戦後70年の今、僕らに大事なのは戦争観

三上 治


◆◆(1)

 戦争が近づいているという匂いのようなものを人々が感じはじめていると感じたのはいつのころだろうか。木々康子さんの『敗戦まで』(1999年)のころであろうか。この小説は知識階級、いや中産階級の分別も批判力もある人たちが、気が付けば傍観者の立場に置かれてしまい戦争に巻き込まれてしまう過程を描いている。いつの間にか水位が増してきて、逃げのびるのに精いっぱいになってしまった世界を描いている。

 この小説は第一次世界大戦の後の反戦運動や平和運動の表層的な性格も析出していてとても衝撃的だった。けれども、まだ、戦争まではという思いも強かった。2001年の9・11事件があって当時の小泉首相がブッシュ政権の戦争を支持し、アメリカの反テロ戦争に追随して自衛隊の海外派兵に踏み切ったころだろうか。多分。この時期には戦争体験を持たない世代が国家権力の中枢を占めるようになる時の不安を感じさせるものだった。

 保守派であれ、革新派であれ戦争体験が重くある面々が国家権力の中枢にある時の安心感が消えて行くのを感じたし、戦争に対して軽い世代の登場に危惧を感じた。けれども、まだ、この時点では戦争が近づいてきているという思いはなかった。やはり、これは割と近いことかもしれない。もちろん、いうまでもないことだが、戦争が可能になったのかといえば、それへの否定的な気持ちも強いものがある。現在の政府もまた、戦後の歴代の政府と同じように戦争担当能力などありはしないと思える。この感情は相当なものである。

 しかし、最近、僕の中にある疑念も膨らんでいる。意外に戦争をやってしまうのかしれないという思いである。BSテレビで大リーグも野球を見ていて思うことがある。アメリカはアフガニスタンやイラクで戦争をやっているのであるが、アメリカ人は戦争をどう見ているのかと思う。そのことをしばしば思うのであるが、野球に熱心な人々の意識にとってアフガニスタンやイラクでの戦争はどう感じられているのかということである。誰か、自分とは関係がない人々がやっていることだと思っているのか、それは外見であって内心はちがうのか。

 僕はこれを見ていて政府は勝手に戦争をし、国民もそれを受容してしまうのではないのかと思うのだ。戦争は偶然的な契機で起こることが少なくないが、一旦、起これば結構つづくのだ。戦争の構造が変わりつつあるのではないのか。
 いずれにしても戦争についての雰囲気(環境)が変わってきているのは確かである。そしてここが重要な点だが、戦争についての明確な考えを確立することの困難性を実感している。こちらが不安を増大させてもいるのだ。

 顧みれば戦争についての本や雑誌はおびただしく存在してきたし、現在もまた出版され続けている。僕らも戦争についての多くの論議や政治的意思表示をやってきた。しかし、指南力のあるというか、説得力のある戦争についての認識や理念を創出しえた実感はない。戦争についての考えや理念は解体が進んで現在に至っているが、それを超えて行くと思われるものには出会ってはいない。

◆◆(2)

 これには二つの事柄があるように思う。一つは、かつて日本は第二次世界大戦を枢軸国として闘い敗北したが、この日本にとってあの戦争がなんであったのかの思想的な析出(反省や総括)がなされきってはいないことがある。これほど戦争についての議論を積み重ねてきたのだから、反省や総括がないとはいわせない。そういう声も聞こえてくるが、僕は本当のことはできていないと思うこと大なのである。かつて鶴見俊輔は日本はまだ「武器よさらば」という考えはないと述べていたが、戦争についての深められた思想は不在なのである。

 戦後にあの戦争についての理念的な枠組みを与えたのは米ソを中心にする戦勝国であった。戦勝国が戦争を裁き、敗戦国が裁かれるのは無視できないし、それをあれこれ言っても致し方ない。それをとやかく言っているのではない。ただ、この戦勝国の立場において確立した理念は、戦後過程において相対化し解体する過程にある。このことを指摘したい。戦後に戦勝国の理念は当初は絶対的なものだった。そういう支配力を持ってはいた。

