【北から南から】
中国・吉林便り(28)

山での遭難騒ぎ

今村 隆一


 吉林でも中国大陸一斉の大学入学試験である“高考(ガオカオ)”が6月7日から行われ、続けて日曜日の10日、第3回吉林市国際マラソン大会が開催されました。私は自転車で30分ほどの大河・松花江(ソンファージァン)沿いにある吉林毓文中学まで見に行きました。
 この毓文中学は1917年創立で中国国内“百名校”だそうです。1919年北京の天安門前に今の北京大学学生など約3千人が集合した反帝国主義・封建主義の愛国「五四運動(5月4日)」、それに呼応した5月5日と7日の行動記録が残っていると言われる歴史のある学校で、また故朝鮮民主主義人民共和国主席金日成が1927年から1930年の期間留学した事で知られています。校内には記念室と像があるそうです。
 毓文中学前はマラソンコース5kmの走路になっており、私は戸外活動で同行した人が多数申し込みしたので声援を送ろうと行ったのでしたが、誰一人見つけられませんでした。そのわけは先頭集団の選手以外は人が多すぎ、単に集団移動が延々と45分以上続いただけで、見物者も多く、吉林での人の多さに只呆れて帰ってきました。

 「山岳遭難」とは狭義で登山者や専門家の山中での事故が対象になり、「山での遭難」とは登山者に限らず山麓を含めた山の中で発生する事故と対象者と対象地域を広義に私は捉えています。
 世界最高峰のエベレストは漢語では「珠穆朗玛峰」と書き「ジュムランマ・フェン」と発音し、日本では「チョモランマ峰」と表記しているようです。今年はこの山に5月14日に膝下両足が義足の中国人男性69歳の夏伯渝鼬さんが、これまでの4度の失敗を克服し登頂に成功しており、一方で5月23日、日本人男性登山家・栗城史多さん(35歳)が残念なことに未登頂で山中で亡くなりました。又、日本国内では新潟県阿賀野市の五頭連山で、市内会社員の父親と小学1年生の子の二人が5月29日遺体で発見されたニュースがありました。

 かつて大学のワンダーフォーゲル活動に参加していた私は、1968年3月に四国の高知県土佐中村市の山麓で一人の同期友人を亡くしており、卒業後も1972年5月に後輩の部活動中、東京都の奥多摩で一年生部員を、2005年5月に北アルプスの笠ヶ岳山中の雪崩で二人の後輩を亡くしました。山での遭難は結果として多くの人に与える影響も迷惑も多大なことから、現在でも自分も含め他の人の山での遭難ニュースには敏感です。

 他の人と比較して運動神経には劣等感しかないが体力は標準と思い続けてきた私が、まわりが山に囲まれた吉林市に住み始め、毎日のように緑豊富な山を見て、登山意欲が湧くのは自然なことでした。最初は自転車で山麓まで入り、頂きまで1~2時間ほどかけて上り下りしたり、バスに乗って終点の市の南15km王相村にある尼寺の万徳寺で終点下車し、そこから磨盤山(モォパンシャン)783.8mに何度も一人で登っておりましたが、2012年の春節明けに「戸外群(ハイキングクラブ)」の存在を知り、その年の3月からは戸外群の活動参加を始めました。
 途中2012年秋、日本国政府の尖閣列島問題惹起による反日デモ発生、2016年夏、蛇咬傷・膝関節炎発症で活動中断はありましたが、今年は2月末から6月の現在まで18回の戸外活動に参加しております。このように、吉林での私の生活は平日の北華大学以外は、ほとんど週末は戸外活動参加となっています。

 山歩きで最も注意していることは、怪我しないよう自らの歩行に神経を集中させていることです。私は吉林における山での活動で重要な装備は第一に登山靴だと思っています。次に登山杖(ステッキ)です。服装は冬期の降雪・績雪期の防寒は大切ですが、雨で濡れることは冬季はほとんどありませんので、日本の春や秋のような天侯から受ける影響、特に雨や雪で濡れて体温低下を招く恐れは吉林では少ないと言えます。
 靴と杖の重要性はリーダーをしているネット名「打火機(ダァフォジィ:ライターのこと)」が戸外活動時の行き帰りのバスの中で初心者に必ず提言しています。彼は山中での参加者統率がすばらしいので私は彼に全服の信頼を寄せているリーダーです。

