【コラム】
『論語』のわき道(24)

我慢(一)

竹本 泰則

 コロナ禍のもと、我慢の日々が続きます。

 漱石の『道草』の中には「我慢」という言葉が八回ほど出てきます。しかし同じ我慢なのに意味はひとつではありません。
 最初にあらわれる我慢はこうです。

 「彼は自分の脈を取って見て、その早いのに驚ろいた。指頭(しとう)に触れるピンピンいう音が、秒を刻む袂時計(たもとどけい)の音と錯綜して、彼の耳に異様な節奏を伝えた。それでも彼は我慢して、するだけの仕事を外でした」

 現代の者にも普通に読みとれます。
 一方、別の箇所にはこんな表現があります。

 「我慢な彼は内心に無事を祈りながら、外部(うわべ)では強(し)いて勝手にしろという風を装った」

 こちらの我慢は何やらわけが分かりません。
 困ったときの『広辞苑』 。早速、「我慢」を引いてみました。「①自分をえらく思い、他を軽んずること。高慢。②我意を張り他に従わないこと。強情。③耐え忍ぶこと。忍耐」などとありました。漱石の後の方の我慢はどうやら②の強情の意味だろうと合点はできたものの、我慢に高慢、強情、忍耐といった三通りもの意味があることはちょっと意外でした。それにしても、これら三つの意味はどうつながるのか、 そもそも互いに関係があるのか、興味をそそられます。

 漢和辞典をみると我慢は仏教用語としています。意味は「自己を固定した実体とおもいなして、おごり高ぶること」とありますが、仏教の知識がないことには分かりにくい説明です。さらに続けて、日本では「こらえしのぶ」、「忍耐」といったような使い方がされるとの注記があります。どうやら、我慢という熟語は、中国では本来の仏教用語としての意味しかない、したがって日常の会話では使われない言葉だろうと思われます。一方、わが国では本来の意味とは離れて、別の意味で普通に使っているということでしょう。

 もとが仏教となると生半可な素人の付焼刃ではとても歯が立たない世界と承知しながらも、少しばかり探ってみました。もっともらしいことを書き並べたりしますが、門外漢の憶測混じりであります。

 仏教には、この世の一切は苦である、つまり人生は何事も思い通りにいくものではないという思想が根本にあります。そして、多くの人々はこのことを正しく理解していないから、いろいろと煩い、悩むことになる、つまり煩悩にとりつかれてしまうと考えます。

 数ある煩悩の中でもとりわけ始末の悪いものとして「貪(とん)瞋(じん)痴(ち)」(むさぼり、いかりやうらみ、無知に基づくまよいなど)を挙げ、これらには三毒などという刺激的な呼び方までをしています。この三毒に次ぐ重大な煩悩とされるのが「慢」です。

 慢とは自分が他人(ひと)よりすぐれていると思い違いすることによって生じる心の驕(おご)りをいうようです。普通に言う自慢と同じように考えていいのかもしれません。
 力自慢といえば力があること、力が強いことを誇ることですから、我慢とは我があることを自慢する、あるいは我があると見誤って驕ってしまうことと言いかえられそうです。しかし、こう言いかえても何のことやらわかりません。どうも我慢というときの「我」は自分自身をいう代名詞の「我」とは意味が違う感じです。

 仏教に特徴的な考え方、つまり古代インドで生れたほかの思想とは異なる考え方に、よく知られた「諸行無常」がありますが、これと並んで、もうひとつ「諸法無我(しょほうむが)」という思想があります。仏教では法という字をいろいろな意味に使うようですが、ここでは事物、存在をいうようです。したがって諸法無我とは、すべての人や物や事象は無我である、どこにも我などはない、そのような考え方のようです。

 「われ思う、ゆえにわれ在り」などという言葉がありますが、仏教でも飲んだり、食べたり、考えたりする「われ」という存在は認めるだろうと思いますが、その「われ」は明日もそのまま変わらずに存在しているとは限らない。また、今存在しているといっても、そのことは自分の意思や考えには関係しない、たまたまの縁起(原因と条件)によって存在しているだけだと考える。従って、自分のことは何でも自分が決めることができる、誰もいなくても自分一人でやっていけるなどということはあり得ない。こうした考え方をいうのが「無我」という言葉だろうと思われます。

 人は自分一人だけで存在しているのではない。他人からまったく影響を受けないで生きているということはなく、必ず他者となんらかのつながり・むすびつきをもっているという思想にはうなずけます。自給自足の生活ができたとしても、病で亡くなることもあれば、気候の変化に耐えられず死ぬことだってある。生きていることは、自らの力だけではなく自分では制御できない様々な条件にも依存していることも理解できます。

 「自分のことは自分で決める」、「他人の世話にはならず、一人でやっていく」といった主義を押し通す人もいます。その覚悟は大変に立派ですし、こういう姿勢も大事なことには違いありません。しかし、それはいわば人生観の問題であって、人生観はどうあれ、過去、現在、未来にわたる自分という存在、それを規定している原理・公理というべきものが厳然とある、いいかえれば、自分という存在ひとつにしても、それは自らの力、意志には関係しておらず、自分の外にある縁起次第で移ろってしまうかりそめに過ぎないという考え方だと思います。

