【オルタの視点】

弾圧された俳人の名誉回復と弾圧に協力した俳人の責任追及を

マブソン 青眼


 戦後フランスでは、「第二次世界大戦中のヴィシー政権は自発的にナチス・ドイツと協力したことはない」、「公職や知識人のほとんどが内心では対独レジスタンスの味方だった」というフランス自画自賛の神話が作られ、長らく信じられてきた。
 しかし1972年に、フランス人ならぬロバート・パクストンというアメリカの歴史学者から、対独レジスタンスの神話を解体する名著が出された。それは、“Vichy France: Old Guard and New Order”(Robert Paxton, New York, Alfred A. Knopf, 1972、日本語訳『ヴィシー時代のフランス―対独協力と国民革命』、柏書房、2004)である。客観的な資料に基づいて、戦時中のフランス政府や多くの知識人が能動的にナチス軍部と協力し、進んでユダヤ人迫害や共産主義者・平和主義者などの弾圧に手を染めていたという事実を“よそ者の研究者”が証明した。

 そして1970年代からフランス政府は少しずつ過去の過ちを認めるようになり、同時に植民地の独立を認めたりして、国内でもより開放的な民主主義社会に向かうようになったといわれている。案ずるには、どんな国でも、将来の平和や民主主義の健全な発展を望むのであれば、まずは過去の軍国主義の暴走を、それに協力した公職や知識人の役割を、そしてその土台である表現の自由の弾圧というシステムを客観的に省みる必要がある。

 日本についても同じであろう。第二次世界大戦前の日本においては、表現の自由を無くしてしまい、軍国主義の暴走を可能にしたシステムの法的な要は「治安維持法」である。1925年に公布されたこの法律は次第に範囲が拡大され、1933年に小説家・小林多喜二の拷問による死をもたらし、1940年からはいわゆる「昭和俳句弾圧事件」を可能にした。当時は、俳句実作において、季語を使わなかったり、自由律を試したり、社会を詠んだりしたというだけで(つまり日本の俳句の王道と定められていた「花鳥諷詠」の掟に従わなかったというだけで)、新体制(軍事政権)に反する考えをもっていると疑われ、その結果、多くの俳人が「治安維持法違反容疑」で特高警察に検挙されることになった。

 検挙の時期は1940年2月から1943年12月まで9波があり、44名が検挙され、ほとんどは留置所で数ヵ月に及ぶ尋問あるいは拷問を受けたり、無理矢理に自白手記を書かされたりして、うち13人が懲役2年(執行猶予3年ないし5年)の刑を受けたのである。以下、当時の公式資料「特高月報」と「思想月報」に基づく被検挙者リスト(俳号のみ掲載)を述べる(川名大/著『昭和俳句の検証』、笠間書院、2015年、所収資料に拠る)。
 「●」と記された俳人は懲役2年と起訴された者である。

①「京大俳句」関係
・1940年2月14日検挙:井上白文地、中村三山、新木瑞夫、辻曽春、平畑静塔●、宮崎戎人、波止影夫●、仁智栄坊●
・1940年5月3日検挙:石橋辰之助、和田辺水楼、杉村聖林子、三谷昭、渡辺白泉、堀内薫
・1940年8月31日検挙:西東三鬼

