をとれば、学者としてのその存在は異端者とならざるをえない。加えて大学制度は、アカデミックな学会はヒエラルキーの体制にあり、俗っぽく言えば永田町の政治家同様学者もまた「俺が、俺が」の世界、これは「オレオレ詐欺」のことではない。もちろん私の知る学者研究者はそうではなく異端的良識派であることを書き添えておきたい。

 私たちに身近な福祉学の世界では、もはや国家資格をとるための学生、専門学校生の製造工場に変質している。職業福祉家の養成課程と化している。もっとも、福祉分野に進む学生は福祉学科の2~3割程度にすぎず、これまたそれは何を物語っているのであろうか。福祉学は御用学だろうか、と自問する。
 いずれにせよ、孤立を恐れて連帯を求め、孤立を恐れても異端に甘んじ、改善より、それでもなお変革を求めていきたいと強く思うのである。

 (元参議院議員・共同連代表)

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