 今、それは相対化され解体過程にあるのだ。かつて戦後50周年を迎えたときにこのことは実感できたのであるが、今70周年にあって一層そうなのである。このことは、それを受け入れた第二次世界大戦における日本の立場を規定する理念も同じである。一般に右傾化といわれる事態はこの事と深く関係している。第二次世界大戦を規定した理念の枠組みが世界史のレベルで相対化され、解体していることは歴史的修正主義も含めた右翼的傾向の戦争観を浮上させている。右翼的傾向の戦争観の浮上を問題にするよりは、戦争についての戦後の世界的枠組みの解体という基盤のことに注目すべきである。進歩派であれ、反動派であれ、戦後の世界的枠組みに依拠して戦争観を形成しているのであれば、それが相対化と解体を免れないのは必然である。

 もう一つは、戦争論というか戦争についての思想(考え)が構築できていないということがある。戦争論とは国家論のことであると言い換えていいが、国家についての明瞭な考えが形成されていない状態が続いてきているのである。第二次世界大戦後の世界では依然として戦争が継続している一方で、戦争もまた大きな変容を経験している。この変容は新たな戦争観(国家観)を必要とするのであるが、誰もこれには対応しえていないのである。

 左翼的な立場でいえば、マルクスの戦争観もレーニンの戦争観、あるいは毛沢東の戦争観も、現在の戦争を認識し、それに対する戦争観の役割を担えない。それに替わるような戦争観も国家観も不在なのである。左翼はレーニンの『帝国主義論』による帝国主義戦争という概念に依拠してきた。植民地化とその抵抗も含めていいのだが、帝国主義戦争論は現代の戦争を思想的に析出できるものではない。核兵器による主権国家間戦争の不可能状態も、人種的・宗教的な地域紛争は帝国主義戦争の概念では理解できない。僕はシモーヌ・ヴェーユの戦争観や非戦という考えに注目している。

◆◆(3)

 国会の周辺で集団的自衛権行使容認の閣議決定に抗議し、異議申し立てをする人々の口々に出てくる言葉が「戦争反対」や「憲法守れ」、「九条守れ」というものであることに驚いている。これは1960年安保闘争の日々に人々が口にしていたものである。

 僕の驚きは感銘を受けるということでもあるのだが、これは僕が先に、戦後の世界的な枠組みの戦争観の解体とか戦争観の不在と言ったこととどう関係するのだろうか。僕は、戦後の国民のレベルで続いてきた戦争についての考えと、国家や知識人(政治家や言論人)の考えとの差をそこでみている。いうなら民衆(国民)の中にある戦争の意識は非戦の意識を含め、かなり根強く持続的なのに対して、国家や知識人の側の戦争観は相対化と解体の中で揺れ動き現在に至っているということだ。
 国家が戦争のできる体制の構築に向かっている中で有効に対処できないという僕らの危機感は、国家の動向に異議申し立てをする側の戦争観の不在の問題にあるということだ。戦後70年の今、僕らは戦争についての揺らぎのない考えを形成しえるかどうか、問われているのだということにほかならない。

 僕らは戦後過程の中で戦争について考え、また、戦争に向かう体制の構築を志向する動きに抵抗してきた。その運動にも関わってきた。その中で不断に疑念を持ち自問してきたことは、日本人が戦争について、とりわけ太平洋戦争について自分の考えを確立してきたのかということだった。端的に言えば、日本の政治家や知識人は敗戦後、米ソ(戦勝国)の枠組みから与えられる戦争観に乗り移り(便乗転向し)、そこから脱しえないできたということだ。

 そしてそれを乗り越えようとしてきた僕らも道半ばというところにあるのではないのか。僕らが戦後の政治家や知識人の戦争観に疑念を抱いたのは1960年安保闘争を契機にしているが、同じような疑念を持って登場してきたのは戦中派と呼ばれる知識人であった。吉本隆明、谷川雁、三島由紀夫、橋川文三、上山春平などであった。戦争についての考えを検討しようとすると彼らの遺したものに触れないわけにはいかない。

 ここでは上山春平の『大東亜戦争の遺産』(1972年・中公叢書)として刊行されたものを取り上げてそれを検討してみたい。

 この著作は戦後に流通していた太平洋戦争観(大東亜戦争観)に異論を唱え、同時に現代国家論の試みとしてなされたものである。戦争について、とりわけ第二次世界大戦における日本の戦争の規定(太平洋戦争史観と呼ぼうが大東亜戦争史観と言おうが)に疑念を提起し、独自の規定をやろうとしたものである。僕らが今、戦争について理念(規定)を欲する時とても良い素材になると思う。

