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【追悼】
■工藤邦彦氏追悼 ~工藤さんをおくる~ 相澤 進一
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工藤邦彦さん、2009年1月5日逝去。享年71歳。昨年夏、東京・港区東
京済生会中央病院で検診、肝細胞癌が見つかり、昨9月から担当医師の勧めもあ
り、カテ―テルによる患部直接に抗がん剤を注入する治療方法で、通院・検査入
院を繰り返しながら癌と戦い続けていた。平野叔氏と二人で工藤さんを昨秋の一
日、強引に見舞った。「2人とも来るな、見舞われる必要などない」との強い拒
絶のも拘わらずわたくしたちは行ったのである。
ところが、病院内のレストランでなんと3時間以上も工藤さんはわたくしたち
に向かって、自らの病状と検査入院治療の詳細な施術行程、病院の看護体制の不
味さ、患者への過剰介入などに熱弁を振るった。その時、癌のレベルは結構高い
、と彼は説明したのだったが、治療により一定程度押さえられてもいるようだ、
とも言うのだった。この治療法が効をそうせば、癌との共存に成功、彼の命も先
に光明が見出せる、まだまだだいじょうぶ、とわたくしは密かな希望を抱きはじ
めていた。が、その思いも今は空しい。心肺停止、なんと言うことであろう。
この数年、ロシア語勉強会、読書会のあと飲むのが、飲みながら議論するのが
楽しみになっていたのだが、帰途、御茶ノ水駅への上り坂で「きつい。もう少し
ゆっくり歩いてくれ」と工藤さんが言うようになっていた。加齢によるもの、彼
の運動不足もあるだろう、とさして気には留めなかったのだが、持病の糖尿病が
影響していたのか、そして昨秋からの抗がん剤注入が心臓に一層の負荷をかけ初
めていたのか。何事にも動じない彼の頑強な心臓も、生身の心臓には過重であっ
たのか。
メ―ルマガジン「オルタ」の読者に、その編集者、執筆者、座談会の司会者と
して登場してきた工藤さんの履歴を事ごとししげに綴ってみたところでさして意
味も必要もないだろう。そんなことは彼がもっとも忌み嫌ってきたことでもある
。彼が司会をした座談会での彼の発言、彼の書いた数編の時局政治論、書評など
を読んでくだされば、彼がどのような立場、思想を保持して、生きてきたか、お
およその見当はつくと思われる。
少しだけ付け加えるとすれば、彼は常々自らを共和主義者、社会民主主義者と
呼んでいた。学生時代、イタリアのマルクス主義思想家アントニオ-グラムシの
思想に深く傾倒し、彼の友人たちによれば、その読みは水準はるかに越えていた
という。このグラムシ政治・哲学思想との出会いが彼を60年代の日本社会党機
関紙局に赴かせたともいえよう。大学卒業後、日本社会党機関紙局に入った工藤
さんは資料室に配属、政治学者松下圭一氏指導のもと、当時極めて貧弱だった資
料室の充実と整理に働く。
だが、60年代後半、機関紙局は赤字を抱え、経営・財政合理化を迫られ、こ
の問題を契機に機関紙「社会新報」編集の自主管理闘争が始まる。67年頃から
世界規模でも、学生・労働者らの反戦・反権力闘争が高まり始めていた。日本
でも全国の大学に全共闘組織が生まれ、大学解体をスロ--ガンに各大学はバリ
ケード封鎖されるなど、騒然たる状況がつづいた。69年1月の東大安田講堂攻
防戦がピ―クだった。69年12月の衆議院選で社会党は大敗、社会党本部に人員
整理問題が起こる。この二つの反対闘争が結びつき、中心にいたのが工藤さん
だった。
70年3月闘争は終焉を迎える工藤さんは辞めた、いや社会党に愛想を尽かし
た。以後、一編集者として生活と思考を続けていくことになる。その存在はい
わば「不世出」の人だった。これはわたくしたちにとって、という限定をつけ
ねばならないが、お世辞でも追従でもない。彼の世界認識と状況判断には瞠目
すべきものがあり、正確かつ犀利だった。いや、いつでもあまりに正しすぎ
た、言うべきかも知れない。他者の誤り、不正義、悪への彼の厳正かつ根底的
な批判は時として接する人たちに、嫌悪、誤解を招いた。わたくしから見ても
「言いすぎ」と思われることがあった。
だが、彼の容赦しない批判は、彼の自分自身に妥協を許さぬ潔癖性から由来し
ていたのだろう。厳しすぎたかもしれない倫理性が何に基づいていたのか、わ
たくしには分からなかった。キリスト者風でも道学者風でもない、とすれば彼
の思想原質がそのように身を持する論理を生み出していたのだろうか。
たとえば、こんなことがあった。わたくしが国会議員秘書をしていた二十数年
前のことだが、数人の仲間が当時競馬に凝っていて、わたくしに「農林省競馬監
督課に国会議員秘書として電話依頼すれば、中央競馬場の貴賓席入場券が入手で
きるので頼んで欲しい」というのだ。それほど深く考えもせず彼らの依頼に応じ
ていた。この一件を知った工藤さんは「そんなことはよせ。たとえ小さなものに
しろ権力特権の利用は悪だ。君らの思想に反する行為ではないか。」彼はこうし
て日常性の中でのちょっとした行為・行動にたいして彼自身、周囲の仲間たちも
含め、節度ある身の処し方を心がけ、心がけよ、といっていたように見える。
身の処し方ということでは彼は「階級移行」を信条としていた。マルクス、
レーニン、グラムシを読み、社会変革を志した者として「労働者階級」の生存
圏へ自らを移行させなければならない、「行きて戻らぬ」確固とした信念が大
切だ、というのだ。いまの時代にはもうなかなか理解されない「理想論」に
なってしまった。
意識的に生活のあり方を抑制していく。贅沢、さまざまな欲望、我執を捨て去
り庶民の生活のままに自らも生きる。生産と享受が分離された資本制社会にあっ
て、このような理想を現実化していくことは難しい。工藤さんはそれを分かっ
た上でなお言わなければならなかった。二律背反を実践的に生きようとし生き
てもきたのだ。
中野重治は『むらぎも』で主人公片口安吉の口を借りて「彼は生活を窪地の、
乱雑な不合理性の方へ植えかえてしまいたい。しかし、できない。植えかえる場
合、何がどうなろうかという、未来からくる不安な何かがそこにあった。」とい
う。この窪地とは徳永直の『太陽のない街』で知られる本郷台地の低地の一つ、
貧しい庶民たちの居住区域である。中野重治も「階級移行」を見据えながらとつ
おいつしている。
戦前の天皇制軍国主義下、社会主義者への激しい弾圧を実感しながら、なお
「日本革命」を志す者にとりこのアポリアは越えねばならない事であったの
か。政治状況は1920年代と60年代では雲泥の差があるにしても、60年
代半ばの日本社会党本部に加わった者たちに対し「君らはこのくらいの覚悟が
あってここにきたのだから、そのように生きよ」と工藤さんは語りかけ、彼自
身の位相はその後揺るぐことはなかった。政治の現場から離れた彼は政治変革
思想の新たな構築に向かい一人進んでいった。この数年彼がまとめようとしてい
た「風土論」と「大衆社会論」を「帝国主義論」で架橋する。この構想の大略は
残念ながらわたくしたちの前には提示されず、彼は去っていってしまった。
(元社会新報記者・元国会議員秘書)
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