②「広場」関係
・1941年2月5日検挙:藤田初巳、中台春嶺、林三郎、細谷源二●、小西兼尾

③「土上」関係
・1941年2月5日検挙:嶋田青峰、秋元不死男(別号、東 京三)●、古家榧夫●

④「日本俳句」関係
・1941年2月5日検挙:平沢英一郎

⑤「俳句生活」関係
・1941年2月5日検挙:橋本夢道●、栗林一石路●
・1941年2月7日検挙:横山林二●
・1941年2月21日検挙:神代藤平●

⑥「山脈」関係
・1941年11月20日検挙:山崎青鐘●、山崎義枝、西村真青、前田北四季、鶴永想峰、勝木茂夫、紀藤章文、福村信夫、宇山樹、和田冬湖

⑦「きりしま」関係
・1943年6月3日検挙:面高散生●、大坪白夢、瀬戸口武則

⑧「宇治山田鶏頭陣会」関係
・1943年6月14日検挙:野呂六三子●

⑨「蠍座」関係
・1943年12月6日検挙:加才信夫、高橋紫衣風

 なお、45人目として、日本在住のスイス人画家兼俳人コンラット・メイリ(Conrad Meili, 1895-1969)を付け足してもよいかもしれない。このメイリ氏の妻は、日本人外交官とフランス人女性の間に生まれた「キク・ヤマタ」というフランス20世紀半ばの著名な女性小説家である。高浜虚子が1936年にフランスを旅行した際、このメイリ夫妻が虚子の世話人となり、パリで“ハイカイ詩人”が募った句会などを催した。
 その後1939年にはメイリ夫妻は講演旅行の予定で日本へ赴いたが、折りから第二次世界大戦が勃発したため、日本で足止めとなり、結局1949年までの10年間、鎌倉に家を構えることになった。メイリは洋画教師をしながら「ホトトギス」主宰の高浜虚子や「かまくら」代表の久米三汀の元で熱心に日本語の俳句を学んでいたが、特高警察にド・ゴール派との接近などを疑われ、1943年11月に妻と共に逮捕された。四ツ谷龍氏(「むしめがね」17号「コンラット・メイリへのアプローチ」)が述べているように「メイリは40日にわたる拘置期間中に暴力を受け、また関節リューマチと脚気を患ったため、釈放された後も長い間、歩くことすらままならなかった」という。以下一句を挙げよう。
   帰国又いく日遅るゝ落花かな
      C・メイリ、「ホトトギス」1947年4月

 その他、たった一人、特高警察に逮捕はされなかったが本撰集に作品を載せたのは、女性俳人の藤木清子という謎めいた人物である。彼女は1931年から1940年までしか作品を発表していないが、新興俳句系の雑誌「京大俳句」「旗艦」などに寄稿した数少ない女性の一人である。1937年頃、夫との死別がきっかけで広島から神戸へ移ったと思われるが、その辺りから斬新な反戦句を多く発表するようになる。例えば以下の句は親しい人の死を詠んでいると思われるが、女性ならではの“レジスタンス魂”に心を打たれる。
   戦死せり三十二枚の歯をそろへ
      藤木清子  1939年

 このような無季の俳句こそ、死を表現し切っているのではないか。藤木清子は1940年を最後に句の発表を止め、以後消息がわからなくなった。特高警察による弾圧が厳しさを増すなか、再婚の際、俳句を止めることが条件だったとも考えられる(宇多喜代子/編『ひとときの光芒・藤木清子全句集』、沖積舎、2012年、参照)。

 たしかに当代の日本では、軍国主義や戦争の暴走を若干否定的に描いただけで、大変な覚悟が必要だった。例えば、「京大俳句」の旗手の一人・渡辺白泉は1938年から1939年にかけて反戦的と思われるような無季俳句を数句発表した。
   銃後といふ不思議な町を丘で見た  1938年
   戦争が廊下の奥に立つてゐた    1939年
      渡辺白泉

 それだけが原因で1940年5月3日に「治安維持法違反容疑」で特高警察に検挙され、9月21日まで4ヵ月以上留置所で過ごすことになった(「思想月報」76号参照)。獄中で執筆停止を命じられた白泉は、釈放から終戦まで変名で俳誌「鶴」に投句したりもしたが、反戦句を作らなくなった。

 日本の場合は、軍部による弾圧の厳しさや島国という地理的・文化的環境がヨーロッパ諸国とは異なり、“束の間のレジスタンス”で諦めた作家が多かったように思える。
 一方、例えばフランスのエリュアールの場合は、出版禁止となっても山岳地帯に身を潜めて、検閲を通さずに名詩「自由 Liberté」を数千部印刷してそれを村人に配ってもらったり、サン=テグジュペリの場合は米国に亡命してヒューマニズム童話『星の王子様』を発表したりした。日本社会では欧州と比べて“共同性”が裏に出たのか、軍国主義に反対したレジスタンス作家はどこにも逃げ場がないような窮屈な状況だったといえよう。

 そのころの日本社会の窮屈さを理解するには、井上白文地の伝記が多くを物語る。井上白文地(本名・隆証、1904-?)は「京大俳句」創刊会員の一人だった。京大で西洋哲学科(社会学専攻)を卒業し、立命館大学講師となり、「京大教授と予想されつつ関西大の教授に内定していた」人物である(栗林浩/著『京大俳句会と東大俳句会』、角川書店、2011年、56頁、「利根川付従軍記―野平椎霞遺句集」に拠る)。しかし、以下のような反戦的な作品を発表したため、弾圧事件の検挙第一波の対象となった。
   我(わが)講義軍靴の音にたゝかれたり
      井上白文地  1937年

