【コラム】『論語』のわき道(32)

年の漢字

竹本 泰則

 十二月十二日は漢字の日とのこと、日本漢字能力検定協会というところがいい出したものだそうです。
 同協会は毎年この日に「今年の漢字」なるものを発表しています。その年の世相を表す漢字一字を一般から公募し、集まった中から最も数の多かったものを選ぶようです。テレビなどで報道されますが、京都・清水寺で貫主が大きな和紙に筆書きをすることにより公表しています。

 昨年の漢字は「金」でした。TOKYO2020における日本人選手の金メダルラッシュのほか、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の拡大を防止する対策によって経済的な打撃を被った事業者などへの支援金、法務大臣経験者と美人妻による現金を配っての票集め、果ては眞子内親王と小室圭さんの結婚をめぐって終始つきまとった金銭問題などなど……、こうした事柄が反映されたものといいます。

 年の漢字を選ぶという行事は和歌山県田辺市の熊野本宮大社でも行われているようです。今回で十四回目とか。こちらはゆく年ではなく、くる年に向かって、こうあってほしいという思いなどを込めて宮司が選ぶのだそうです。つまり翌年の漢字ということになります。
 昨年十二月にお披露目された漢字は「今」でした。宮司は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる旧社地において、一辺が三メートルに近い四角い布を広げ大きな筆を使ってこの字を書き上げています。
 熊野本宮大社はもともと大斎原に鎮座していたのですが、明治二十二年(1889年)八月に発生した大水害によって社殿の多くを失っています。現在の大社は流されずに残った四社を遷(うつ)したものです。

 今年の漢字は、その年に起きた実際の出来事などが背景にあり、しかも多くの人々の投票で選ばれるというせいか、漢字と世相との相関度は、それなりに感じられます。一方の熊野本宮大社が発信する来年の漢字は、宮司おひとりのお考えで決まるので、納得性は人によって分かれるのではないでしょうか。どの年にでも当てはまるということにならないかと余計な心配をしてしまいました。

 ところで、来年の漢字に選ばれた今という漢字ですが、常用漢字表による音読みはコンとキン、訓の方は「いま」となっています。たまたまでしょうが、今年の漢字「金」とこちらの漢字「今」と、両者とも音による読みは同じです。しかし、今年の漢字はキンと読まれることが多いでしょう。「かね」と読んだひには生々しすぎます。それに対して、熊野本宮大社に掲げられた今の字を見る人々は「いま」と読むのではないでしょうか。コンと読んでもすぐにはこの漢字に結びつきません。またキンとなると、もっとそうです。この字をキンと読むのは『古今和歌集』や今上天皇くらいのものでしょう(後者について『広辞苑』はコンジョウともいうとしていますが、キンジョウが断然多数派でしょう)。

 暇にあかしてのことですが、日本語のいま(今)という言葉について、とりとめもないことを考えてみました。
 いまと言えば現在のこと、しかも比較的短い時間域を示す感覚があります。しかし今世紀、今年、今月などという単語にも今が入っています。「いまは21世紀です」、「いまは1月です」といった表現も普通に成り立ちます。その一方で、「いまは21日です」、「いまは金曜日です」といういい方は、通常の会話では表れません。日の場合は「きょう(今日)は」とやらなくてはいけないようです。

 また、この語は現在のことばかりではなく、過去や未来のことを指すことがあります。
 「いまにみておれ」、「いまにも降りだしそうだ」などは先のこと。道ですれ違いざま会釈を交わしたものの「いまの人だれだっけ」は過去についての言葉です。
 さらには時間的な後先などに関係しない、あるいは特別に意味をもたないといっていいような使い方もあります。たとえば「いまひとつ迫力が足りない」とか、数学などのテストの問題文に見られる「いま、点Aから……するとき」といった類の表現です。
 意味などを詮索することなく日常的に口にしている言葉ですが、込められている概念は単純ではなさそうです。

 今という字は『論語』の中で26回使われています。使用される頻度は多い方です。『論語』という書物はもちろん漢字だけで構成されており、字数でいえばほぼ1万6千字です。しかし同じ字であれば、何度使われていようと一字に計算すると、文字の種類としては1,366字になります。しかし、その半数以上の字は1~2回しか登場しません。したがって26回というのは十分に多く用いられている文字ということになります。
 あらためてそれぞれの意味をたどってみますと、日本語の「いまひとつ」といった言い方と同類の使い方が二例ありますが、残りのすべては現在(いま、近ごろ、今どきなど)の意味にとっていいようです。今という字の用法は日本語よりも狭いかもしれません。

 今の字が出てくる章句の中でちょっと面白いものがあります。
 弟子の子貢が孔子に士人(しじん:官職などに就く上流の人たち)として認められるための条件について質問をするのですが、その問答のしまいに、子貢が「いま現に政治に従事している人たちはどうでしょうか」と尋ねています。

  子貢:今の政に従うものは如何(いかん)
  
 孔子はこう答えます。

  孔子:噫(ああ)、斗筲(としょう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らんや

 噫は心に不平を抱えたときの声、斗筲は現在の一升くらいの量が入る竹の器だそうです。
 意訳すれば、こんなものでしょうか。

  ああ、一山(ひとやま)なんぼで捌(さば)かれるような連中だ。
  ものの数にも入らんよ

 念のため申しておきますが、この言葉は二千数百年前の古代中国で政治に携わっていた人たちを評したもので、決して今のこの国の話ではありません。
 しかし、まるで……。

 (「随想を書く会」メンバー)

(2022.1.20)
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