【コラム】
『論語』のわき道(25)

我慢(二)

竹本 泰則

 我慢という言葉を耐え忍ぶという意味で使うのはわたしたち日本人だけの特殊な用法ですから、この言葉を中国の人に向かって、その意味でいっても通じるはずがありません。日本語の我慢の意味を含む漢字といえば、忍、耐、堪などでしょうか。
 これらの字を『論語』に探すと耐の字は見えません。忍が二つの章で使われており、堪が一章にあらわれるのみです。『論語』の世界である人間修養には我慢を強いられる場面がふんだんにありそうですが、その意味をもつ字の登場回数は意外に少ないのです。

 忍の字の用例をみてみます。
 古代中国の雅楽の舞は、儀式を主催する人の身分に従って作法が違っていたようです。規模が一番大きく、天子のほかには許されない特別な様式は、舞い手が八人づつ八列に並ぶ八佾(はちいつ)と呼ばれる舞でした。
 孔子の時代、その故国・魯では、君主の分家筋に当たる三つの家系の出身者が政治を牛耳り、その専横があからさまでした。そのうちの一人がこの八佾の舞を自邸の庭で舞わせたことを耳にした孔子が発した言葉です。

  これをも忍(しの)ぶべくんば、 いずれをか忍(しの)ぶべかざらん

 このふるまいを我慢できるくらいならば、ほかの何であれ我慢できぬことなどありはしない

 つまりこの僭越、非礼には我慢ならないと、礼に厳しい孔子がおおいに憤慨したというはなしです。
 もう一つの忍も孔子の言葉です。

  巧言(こうげん)は徳(とく)を乱(みだ)る。
  (しょう) (しの)びざれば、則(すなわ)ち大謀(たいぼう)を乱る

 岩波文庫の『論語』の現代語訳(金谷治)を引くと「言葉上手は徳を害する。小さいことにがまんしないと大計画を害する」となっています。これだけでは、いま一つ含意が見えません。忍が入っている後段のフレーズをとっても、 「小さいことにがまんしないと」はいいのですが、「大計画を害する」は意味するところが分かりにくい。

 素人なりの解釈になりますが、大謀とは大きな、あるいは重要な計画・企画、はかりごとといった類のことと考えられます。「乱る」はととのわない、成就しないの意にとっていいだろうと思います。つまり「些細なことに我慢ができず、それにかかずらっているようでは、重要なはかりごとを成し遂げることはできない」と解釈できそうです。大事の前には些事は捨ておけといっているように感じます。これをさらに踏み込んで「小さなことなどには目をつぶるくらいの度量がないと大事は成し遂げられない」といったニュアンスを含むくらいの読みをすることもできるのではないかと思ったりします。

 つぎに堪の字が出る章句です。

  (けん)なるかな回(かい)や。
  一簞(たん)の食(し)、一瓢(ぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在(あ)り。
  人はその憂いに堪(た)えず。回やその楽しみを改めず。
  賢なるかな回や。

 えらいものだね、顔回という男は。食事といえば一膳の飯と一杯の水だけですませ、住んでいるところといえば路地裏だ。ほかの人だったらそんな苦しい生活に我慢できないだろうが、あの男はその中でも、自分の楽しみを変えることなく保っている。本当にえらいものだね。

 孔子が顔回という愛弟子を評した言葉です。
 文意を離れますが、この我慢には異論があってもいいのではないですかね。
 貧乏が楽しいはずはない。むしろ暮らしがよくなるように生活を改善することに努力すべきだ(もちろん、その手段はまっとうなものでなければならないが……)と、こんなことをいう解説書があっていいように思いますが、見た覚えはありません。

 フランス文学者の桑原武夫は、その著書 『論語』 の中で、文中の楽しみとは「顔回がみずから楽しんでいる簡素な学研生活」であり、顔回の「単純生活には『その楽しみ』といいうるだけの独特のスタイルが 単純のうちにあったにちがいない」といっています。
 子安宣邦(日本思想史や倫理学の学者)という先生は、この章の評釈において 「我々はこの孔子の言葉によって、『一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在』ってなお楽しみうる生のあることをはじめて知る」としています。

 「一簞の食、一瓢の飲」……この章は語呂が大変いい。文章にリズム感があります。かつてこの句が人口に膾炙した(『広辞苑』は慣用句として載せています)のは、内容もさることながら、このことも影響したのではないでしょうか。

 話はさらにそれますが、あらためて辞書などをめくっているうちに、漢字についても、今まで知らずにいたことにも出くわしました。

 簞は竹を編んで作られたふた付きの容器で飯などの食物を入れるものらしい。早い話、弁当箱みたいなものでしょう。
 瓢はもともとはウリ科の植物をあらわす字で、わが国ではその実をひさごとか、ひょうたんと呼ぶようです。実の内部をくりぬいて乾燥させ、酒などを入れる容器としました。今もあるようですが、実用品というより、縁起物、飾り物の類でしょうか。また、これを二つに割って水をくむ道具であるひしゃくとして使ったりもしたようです。
 ユウガオの実にも瓢の字を当てるようです。こちらは和語ではふくべというそうですが、これをひも状に剥いで乾燥させると干瓢(かんぴょう。乾瓢とも書く)という食品になります。

 簞の類字に笥(し)という字があります。簞は前述の通り竹で編んだご飯入れですが、円形で小型のものをいい、 方形で大型のものは笥といったそうです。中国には二つを総称する簞笥(たんし)という言葉があります。簞笥とは飯を入れる器、たとえば弁当箱とかお櫃(ひつ)などを総称していう言葉だと説明されています。

 それが、日本では「たんす」と読んで衣服などを収納する家具の名前になってしまっています。この形の家具が登場したのは案外に新しく、近世以降といいます。衣裳箪笥のほか刀、生薬など様々なものを収めるための専用の道具が作られたようですが、それらをまとめて簞笥と呼んでいたそうです。この言い方がそのまま現代まで続いたというわけです。

 ところで、東京の新宿区には箪笥町(たんすまち)という地名があります(地下鉄・大江戸線の牛込神楽坂駅近近)。東京都公文書館によりますと、江戸時代、この一帯には幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷があったのだそうです。そして当時は、幕府の武器類を「箪笥」という呼び方で総称していたといいます。そのためにこの一帯が牛込御箪笥(おたんす)町という町名になり、現在の町名に至ったということです。

 ついでながら、江戸市中の御箪笥町は、ここ以外にも現在の新宿区内に2か所、港区六本木辺りと台東区根岸あたりにそれぞれ1か所あったらしいのですが、現在の町名には残っていません。

 我慢という言葉から脱線して箪笥の話になってしまいましたが、この二つの単語をなぞってみても、いまの語義はもともとの意味からかけ離れています。日本人は漢字を使いながら、それぞれの字の意味にはいい加減だったというか、ずいぶん乱暴な言葉の使い方もしていたものだと感心しきりです。

 (「随想を書く会」メンバー)

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