 8ヵ月の留置期間(「思想月報」第717号参照)を経て出所したが、教職の内定が反古となり、立命大学でも退職を余儀なくされた。その後は結婚して娘を授かったにもかかわらず、1945年3月、41歳という高齢で異例の召集に遭い、結局ソ連軍の捕虜となり、1946年を最後に目撃されて以来、消息不明となった(田島和生/著『新興俳人の群像』、思文閣出版、2005年、156頁や、栗林浩/著『京大俳句会と東大俳句会』81頁等に拠る)。
 もちろん、上記のような句が原因で逮捕されなかったら、白文地は予定通り教授となり、応召義務を免れ、家族を残しての無念な戦死にも遭わなかっただろう。とにかく、かつての京大俳句の新星・井上白文地は現在も遺体が見つからず、いわゆる「白文地忌」の忌日はいつまでも定まらないものとなった。

 最後に、検挙されて無念な運命を負った、もう一人の俳人にふれよう。それは、元「ホトトギス」同人で、長年「ホトトギス」の編集を高浜虚子に任され、のちに俳誌「土上」の主宰となった嶋田青峰(1882-1944)である。金子兜太氏が述べているとおり「(自分が)旧制高校から大学にかけて3年位『土上』に投句していた時、早稲田大学の講師だった青峰が検挙された。獄中で血を吐いて仮釈放された後、自宅へ見舞いに行った。青峰は『同人の二人がリアリズムなんかを言ったおかげでこんなことになってしまった。花鳥諷詠以外の俳句は治安維持法に触れる。異端という考え方が当局にあった。アメリカナイズされた考え方は危ない』とぼそぼそ話していた記憶がある(「海程」520号、2016年2月号、68頁)。

 「リアリズムなんかを言った」という「同人の二人」とは、本撰集でも取り上げている古家榧夫と東 京三(のち「秋元不死男」)である。
 それだけで2人とも1941年2月5日に検挙され懲役2年の刑を受けた。しかも彼等の師匠・青峰まで連座して捕まり、獄中で肺結核が悪化し、仮釈放されたものの1944年にその後遺症で亡くなったのである。門人のほとんどは連座を恐れて(金子兜太を除けば)見舞いに訪れることなく、葬式には俳句関係者はほとんどなく、師であった高浜虚子も出席しなかったのである(村山古郷/著『昭和俳壇史』、角川書店、1985年、254頁参照)。

 元「ホトトギス」編集者・嶋田青峰の悲運をみてわかるように、昭和俳句弾圧事件は(一部の現代俳人が勘違いしているようだが)、単に京都大学の少数インテリ(あるいは“共産主義者”?)だけの問題だったとはいえない。さきほどの被検挙者リストで確認すると、京大関係者は44人のうち最初の8人にすぎず、東大、早大、慶大、法政大、専修大出身者や山口、鹿児島、三重、秋田の地方俳人も多く、いわば全国の有望な俳人44人が犠牲になったのである。要するに、日本の俳壇の最も大きな組織である「ホトトギス」社がすすめる「花鳥諷詠」以外の作風を試みようとした、ほとんどの新鋭俳人が沈黙を余儀なくされたという結果をもたらした。
 結果的にこの弾圧は「ホトトギス」主宰の高浜虚子にとってみれば、自分が代表する流派の強化に繋がり、好都合な粛清だったといわざるを得ない。ただし、それは虚子の意図とは関係なく、たまたま虚子一門が有利に立つという偶然の歴史的背景だったという可能性もある。つまり、ここからの問題は、どこまで虚子が自発的に軍部と協力していたのか、である。換言すれば、虚子の文才はさておき、彼が自分の流派を強化するために軍部と能動的に協力したのか、である。正当な文学的手段ではなく、「弾圧」という国家暴力の手段に自ら加担したかどうかが問題である。

 実は、この弾圧事件の最中、1940年12月21日に、「日本俳句作家協会」という、俳壇全体を総括する新団体が東京で結成された。田島和夫氏(『新興俳人の群像』207頁)が述べるように、結成式には「内閣情報局や大政翼賛会の幹部らも参列。宮城遥拝、護国の英霊に黙祷、皇居と皇軍将士の武運長久祈念と続き、役員選任、綱領、事業計画などを採択した。会長には高浜虚子が就任。常任理事は3人。俳人としてはそれほど著名でもなかった日本放送協会業務局次長兼企画部長の小野蕪子(ぶし)。(中略)この日、虚子は『東京日々新聞』で、こう書いている。『立派な国民精神を俳句によって作り上げるという目標の下に大同団結する』」。