 『大東亜戦争の遺産』に収められている論文は主に1960年代に書かれたものである。1961年の「大東亜戦争の思想史的意義」(本書の㈵)は雑誌『中央公論』に発表されたものだが、収録されているものは対談も含めて大半がそうである。この本は上山春平著作集(全10巻)の3巻(革命と戦争)にも収められているが、ただ、これ以降の彼の戦争への言及はあまりみられない。

 「最後の回天特攻隊」(1980年)、「大戦の経験から」(1983年)、「日米開戦50周年に寄せて」(1991年)、「PKO法案について」(1992年)などだけでいずれも著作集の3巻に収載されているが、残念な気がしないでもない。1970年代以降に天皇制や日本文化についての優れた考察を残しているのだからである。

◆◆(4)

 上山春平が敗戦の報を聞いたのは潜水艦(イ号363)の中だった。彼は敗戦を回天特攻隊員として迎えたのである。彼は特攻に二回ほど出撃しているが、敵に遭遇せずに次の機会を待つ間に敗戦になったのである。この経験は作家の島尾敏雄と似ている。島尾敏雄は震洋艦隊と呼ばれる特攻部隊を率いてその隊長であった。彼らは特攻としての出撃を待機する間に敗戦を迎えたのである。

 敗戦を境に第二次世界大戦における日本の立場は180度転換した。それは枢軸国側の立場にあった日本が連合国側に敗戦し、その立場(価値観)を受け入れたからである。これは「大東亜戦争」が「太平洋戦争」に呼び名が変わったことが象徴した。「皇国日本」が「ファシズム」に、「鬼畜米英」が「民主主義」に。また「東亜新秩序建設」が「植民地侵略」に、過去の評価は逆転した。

 敗戦によって戦争の肯定が否定に転じたことであるが、この転換を上山達がすんなりと納得できなかったことは想像できる。これは多くの戦中派の思想家にみられることである。便乗転向の尻馬に乗った若者も少なからずいたことは確かであるが、納得できずに沈黙し、また、それを特攻崩れのような行状としてあらわした人も多くいたのだ。

 ここには二つの疑念があったと思われる。一つは戦勝国の立場というか、戦争の評価に対するものであり、もう一つは戦勝国の立場を受け入れた面々やそのありかた(便乗転向と呼ばれる)への疑念である。これは一夜にして「民主主義者」になった政治家、言論人、学者らへの疑惑と言ってもよかった。なぜならこの転向はあちら側の立場への移行であって、「大東亜戦争」をこちら側として戦った立場からの反省によるものではなかったからである。特攻隊員として命がけで戦ったものとすれば、内在的な反省を欠いた立場の移行など許せるはずはなかったのである。

 そこで彼が最初にやったことは戦後に一般化していた「太平洋戦争」という呼び方を「大東亜戦争」という昔の呼び名に戻したことだった。当然、これには反発を生んだ。彼がこれを書いていたころ、林房雄の『大東亜戦争肯定論』(1963年〜1965年)が出ていて、こうした呼び方をすることは第二次世界大戦における日本の立場の肯定ではないかという疑念を生んだからである。大東亜戦争という言い方は、戦後はタブーだったのである。これに抵抗のある人は15年戦争と呼んだ人もいる。

 林房雄はあの戦争をアジア民族解放戦争として戦ったとする戦前の立場を継承する。上山の呼び名の変更は林と混同され反発を招いた。彼は林と違って大東亜戦争を肯定しないで否定している。

 例えば、彼はあの戦争を、侵略戦争であり植民地再編の戦争とみる立場に立っており、林の植民地解放戦争とは違っていたのである。彼は戦勝国の立場に立つ戦争の規定や戦争観(史観)に批判的ではあるが、だからと言って第二次世界大戦における日本の立場に肯定的であったわけではない。彼は戦勝国の立場に立つ否定ではなく、日本の一員として立場からの反省としての否定の立場に立とうとしたのである。林は大東亜戦争の肯定、つまりその史観にあったが、上山はその否定の立場だった。

