【コラム】
ザ・障害者(24)

強者が被害者意識を持つ構造

堀 利和

 2016年7月26日に起きた津久井やまゆり園事件から、強者と被害者の関係を先ずひも解いてみたい。それは植松被告の内在的深層心理からみえてくる。
 彼の思考法の特徴は二分法である。強者か弱者か、人に役立つか迷惑をかけるか、白か黒かであって、その中間も多様性もない。この思考の二分法が彼に事件を起こさせたといってもよい。そしてそれが決定的なのは、彼自身、自らが深いコンプレックスの闇の中に存するという、否定しがたい自覚に悩まされていたといえる。

 植松被告は学生時代から美容整形を受け、刺青をし、一方、教員採用試験に失敗している。彼は自分がイケメンでないことを認め美容整形を受け、また、刺青によって反社会勢力の「強さ」に身を置こうとし、そうなろうとして醜く弱い自らの存在を「イケメン」「強者」に置き換えようとした。

 津久井やまゆり園の職員になってからは、周囲から好青年、まじめな職員とみられていた。ところが、刺青問題が起きてしまった。彼にとってはまさしく事件であった。
 刺青をしていることが発覚し、理事長や職員は辞めさせるかどうかの検討をする。だが刺青を理由に解雇することもできず、またまじめだからということでそのまま働いてもらうこととなった。それが彼にとっては実は屈辱感のなにものでもなかろう。「弱者」にさせられた、やまゆり園の障害者と同じ存在に貶められた、そう感じたと彼は語っている。ここまでは彼個人の問題意識である。弱者を否定することによって、自らが強者になろうとし、自己否定から自己肯定への道筋の中で論理の飛躍が始まる。

 衆議院議長にあてた「手紙」の中で、第一段は「車椅子に一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し」、第二段は「障害者は不幸を作ることしかできません」、そして第三段になると「世界経済の活性化、いまこそ革命を行い、全人類のために」ということになって、殺傷行為を正当化、一般化、普遍化する。行為はすべて歪んだ正義感と使命感に置き換えられる。「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動」することとなる。

 こうした優生思想は必ずしも一方的、かつ一面的とは限らない。強者に対して不幸しか作らない、迷惑な存在、つまり弱者・劣った者が強者にとって被害をもたらす迷惑な存在へと転化する。事件当時、植松被告を賛美したネット炎上も、その証左の一つであるといえる。このような社会現象が今、世界の動きの中に見受けられる。
 ヨーロッパではすでにネオ・ナチの政治勢力の台頭がみられる。たとえばドイツでは以前トルコ人の移民、そのトルコの移民はドイツ人が働きたくない3K(きつい、汚い、危険)の仕事に就く。ところが不況で失業者が増えると、トルコ移民がドイツ人の仕事を奪っているということになる。ドイツ人の中に被害者意識が芽生える。

 その決定的がトランプ大統領である。黒人やヒスパニック系移民、イスラム系移民を、白人の迷惑な存在、敵、加害者、排斥の対象に置き換える。それまでの加害者が被害者に、被害者が加害者にすり替えられる。在特会の動きもそうである。こうした政治状況、排外主義とナショナリズムが各国にみられる。安倍政権もそれとさほど変わらない。
 私たち本物の共生派に問われるのは、弱者が強者に、被害者が加害者になることではなく、そうではなく、まさしくその関係性そのものを、その構造そのものを解消し、超克していくことではなかろうか。

 アメリカはいずれ白人より黒人やヒスパニック系の方が多数を占めるであろう。白人はそれを恐れる。トランプはそれを恐れている。では、なぜ彼らは恐れるのであろうか。それは、単純に数の論理からいって、白人がそれまで黒人に対してしてきたように、黒人が今度は自分たち白人にそうするであろうと恐れているからに他ならない。だから、未来を見つめた時、多様性が世界を救うのか、それとも排他性が世界を救うのか。それが今問われている。

 (元参議院議員・共同連代表)

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