■臆子妄論    

拳固のまわし打ち                   西村  徹

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【前口上】
  このところ骨董の虫干しみたいなことばかり書いている。今回もその例に漏れ
ない。またかと思われそうで気がひけるが、大分前に書いてしまったのでこれも
ひとまずこのままとして、この辺で牛の涎のように続いた私の駄文そのものを打
ち切りにしたい。理由は病気になって、もう年寄りの冷や水はやめるべきだと反
省したからである。
  6月23日は異常に気温が下がった。暖房器具一切を前日に片付けたことを後
悔する程度に下がった。そして脇の下に鋭い痛みを感じながら上着もなしに小雨
のなかを歩いたのがいけなかったらしい。それとももはや手遅れだったのか、そ
れはわからない。帯状疱疹、一般にヘルペスと呼ばれているものだと分かって6
月27日から点滴やら服薬やら。それも7月5日まで延べ9日で一通りは終わっ
たが、神経痛はそのまま残った。痛いとは聞いていたが現実は「なるほど」以上
に痛い。やたらと痛い。

 病気のハナシは嫌われる。これは日記をつけない自分のための備忘録でもある
ゆえお許しねがうとして、どうやら老いの坂は平坦ではなくて、ときどき段差が
あるらしい。陽気な悲観主義者の自覚はなお消えていないが、今はすっかり気持
ちが萎えている。のどもとすぎて熱さ忘れることはありうるが、そのときまでは
閉店とさせていただき、テレビで景色でも見て暮らそうと思う。
  長いあいだ年寄りの筋トレみたいなことをさせていただいたこと、また時には
読んでいただいた方々にお礼申し上げる。

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◇義経と弁慶――危機管理


  子どものころの絵本に『拳固のまわし打ち』と題する絵語りがあった。兄頼朝
に追われて義経が陸奥の國へと落ちてゆく旅の途中、弁慶ほかの郎党が義経を囲
んで車座に座っていた。虫のいどころがわるかったのか、義経はいきなり弁慶の
頭を拳で打った。すると弁慶は「それっ!拳固のまわし打ちだ」と叫んで次に控
える男の頭を打った。順次これに倣った。弁慶の機転によって、もしそれがなけ
れば座の空気が俄かに冷え込んだであろう危機は見事に回避され、一同は手荒い
座興の呼び起こした哄笑に身をゆすった。
  この話に典拠があるのか、あるいは無稽の作り話なのか、そのあたりはまった
く知らないが、不思議にこのはなしは記憶に残っている。拳を打ち下ろす弁慶の
、少しおどけた、しかしさながら仁王を思わせる形相とともに、また呆うけて表
情のない義経の白面とともに、鮮明に記憶に刻まれている。

 絵本を読む年齢から推して昭和の初年代。しかし説明文があったから字の読め
る年齢に達していたはずで、昭和6年以後のことと思う。あるいは昭和7年かも
しれず、昭和8年、小学三年生であったかもしれぬ。幼稚で発育の晩い私はまだ
絵本を読んでいたのかもしれぬ。それとも絵本というのでなく『小学一年生』と
か『小学二年生』というような雑誌のたぐいだったのかもしれない。
  載っている絵の大半はあからさまに軍国色の濃いもので、近衛騎兵の行進とか
満州の野で戦う皇軍の勇姿などであった。これがいま靖国神社社頭で感じる既視
感、あるいは奇妙に屈折したなつかしさに結びついているらしい。富国徴兵寄贈
の大灯篭など、あそこにゆくと昭和6,7年のおどろおどろしさがいまなお消え
ずに人を圧する。

 しかし、そのような英雄的な絵は、たいていは赫奕たるその場その場の印象が
残るだけで、なにひとつ脈絡のある物語として記憶されていない。子供心には単
純に勇ましくてきまっている、今風にいうならカッコいいというおもいはむろん
あったが、ただ刺激のみがあって、そこから格別よくも悪しくも具体的なメッセ
ージを受け取るということはなかった。他の絵も「淡き夢の街東京」にしか見ら
れないものの絵が多くて、草深き田舎の子どもは一度も目にしたことのない流線
型蒸気機関車とか赤羽行きのプレートをつけた省線電車などというものだったか
ら、それに目を見張るのとおなじく目を見張るだけで現実味はなかった。