 戦勝国の立場の戦争規定や史観の否定は、例えば東京裁判など、戦争期の日本の立場の肯定(林房雄や右翼)になりがちだが、彼は戦勝国の立場も敗戦国の立場もともに否定する立場で自己の考えを展開する。戦勝国と敗戦国との間の二項対立的な構図を超えてあの戦争を析出しようしたのである。ここが、この本の魅力的なところであると同時に、最も難しいところでもある。

 現在でも戦争について考えるときに示唆されるものが多いと感じる根拠をなしている。ここが現在に通底しているのである。先のところで述べたように戦勝国の戦後の戦争観が解体と相対化に晒されるとき、この二項対立を超えたものがもとめられるのは必然である。

 彼は戦勝国の立場にある戦争観を「太平洋戦争」史観、「帝国主義戦争」史観「抗日戦争」史観というように分けながら、敗戦国としての日本の戦争観を「大東亜戦争」史観と分類する。この戦争観は前者の三つが戦勝国のものであり、戦後の戦争観の支配的な枠組みを作ってきた。これは自由主義的な戦争観、マルクス主義的戦争観と言ってよいが、人民戦争観(革命戦争観)である。

 戦後直後のような絶対的な立場を失い相化してきた過程にある。それはこれらの戦争観が立つ国々が否定してきたはずのファシズム的な戦争と同じことを演じてきたからである。アメリカや欧米諸国は、戦後のアルジェリア戦争—ベトナム戦争—アフガニスタン戦争をはじめ、かつての敗戦国と同じことをやったのだ。こうした過程は彼の次のような言葉に要約される。

 「こうして、わたしたち日本国民の大多数が支持した「大東亜戦争」史観も、それを裁く側に立ったもろもろの史観も、次々に絶対性を失って、相対化されてきた。この体験を大切にしなければと思う。なぜなら、そこには重大な真実の認識のいとぐちが用意されているからだ」(大東亜戦争の思想史的意義)。

 彼は敗戦後に絶対化された戦勝国の史観(太平洋戦争史観、帝国主義戦争史観、抗日戦争史観)がもともと相対的なものであるという。その理由は主権国家間の戦争においては国家的な価値判断(尺度)がついてまわるのであり、それは相対的である。戦争は国家の属性であり、戦争勢力としての国家が、戦争行為のゆえに他国を倫理的に批判したり法的に処罰したりすることは背理である。

 上山は主権国家間の対立である戦争においては主権国家を裁くものは存在しないという。戦争を裁き、処罰できるのは戦勝国と敗戦国を超えるものにおいてのみ可能であり、これは国家的な価値尺度を超えたものにおいて可能であるという。戦争の肯定を内包する国家的な価値判断を超えた、戦争そのものの否定という立場だけがこれを充たしえる。

◆◆(5)

 戦争の問題は戦後の日本においては憲法、とりわけ憲法九条の問題としてあわわれてきた。憲法九条は主権国家間の戦争を否定した画期的な規定である。国際国家的な規定として先進的なものである。その存在は複雑な過程と展開のなかにあったことはいうまでもない。上山はこれを『大東亜戦争の遺産』として評価する。上山は当初は憲法九条を戦勝国の押し付けたものとして否定する気持ちが強かったらしいが、時間をかけた戦争の検討の中で変わってきたという。

 戦勝国と敗戦国の戦争観(史観)を、国家的尺度の引きずったものとして相対化し、その二項対立的な構図を超えるものを、この主権国家間の戦争を否定した憲法九条に見出すのである。憲法九条がアメリカの初期占領軍の意向としてもたらされたものであること、いうなら「太平洋戦争」史観の所産であった側面は否定できない。

 他方で憲法九条は日本国民の戦争否定の表現であったことも疑いえない。「大東亜戦争」史観に対する国民の否定の反映であり、その意味ではそれの遺産と言ってよいのである。憲法という観点でいえば、憲法九条は国民の意思が最もよく反映されていて、国民主権が詰まっているともいえる。戦後憲法の象徴的役割を果たしてきたのである。