 5月と6月は、吉林市と周辺市では山菜摘みが盛んに行われます。私たち戸外活動参加者もしきりに蒲公英の新芽や青葉をほじくり出したり摘んだりします。
 5月24日“冰壺溝(ビンフゥゴウ)”という山中で家族と共に山菜取りに来ていた83歳の女性が行方不明になりました。家族や地元の人たちが捜索したが発見できず、2日後に吉林市の戸外活動者に救援の呼びかけがあり、それに応えて「打火機」は仲間に呼びかけ28日早朝現地に入りましたが、残念ながら老婦人は亡くなった姿で海抜801mの地点で発見されました。医師の検視では24日の夜には心臓は止まったとのことでした。28日はSNSに打火機の行動に称賛の声があがりましたので、私も絵文字で彼を讃えました。
 冰壺溝は吉林市の東に隣接する蛟河市にあり、溝(ゴウ)は谷のことです。私は冰壺溝には戸外群の活動で2012年4月7日に行っておりますが、その時は残雪が多く、運悪く天気も降雪でしたので、景色などの記憶は全くありませんが、その後周辺の山を何度も登っており、登山ばかりでなく春の山菜、夏の避暑、秋の紅葉で多くの人が当地に訪れていることは知っておりました。

 実は私も5月27日・日曜日の戸外活動で遭難騒ぎに巻き込まれてしまいました。ある戸外群の“白石山国家森林公園休閑活動”において山中で遭難してしまったのです。この日は朝から雨模様の曇りで視界のない海抜約1,000m地点での出来事です。参加者総数170名がバス3台に分散し、吉林市を午前6時半に発って10時に白石山森林公園山中で下車。リーダーの「G木」が先導し山中に入って行きました。バスの中では何の説明もなく、現地に到着後いきなりバスを降り、参加者が散在、何をしようと参加者の自由と言うことだったのでしょうか。このようなことは滅多になく、バスに乗車後も参加者への声かけも説明も全く無いものでした。
 私はこのリーダー「G木」とはこれまで4回活動を共にしたことがありましたが、これまで彼はリーダーをしたことが無い人でした。この戸外群は休閑活動を中心とし、比較的高齢の女性と経済的に豊かそうな人が多く参加しており、私にはこれまで最も少ない参加戸外群でしたが、この群代表が北華大学の女性事務職員で職場も隣接して私には近しい間柄でもあったのです。

 この日の活動は日帰りの休閑活動であったことから、山中で遭難することは全く予想外のことでした。山中での山菜取りと昼食が終わり、13時45分にここでリーダーが初めて周りの人に下山開始の声を掛けのですが、原路を引き返さず山の中をリング・ワンデリング(ぐるぐる歩き回ること)して何と2時間を費やしてしまいました。全員で23名(男性11名、女性12名)、登山靴を履いているのも雨衣を持っているのも電灯を持っているのも私一人でした。
 夕闇迫り、リーダー不信になった参加者の一人がスマホで119番(警察110番と火災救援119番は日本と同じ)をした結果、今いる所から動かないように告げられたため、リーダーも含め当地で救援を待つことになったのです。
 真っ暗な山中で救援が来るまでの時間、枯れ枝を集め燃やし暖を取り、救援隊が着いてから救援隊員の先導で午後8時40分下山開始しました。10時半まで約1時間50分掛け車道にたどり着きました。待機のライトバンに乗り、ほどなく11時45分に白石山国家森林公園事務所併設の賓館(ホテル)に到着し、そこで宿泊。貸し切りバス3台は前日吉林に戻ってしまっており、28日の朝、森林公園前から乗り合いバスで白石郷、更に乗り換え蛟河市の中心地まで行き、そこからタクシーで吉林に戻りました。宿泊費用とタクシー料金は戸外群が支払ったのでしょう。

 この遭難のニュースは5月28日の吉網、吉刻记者の曹逸群とレポーター蘆俊鐸の名前で「吉林市の驢友(山仲間)23名が白石山大趟子国家森林公园の深山で行方不明(含1名外籍人)」とネット掲載されました。実際23名の下山は全員自力でしたが、なぜか70歳の老人が怪我を負って背負われて山を降りた、との報告になっていました。このレポートでは30人が救援捜索のため山に入り、150人の公園管理関係者が待機し、この捜索のため電灯や発煙筒、拡声器なども準備、使用され、救出は困難なものだった、とされていました。

 白石山と呼んではいますが、実はこの山は蛟河市平頂山1,284mであり、私はこれまで3回この山に入っており、これまでは山裾から延々と歩いて登り降りしていたのですが、一度も最高点までたどり着いていない、平頂山と言う名の通り山頂付近が広く樹木も茂り判りにくい地形の山でした。頂上近くまで自動車が入れる道ができていることはこれまで来て見て知っていましたので、今回の戸外活動に参加したのですが、天気に恵まれず、不本意ながら遭難騒ぎの渦中の一人になってしまいました。
 レポートの1名外籍人とは外国人のことで、119番通報した人は日本人が一人含まれていると伝えていましたが、森林公安分院は記者には日本人とは言わず外籍人としたのでしょう。それは私にとってはありがたいことでありました。この遭難のお蔭で私は大学での日本語授業の補習授業をせねばならなくなりましたが、この程度で済んだことは幸いなことでした。

 (中国吉林市北華大学漢語留学生・日本語教師)

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