【コラム】『論語』のわき道(29)

性、相近し

竹本 泰則

 『論語』に見られる「有教無類(教え有りて、類無し)」の語は、身につけた教養、習慣などによって人間はいかようにも変われるものだという文意でとらえられて、孔子の人間観の一端を示すものといわれます。(この言葉は衛霊公篇に含まれている一句で、岩波文庫の『論語』では三九番目の章になります。前月の『オルタ広場』第61号で取り上げましたので、よろしければご参照を)。

孔子は別の章でこうもいっています。

 子曰く、性、相(あい)近し。習(ならい)、相(あい)遠し。

 性とは人間が普遍にもつ先天的な性質、つまり生まれもった本性と理解するのが普通のようです。性善説、性悪説の性です。
 文意としては、性は人によってさほどの差はない、つまり生まれつきは互いに近いものだ。しかし、それぞれが成長するにつれて身につけたことがらに応じて、人としてのあり方には大きな差が出る、つまり互いに遠くなる、このように解することができます。「教え有りて、類無し」とほぼ軌を一にする思想でしょう。
 つまり孔子の考え方の底には、人とは生まれながらに決定づけられているものではなく、良くも悪くもどうにでも変わることができる……そのような思いがあったように感じられます。

 その孔子が「性、相近し」をいったすぐ後の章ではこういいます。

 唯(た)だ上知(じょうち)と下愚(かぐ)は移らず

 ――上知と下愚、この二つだけは変わりようがない。

 上知は「最高の知者」、下愚は「最悪の愚か者」といったところでしょうか。なお、下愚は「げぐ」と呉音で読む学者もいます。

 この二章はなかなかに考えさせられます。
 どのようなことを身につけるかで人間は変化し、形作られるといいながら、その一方で「上知」と「下愚」だけは境遇、努力にもかかわらず、変わりようがないというのですから明らかに矛盾します。どちらが孔子の本意でしょうかね。

 雑駁ですが孔子の思想をなぞってみます。
 まず、孔子は「知」をとても重んじていたようです。
 『論語』の中の文字について、登場する頻度を数えてみますと、「知」は118回ほど現れます。これは孔子が最高の徳目とした「仁」(109回)よりもわずかですが多いのです。「知」のもとといえる「学」は65回です。この回数も大きなものです。『論語』は道徳論が盛りだくさんに詰まっていると思われがちですが、「信」という字は38回、「義」は24回現れるに過ぎません。「孝」や「忠」はいずれも20回未満です。
 さらにつけ加えますと、孔子自身が『論語』の中で「性」(本姓)について語っているのは、この「性、相近し」の章だけなのです。
つまり、孔子は普段「性」云々などに触れることは稀で、「知」・「学」といったことについて多く語っていたようにうかがえます。それだけ重視していたといえそうです。
 もう一つ思い浮かぶのは、孔子が運命(宿命)論の対極にいた人と思えることです。「結果は初めから決まっている。だからやっても、やらなくても同じ」。「やっぱりだめだった。運命には逆らえないな」といった式の考え方を非常に嫌ったように思えるのです。
 もちろん人生において努力ではどうにも変えようがない限界があることは自らの体験で知り抜いています。愛弟子の夭逝に悲しみ、自らも政治を志しながら取り立ててもらえない現実などを味わっているのです。それでも先に向かって進む人でした。
 こんな話もあります。弟子の一人が「先生の言われることはいいことだとわかっています。しかし、私は力が不足していて、できそうにありません」と後退りするのに対したときのことです。孔子は「力不足であれば、進める限り進み途中で終わってしまうということはある。しかし、今、君は自分から見切りをつけている」としかるのです。
 生まれつきがどうのこうのなどと考えるよりも、まず、やるべきことに集中する……そうした姿勢の人であったように思うのです。

 一方では大勢の人間を観察していますから、人を見る目は確かなものがあったでしょう。
 さらに孔子の言葉を引きます。

 生まれながらにしてこれを知る者は上なり。
 学んでこれを知る者は次なり。
 困(くる)しみてこれを学ぶは又その次なり。
 困(くる)しみて学ばざる、民、これを下となす。

 天才という存在を認める一方、物事が分かっていないために苦しみを味わう、それでも学ぶ気を起こそうとしない輩もいることを認識しています。

 さきに矛盾としたことは、孔子の中では矛盾でもなんでもなく、いずれも本音であったのかもしれません。

(2023.6.20)
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