 仏教でいう我慢とは、自分(我)が生きる(存在してゆく)上で根底をなすこの道理を見くびる、あるいは、あなどる(慢)ことであり、これが我慢という語のもともとの意味をなしていたと考えられます。
 このような我慢のある人は、えてして人のいうことをきかない、早い話が強情だろうと思います。
 そこから我慢が強情に通じていったのではないでしょうか。

 強情の意味がさらに忍耐という意味に通じていくことに気づかせてくれるのが、五代目志ん生の十八番だった『強情灸(ごうじょうきゅう)』です。このことを興膳宏という中国古典文学の先生のエッセイで知りました。
 落語のすじを文章にするなどは無粋の最たるものかもしれませんが、あえて……。

 「以前はてぇと、町内に一人や二人は、実にどうも我慢をする人がいたもんですな」
 この前置きから始まる二人の強情な男のお話。

 一人が、体には効くけれども大層熱いということで江戸市中でも評判だった「峰(みね)の灸(きゅう)」をすえてきたと自慢します。
 係りの男が「えー、この灸はお熱うございます。身体のためでございますから、どうぞ我慢なすってくださいまし」と駄目を押す。
 「なにいってやがんでぇ。たかが灸じゃねえか。べらぼうめ。背中で焚き火をするわけじゃあるめぇ」。
 こう啖呵をきった上で、一つずつでも熱いという灸を、順繰りではなく一時(いちどき)に火を点けさせ、我慢し通したと大威張りです。

 聞いていたもう一人、こちらも強情だから相手が我慢強いとは認めない。
 「何いってやんでぇ。豆粒みてぇな灸をすえやがって。おれの灸のすえかたを、よくみとけッ!」とアイスクリームほどあろうかという大きなもぐさのかたまりを腕の上に盛って火をつけ、そのうえ団扇であおぎ始める。
 だんだん熱くなってくるのを必死に我慢するときの口上やしぐさがこの演目の山場ですが、それはともかく、こちらの男も強情を張って我慢を続け、おしまいに「落ち」で笑わせるというお話です。

 強情を通すには忍耐が強いられる。そこから語意もそのように変化していった……少し無理がありましょうか。

 我慢という言葉についてこの国での使われ方の履歴を推し量ってみますと、最初は仏教とともに渡ってきて、高慢を意味する言葉として受け入れられた。その後、意味が変化して強情をいう一般の用語になり、やがて忍耐の意味に移っていった。二つの新しい使い方は少なくとも明治の終わりころには並存していた。しかし現代では忍耐の意味だけが残っている、こういうことではないかと想像する次第です。

 日本語には我慢と同じような意味を持つ言葉が多いように思います。忍耐、堪忍、隠忍などは漢語そのままで使っています。そのほかに本来の語義とは外れて我慢の意味に使うものに勘弁があります。さらには、使ったことも聞いたこともないのですが、料簡(了簡・了見とも)も我慢の意味で使う(使った)ようです。さらには、辛抱もあります。これは由来もはっきりせず、わが国独特の熟語のようです。

 我慢は中国の言葉ですからもとは外来語といえましょう。和語には「こらへ(こらえ)」があります。これを岩波の古語辞典では「堪へ」と表記しています。ところが漱石は『道草』の中で違った字を当てます。
 「今まで我慢に我慢を重ねて怺(こら)えて来たような叫び声を一度に揚げると……」と「怺」の字を使っています。この漢字は国字といって、日本人が考えて作り出した、いわば「和製漢字」だそうです。辞書にはこらえる意味の国字として躵という字も出てくるのですが、こちらはあまり見かけません。

 こうしてみると、私たちの祖先は既成の言葉だけでは飽き足らず、もともと意味が異なるほかの語を使ったり、新しく熟語や文字を考え出したりするほど、我慢にこだわったと想像することもできます。
 そうであるならば、この国に「我慢の文化」というようなものがあることを示唆しているのかもしれません。我慢はいいことであり、それを美徳とするような思想です。先ほどの『強情灸』の中にもそれらしい部分があります。

 峰の灸をすえた男ですが、必死に灸の熱さに耐えながら、自分の振る舞いを見ている女性の心のうちを妄想します。
 「まぁ、この人ァ、なんて我慢強いのでしょうねえ。本当に男らしいわ……こういうような人を、わが夫に持ちたいものだわねえ……」。

 何もお灸を我慢することが立派なわけはないでしょうけれど、我慢するのは男らしいとほめられることにされています。
 こんな安っぽい我慢など美徳とはいえないことはたしかですが、反対に、何ていうことはないのに、すぐ音をあげてしまう、このような我慢不足はいただけません。この意味で、我慢強さをもって人の「芯の強さ」の指標と考えることは不自然ではないでしょう。

 我慢をしなきゃあいけないことには、やはり我慢をしなきゃあいけない。
 半面、世の中には我慢してはいけないこともある。
 「しようがない」とただ諦める、「決まったことだから」、「みなが我慢をしていることだから」と受け容れてしまう。そして表立って文句も言わずにじっと怺える……。この国にはそういう気風がありそうです。それが「我慢」という言葉から強情の意味を消してしまった土壌ともいえましょうか。

 (「随想を書く会」メンバー)
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