 まずはこの虚子の一文に驚く。戦後、自己弁護として虚子はしきりに「俳句は(戦争によって)何の影響も受けなかった」と発言していたが、それは上記の「国民精神を俳句によって作り上げる」という記述とは明らかに矛盾する。ただし、個人として書いた文ではなく、あくまでも団体のトップとして、ほかの役員の信条に配慮して書いたものといえるかもしれない。
 ほかの役員といえば、理事の一人である小野蕪子がいて、さまざまな証言によれば蕪子の活動と弾圧事件との直接関係が指摘されている。例えば金子兜太氏も述べているが、「虚子の唱える花鳥諷詠では書きたいものが書けないと言うことで始まった新興俳句運動だが、運動の軸になった若者が逮捕された京大俳句事件のキイパーソンと言われる人物がホトトギス同人の小野蕪子。(中略)蕪子が虚子のご機嫌をとろうとしたのかはっきりしない」(「海程」520号)。
 つまり弾圧事件の際、軍部に情報を提供したと思われる蕪子は、虚子と連携して動いていたかについて、証拠が残っていないようである。そうとはいえ、以上の記事を参照すれば、虚子が軍部と協力して「俳句によって国民精神を作り上げる」ことの意義を信じていたといえよう。

 では今度は、全国の俳句団体のトップとしてではなく、虚子が雑誌「ホトトギス」の主宰として、どのような態度をとっていたのであろうか。「朝日新聞」(2013年11月5日夕刊)が述べているとおり、「ホトトギス」の「裏表紙には虚子が身辺や社会情勢にまつわる所感をつづる「消息」欄が掲載されていた。『戦捷(せんしょう)の新年を慶賀致し、皇軍の赫々たる戦果に唯々(ただただ)感激致すものであります』(42年1月号)、『シンガポール陥落のことを心から慶祝いたします』(3月号)など、旧日本軍の快進撃を喜んでいる」虚子の文が残っている。場合によってはこれはあくまでも当時の“常識的”な挨拶にすぎず、その頃の“雰囲気”に配慮しての記述だったという見方ができるかもしれない。

 問題は、敗戦直後になって、この「消息」欄に関して虚子もしくは虚子身近の人物が危機感を感じたという証拠が残っていることである。上記の記事によると「『ホトトギス』の戦時中の複数の号が、裏表紙が切り取られた状態で発行元の「ホトトギス社」(東京都千代田区)に保管されているのが見つかった。虚子が戦争に肯定的な内容を記した箇所が含まれ、連合国軍総司令部(GHQ)などが行った戦争責任の調査を恐れて切り取ったとみられる」。つまり、“戦時中の常識”、“雰囲気”という観点からみても、虚子の「消息」欄は「聖戦礼賛」の立場にかなり偏った内容と当時でも見受けられていたことを意味する。以上の「消息」2例は1942年の刊行号だが、その直前に虚子のかつての親友・嶋田青峰が軍部に逮捕され、深刻な肺結核となったのを知った上でも、虚子はこのように軍事政権を称え続けていたことがわかる。

 最後に、もっとも大事なレベルの話である。それは、虚子が団体のトップでもなく、雑誌の主宰でもなく、一個人として作品においてどのような態度をとったかということを考えたい。川名大が『昭和俳句の検証』(232頁)で書いているとおり「『俳句は(戦争によって)何の影響も受けなかった』という戦後発言から、虚子は聖戦俳句を作らなかったという虚子神話が生まれた。しかし、虚子は「ホトトギス」に「句日記」として日付入りで数多くの聖戦俳句を発表した」。3句だけ取り上げよう。
   戦ひに勝ちていよいよ冬日和  虚子
      1941年12月17日(真珠湾攻撃直後)
   勝鬨はリオ群島に谺して  虚子
      1942年2月12日(シンガポール戦最中)
   美しき御国の空に敵寄せじ  虚子
      1944年2月15日

 俳句は自然の描写に専念する「客観写生」(=「花鳥諷詠」)の文芸であるべきと主張し続けた虚子だからこそ、敢えて自分の作品においてその作句理念を曲げて「写生」や「客観性」の欠片もないような聖戦俳句をわざわざ発表したことが不思議である。よほど自ら軍国主義を礼賛する気持ちがあったと認めざるを得ない。
 ところで1942年2月に、「日本俳句作家協会」は内閣情報局の指示で「日本文学報国会」に統合され、その「俳句部」の代表として引き続き虚子が部長に、小野蕪子と富安風生が常任理事に留任したが、団体の目標はさらに明解に発表された。「皇国の伝統と理想を実現する日本文学を確立し、皇道文化の宣揚に翼賛すること」と。そしてその1942年の「俳句年鑑」には、以下のような作品がみつかる。
   日本は南進すべし芋植うる  小野蕪子
   日の本の武士(もののふ)われや時宗忌  虚子

