【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

復権したタリバーンはアフガンと国際社会に何をもたらすのか

荒木 重雄

 イスラム主義勢力タリバーンの予想を超えた急進撃であった。アフガン政府がもつのは半年か3カ月かと予測はしていたが、まさか10日でほぼ全土が席巻されるとは! 前号の拙稿はたちまち事態の進行に追い越されてしまった。

 タリバーンは前もって各地の州知事や有力者に根回しして「無血開城」を図り、政府軍基地から大量の武器や軍用車を奪い、刑務所から仲間を脱走させて勢いを増していった。それは、戦わずして敗走した政府軍や、醜態を見せて撤退した米軍の狼狽ぶりとは対照的な、戦略性と周到さであった。さすが、19世紀の英国の侵攻以来、ロシア、ソ連、そして今回の米軍及び多国籍軍の侵攻を受けながら、その都度、退却に追い込んだアフガン人のしたたかさである。

 アフガンと国際社会はこの後、否応なくタリバーン政権と向き合わざるをえない。当分は予測もつかない混乱と紆余曲折の連続であろう。そこで、その経緯を見る基本的な視点を、首都攻略直後の動向に照らして整理しておこう。

 ◆ 強権統治は今後も続くのか

 前回(1996~2001年)政権の座にあったタリバーン(その推移については前号当欄参照https://www.alter-magazine.jp/index.php?go=eohfgJ)は、恐怖の念をもって記憶される。すなわち、イスラムの偏狭な解釈から、音楽や映画など娯楽を禁じ、女性が教育を受けたり親族男性の同伴なしに外出することを禁止して全身を覆う衣装「ブルカ」の着用を強い、また、イスラムの教えに反する犯罪には手足の切断や鞭打ち、石打ちなどの公開処刑を行ない、さらに、偶像崇拝の否定からバーミヤンの石仏など貴重な仏教遺跡を破壊した。
 そうしたタリバーンは変わったのか、変わるのか、である。

 首都掌握後、日を置かず記者会見した報道担当幹部は、タリバーンに敵対してきた人々にも「恩赦」を与え危害を加えないと明言したのち、女性の権利を尊重し、女性は働き学ぶことができると語ったが、それは「イスラム法が認める範囲」と条件をつけた。報道の自由についても認めるとしながら、タリバーンが考える「国益」や「公益性」に従うよう求めた。つまりすべてはタリバーンの裁量しだいだ。
 じつはその会見の言下でも、タリバーン戦闘員たちによる女性の就労阻止や「記者狩り」、旧政府職員や米軍・国際機関協力者のチェックなど、さまざまな脅迫・抑圧が行なわれていた。

 ◆ 懸念される国家の形成と運営

 最も問われるのは国のかたちである。
 聞こえてくる「イスラム首長国」とはどのような形態となるのか。
 会見では「社会のあらゆる分野の人たち」を含めた「包括的な政権」をつくると表明したが、そもそもタリバーンの統治が定着するかどうかにも疑念がともなう。事実、北東部パンジシール渓谷では、著名な軍閥の一族が、逃れてきた旧政府の副大統領や瓦解した政府軍の一部の兵士を擁して、タリバーンと戦火を交えたし、都市部では、旧国旗を掲げてタリバーンの統治に反対する市民の街頭デモも起こった。

[因みに、旧国旗は黒・赤・緑の縦三色の中央にイスラムを象徴する紋章が配されている。対してタリバーンの旗は白地に「シャハーダ(信仰告白)」と黒いアラビア文字が記されている。タリバーンが権力を握った当初、官庁や交差点でこれら二種の旗の掲揚を巡る争いがあり、タリバーン戦闘員の発砲で住民側に死傷者もでた]

 これらの動きは、タリバーンの武力でその都度、鎮圧されても、収まることはあるまい。
 アフガニスタンは多民族国家で、旧憲法にもパシュトゥン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人など14の民族と8つの言語が列挙されていた。しかも山岳地という地理的要因もあって中央政府が十分に機能した歴史はなく、したがって人々には地域意識が強く、部族ごとに軍閥が割拠していた時代がつい最近まであった。

 タリバーンの主体はパシュトゥン人である(最大民族。全人口の約44%)。それに対してパンジシール渓谷に立て籠もった戦闘集団はタジク人であったように、他の民族がパシュトゥン人のタリバーンに唯々諾々と従うとは考えにくい。
 都市住民のデモもそうである。タリバーンが野にあった20年間、自由を享受した人々の生活様式や価値観は、にわかに捨てられるものではない。

 また一方で、「イスラム国(IS)」の地方支部など、より過激なイスラム主義勢力からの、タリバーンへの挑戦もある。

 次に国家を円滑に運営できるか、である。
 政権掌握直後から、貨幣の流通が滞った。海外資産は凍結され、国家予算の5割以上が国際援助といわれた財政状況の中で大半の援助資金が止まった。農業主体の国造りをめざすと伝えられるが、「麻薬ビジネスを活発化させるしかない」との憶測もとぶ。