 戦争にとって大事なことはそれを担った兵士や国民が何を考えたかである。戦争は国家が勝手にはじめ国民が同意を強いられていくものだが、戦争の担い手は兵士や国民なのである。聖戦として「大東亜戦争」を支持し、戦った国民や兵士は、その反省としてあらゆる戦争の否定というところに達したのであり、その結晶が憲法九条である。聖戦から非行(蛮行)というところに戦争観を変えたのは戦争経験であり、その転換は便乗転向のようなものではない。そこが一番大事な点である。

 アメリカは「良き戦争と悪しき戦争」という枠組み(太平洋戦争史観)から憲法九条を提起したのだろうが、日本国民は「あらゆる戦争の否定」という枠組みでそれを受け入れ、保持してきたのである。この差異はアメリカが初期占領政策を修正し、憲法九条の改正を要請したのに、日本国民が拒否してきたこととして現れた。この差異は現在まで続くものであり、アメリカ側の要請の否定として機能してきた。ベトナム戦争などへの日本(自衛隊)の出兵要請を拒否する根拠となってもきたのである。集団的自衛権行使が容認されようとしている今、ここは立ち止まって考えなければならないところである。

 憲法九条の改正を要求してきた保守や右翼は戦後の太平洋戦争史観の否定と大東亜戦争史観の肯定に立とうしてきた。彼らには大東亜戦争の肯定についてはいろいろあるが、主権国家間の戦争を肯定していということが本音としてある。ある意味ではここが憲法九条の難しいところでもある。あらゆる戦争(主権国家間戦争)を否定するという思想は現状では世界的に孤立する状態にあるからだ。

 世界はまだ戦争が継続していると同時に、戦争は不可能(先進国間の戦争は不可能ななりつつある)という矛盾的な状況にある。憲法九条は国際的な孤立とともに時代を先取している、という矛盾のなかにある。この矛盾に対する解決としてでてきたのが、さしあたって自衛という概念であり、自衛の戦争ということだった。

 僕は憲法九条から常備軍なき国家という先進的な国家形態を構想すべきだと考えてきた。自衛というのは侵略などに当面した時の諸個人の対応であり、そこで発生する軍事的抵抗でいいのだと考えてきた。侵略に対して無抵抗というのではなく、僕らはその場合に武器を手にして戦う。無抵抗でそれを受け入れはしない。これは国家の軍隊に自衛を委託するということではない。国家の軍隊が国民の生命を守る存在であるとはおもえないからである。旧日本軍隊の満州や沖縄での振る舞いをみていれば、こういう認識は当りまえのことだと思う。

 ここで戦後左翼のことに触れてみる。戦後の左翼はマルクス主義の戦争観にあった。帝国主義戦争史観か人民戦争史観(抗日戦争史観)に依存してきた。それを中心で支えていたソ連は崩壊し、中国は変質することでこの論拠は通用性を失った。アメリカに対抗するもう一つの側(ソ連圏・社会主義圏)に立つ戦争観は進歩派の立場であったが、これは解体し、言葉だけが残滓として残っているだけだ。

 これはかつてのソ連や中国が主権国家間の戦争を肯定すること、反戦や平和論が政治主義的なものであったことを物語る。彼らは第一次世界後に提起された非戦の思想に立てなかったのであり、主権国家間戦争を否定する戦争観に立てなかったのである。マルクス主義の戦争観は非戦論とは関係がないことで、現在性を失う必然にあるのだ。その信奉者は言葉を失っている。

 憲法九条の関係でいえば、戦後に日本共産党は憲法九条を否定した。それはマルクス主義が主権国家間の戦争を肯定していたからであり、あらゆる戦争を否定するという戦争観に立てなかったからである。憲法九条の画期的意味も国民の戦争観の転換も理解しえなかったことを意味する。新左翼は人民戦争史観(抗日戦争史観≒革命戦争観)にはまり込み、憲法九条や非戦論の評価に戻ってきたのは1970年代の半ば以降だった。

 それも一部にとどまっているのではないのか。国会周辺での「戦争反対」「憲法守れ」という声を聞きながら、思うことは非戦と憲法九条に代表させる戦争観の立場に立つことの重要性である。これは戦後の戦争観の解体と主権国家戦争観の浮上、あるいは地域紛争の展開中で世界的に孤立を強いられるが、そこしか可能性はないのである。

 (筆者は政治評論家)


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