 2句目は、田島和夫氏(『新興俳句の群像』215頁)が書いているとおり、虚子が「蒙古軍と果敢に戦った北条時宗をたたえ、自らを鼓舞している」のである。

 総じていえば、俳壇における昭和俳句弾圧事件の責任問題に関しては、以下のことがいえる。
 上記の虚子の聖戦俳句を検証すれば、ホトトギス主宰が小野蕪子を巧妙に操って密かに指示・発動許可などを出していたのか、それとも蕪子がただ師匠の機嫌をとろうとして動いていただけなのか、それがもっとも大事な問題ではないということ。弾圧事件が進行中でも、かつての俳友や才能ある俳人が次々と犠牲になっていく最中でも、一貫して虚子はその弾圧を行っていた軍部に対して、自発的に礼賛しつづけたことが最大の問題である。軍部が行う情報統制に対して、虚子は団体長としても、主宰としても、そして個人としてもなんらの後ろめたい気持ちをもっていなかったということになる。ひいては、機会さえあれば虚子は進んで軍部と協力する意思があったということになる。軍部に対して、もし弾圧のための情報を求められたとすれば、当然それを提供したと考えられる。

 結論として、弾圧の被害者であり、懲役2年の刑を受け辛酸な経験をした栗林一石路の、敗戦後の言葉を引用する。「かつて戦争に協力した俳壇の多くは、何等の反省も告白もない」(「朝日新聞」文化面、1946年6月17日)。一石路は戦後「新俳句人連盟」を設立し秋元不死男らと共に「俳壇戦犯」の責任を追及しようとしたが、様々な圧力がかかり連盟において2つのグループが対立したため、決して解明されないまま日本の俳壇は今日まできている。軍国主義が再び勢いを見せているこの頃こそ、1940年代に弾圧された俳人の名誉回復と弾圧に協力した俳人の責任追及を果たすべきであろう。
 二度とあのような大戦の道を歩むことがないように『昭和俳句弾圧事件記念之碑』を建てる必要もあるだろう。本撰集をその前の「紙の碑(いしぶみ)」としたい。

          ◇ ◇ ◇     ◇ ◇ ◇     ◇ ◇ ◇

(この稿は『日本レジスタンス俳句撰 HAÏKUS DE LA RÉSISTANCE JAPONAISE(1929-1945)』Pippa Éditions, Paris, 2016-2017、掲載の序文を転載したものです。)

 マブソン青眼(せいがん)さんは、1968年フランス生まれ。パリ大学日本文学科博士課程修了、早大大学院・学術博士(比較文学)。1996年から長野市在住。信州大学などの講師。
 金子兜太「海程」同人、「青眼句会」主宰。句集『空青すぎて』(宗左近俳句大賞)など5冊。
 著書『詩としての俳諧・俳諧としての詩』(永田書房)、『一茶とワイン』(角川書店)、『江戸のエコロジスト一茶』(角川書店)など。日仏両語出版合同句集『フクシマ以後』、『反原発俳句三十人集』、一茶『父の終焉日記』<仏語訳>など著作多数〔編集部付記〕。

          ◇ ◇ ◇     ◇ ◇ ◇     ◇ ◇ ◇

≪マブソン青眼さんからのお願い≫
 原稿に記しましたように、俳句弾圧の犠牲・苦難を受けた方々を想い、再び暗黒の政治を許さず、平和・人権・言論の自由を心から願っています。
 その思いから、そしてこの弾圧が始まって80年を迎えるのを機に、『俳句弾圧不忘の碑』を長野県上田市の「無言館」(戦没画学生慰霊美術館)そばに建立しようと、皆さまのご協賛をお願いしています。
 この碑には、筆頭呼びかけ人であります金子兜太さんが揮毫されます。また、「無言館」の窪島誠一郎さんをはじめ多くの俳人、詩人、作家、文学者、弁護士、ジャーナリストといった内外の各界69人の方々が呼びかけ人になっています。

 ご負担になりませんよう、一口2,000円から、としております。

 ◆郵便振込の場合   00560-1-75876
 ◆ゆうちょ銀行の場合 059店 (当座) 0075876
  名義 「昭和俳句弾圧事件記念碑の会」

 お問い合わせ先: 昭和俳句弾圧事件記念碑の会
   住所: 〒380-0845 長野市西後町625-20-304
   TEL/FAX: 026-234-3909
   電子メール: showahaiku@yahoo.co.jp
   ホームページ:http://showahaiku.exblog.jp/<新聞記事、活動報告、会計報告など掲載>

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