 ことは経済に限らない。行政、医療、交通、都市のライフライン・インフラなど、国家運営には宗教家や戦闘員ではない専門家・技術者が必要になる。それらの人材は確保できるのか。
 それとも、これまでとはまったく異なる社会や国家を構想するのか。

 ◆ 国際社会に枠組み変更が迫られた

 国際社会への波紋も大きい。
 多くの国々が地政学上の変化や難民流入で影響を蒙る(たとえば前者では長年対立するインドとパキスタンの関係で顕著、後者では2015年にシリア難民が欧州に大混乱をもたらし反移民・難民を掲げる右翼ポピュリズムが興隆するきっかけになったことなど想起されたい)が、最大の懸念は、アフガンが再び「イスラム過激派の温床」となる脅威である。

 先の記者会見でタリバーン幹部はそれを否定したが、なにせ「米軍を追い出した英雄」タリバーンのこと、かつて「イスラム国(IS)」に世界中から4万人を超える戦闘員志願者がはせ参じた事態の再来も想像に難くない。タリバーンの対応にもよるが、政府軍から奪った米軍の新鋭武器で一段と力をつけたかれらが、各地に「出撃」「転戦」する脅威は絵空事ではなくなっている。

 国内にそれぞれイスラム教徒との葛藤を抱える周辺国の中国(新疆ウイグル問題)、ロシア(チェチェン共和国など中央アジア諸国への影響)、インドなどは、それゆえ、タリバーンとの接触、懐柔、取り込みに意を注いでいる。

[中国にとってアフガンは「一帯一路」の要衝としても重要]

 だが、それにも増してタリバーン復権がもたらした大きな衝撃は、米国の理念と威信の失墜と、欧州の米国への懐疑であろう。人権や自由、民主主義を世界各地にもたらす(それも軍事力と経済力を背景に)という米国主導・欧州追随の世界戦略の限界が、無残なまでに明らかに示されたのである。20年という歳月と2兆ドルともいわれる資金を費やし、17万人(内、米兵2千人超)の命を犠牲にして進めた「民主的な国造り」が、かくももろい崩壊で結末を迎えようとは!

[もちろん米国のアフガン関与は理念のためだけではない。「国益」および「政権益」優先であった]

 「敗走」とさえいわれる米軍のアフガン撤退を中国は「ほれ見たことか、米国なんて頼りにならぬ。台湾もこうなるぞ」と揶揄する。米国の弱みにつけこんで中国が対米強硬論を一層勢いづかせるとの論調もある。中国を今後の主要な競争相手として向き合おうとする米国にとって、この威信と自信の失墜は痛い。アフガンの事態の影響はここまで広がる。

 では、米国の「失敗」の原因はどこにあったのか。
 中国の王毅外相は、「外国のモデルを歴史も文化も事情も違う国に無理やり当てはめてもうまくいかない。アフガン情勢はそのことを改めて証明した」と論評した。価値観や制度の違い(およびその政策・行為の相手国社会への影響)は度外視して、発展の果実だけで各国とつながることで影響力を広げる中国の国際戦略も問題ありだが、王毅の言葉に米国は腹立たしい限りだろう。

 だが、時を同じくして、米国の中からも、独立した立場から米政府によるアフガン復興を監査する「アフガニスタン復興特別監察官(SIGAR)」が同様の分析をしている。すなわち、米国の政策は「思うような成果を上げられなかった」と総括し、その原因を、西洋型の仕組みを現地経済に押しつけた ▽紛争をおもに非公式手段で解決してきた国に法の支配を押しつけた ▽文化的背景を理解せずに女性の権利促進をした、などと指摘し、「教訓の一つは米国が現地の文化や慣習などを理解していなかったことだ」と結論づけた。
 要するに「アフガン人の心」を捉えることができなかったのである。

 20年前にもたらされた自由に目を輝かせた一部の都市住民を除いて、多くのアフガン住民は宗教心が厚く、伝統的な情念・価値観をもつ。共同体意識や義侠心や自尊心が強く、それは一面で身内主義や家父長的規範にも繋がる。そこに「土足で入り込んできて」自分たちの価値観やシステムを押しつけようとする米欧に対する反感が蓄積されていた。じつはこの広範な住民の潜在的な反感の堆積こそが、個々の民族・部族の意識や利害の差異にもかかわらず、タリバーンが戦わずして全土を席巻できた基盤であろう。

 なお、忘れてならないことは、20年前、米軍主導の多国籍軍がタリバーン政府を攻撃したとき、給油のためインド洋に自衛隊を派遣した日本はまぎれもない「参戦国」の一つであったことである(そのために憲法違反の論争のある特措法まで制定した)。その後のアフガン「復興」への7千億円を超える経済支援や技術支援もまた、タリバーンにとっては利敵行為である。アフガン情勢を他人事のように見がちなわれわれであるが、タリバーンからすれば、われわれは明らかな「敵対者」だったことを、置き去りにしてきた500人を超えるアフガン人日本協力者の命運と重ねて想起せねばなるまい。

 (元桜美林大学教授、『オルタ広場』編集委員)

(2021.09.20)
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