◇「抑圧の移譲」――奴隷の知恵


  ところが、この弁慶のはなしだけが、そういうローカルな珍しさではなくて意
味も脈絡もある、ひとつの完結した物語として記憶に残った。単なる感覚印象だ
けでなく中身があって、あることを確かに知ったという手ごたえがあった。すべ
てがすとんと腑に落ちたのではない。ある事柄が腑に落ちると同時にどこかに痞
えが残るものでもあった。呑みこみつつ呑み込みきれぬものが後味として残った

 子どもにはそれがなんであるかを対象化する能力はむろんなかったが、この、
わだかまるものはなんであったか、今にして思うに、こういうことだろうか。時
ならぬ事故が起こって、弁慶は機敏に、要領よくこれを捌いた。その機転,頓知
は論理的整合性もあるものとして子どもにも納得できた。危機管理の手際に少し
は感心したのかもしれない。説明文は感心させようとしていた。子どもの世界に
も似たような事はしばしばある。それをうまくごまかしてすり抜ける狡さは子ど
もにもある。子どもはよくウソをつくし、なかなかずるい。なにしろ「子どもは
大人の父」である。だから話がじつによく分かった。

 しかしおかしい。これは大人の話ではないか。大人も子どももかわらないらし
いことが躓きのタネであった。しかも狡猾がいかにも手柄として肯定されていた
。ウソが称賛されていた。ウソは子どもには禁じられていることのはずだ。そし
て、なによりも義経が理由もなく殴ったことは全く問われていないではないか。
ひとを殴ることも子どもには禁じられている。子どもには禁じられていることが
おとなの世界では許され称賛されている。いちばん悪いやつがなにも責任を問わ
れていない。それらが子ども心にも薄々ながら理不尽として心にわだかまった。
  五条の橋の上で家来になったいきさつからして弁慶には義経に対してブッテ姫
とおなじ趣味があったのかもしれないが、亀井六郎や伊勢三郎などまでがそれに
付き合わされるいわれはない。上の者、強い者が下の者、弱い者をいじめるとい
うことが子どもの世界では堅く禁じられているのに大人の世界では咎められない
らしいのが不思議でもあり新しい発見であった。大人たちの話の端々から軍隊と
いうところは日常的に上の者が下の者をいじめるらしいと子どもの耳にも入った
。それをどこかで思い合わせて矢張りほんとうなのかと確認したのだったろう。

 このように弁慶の話には、他の軍国美化の絵には隠されて語られない真実が語
られていた。テレビドラマの刑事ものでは常に警察は善玉で時代劇になるとしば
しば悪玉になるのに似ているかもしれない。ことによると作者は時代ものの弁慶
に托してひそかに軍隊のみならず社会の実態を暴露しようとしたのかもしれない
。勧進帳などで美化される義経―弁慶像を根底からひっくり返して、義経をわざ
わざ偶像破壊的に画くにはなにか含みがあってのことに思われる。作者は相当な
サティリストなのかもしれない。
  拳固のまわし打ちとは、丸山真男が後に概念化した「抑圧の移譲」そのもので
あった。丸山真男が言う以前から軍隊には「申し送り」という言い方があった。
上から下へと暴力行為を伝達してゆく仕組みを言う。奴隷が奴隷制度の存続に協
力することを意味していた。人間関係の物象化をいう以前の、奴隷的であるかぎ
りにおいて人間的な仕組みであった。ウソと暴力は常に離れがたく絡み合ってい
る。たしかソルジェニーツィンがノーベル賞受賞式の演説でそのように言った。
抑圧と暴力が生み出す屈辱を韜晦する、民衆のたましいのため息のような、苦く
て黒いユーモアが軍隊には少なくなかった。弁慶の智惠はまさに奴隷の知恵であ
った。
                  (筆者は堺市在住)

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