【◎神社の源流を訪ねる 55】

対馬の中臣氏をたどる

栗原 猛

◆亀卜で広い人脈  

 中臣という名前は、「神と人との中を執り持つ」という意味といわれるので、神事を職業としていたことがうかがえる。                               
 大中臣氏が朝廷に提出した「新撰氏族本系帳」に、「黒田大連公、二男を生む。中臣姓の始め、中臣常磐大連公。右の大連、初めて中臣連の姓を賜る。…欽明天皇の代、特に令誉を蒙る」とあり、これが「中臣連」の初出といわれる。「令誉を蒙る」とあるから、何か大いに功績をあげたのであろう。

 この点について、古代史家の横田健一氏は、常陸の鹿島社を奉祭する卜部が中央に出て、宮廷の雨師的司祭者として立身して、中臣氏になったのではないかとみる。               

 また田村圓澄氏は、「大鏡」に「鎌足の大臣の生まれ給えるは、常陸の国なれば…」などとある点に着目して、中臣鎌足は常陸出身とみる。             
 「続日本紀」には、「内大臣従二位・藤原朝臣良継、病めり。其の氏神、鹿嶋社を正三位、香取神を正四位上に叙す」という記事があり、同十一年十月条には「常陸国鹿嶋神社の祝(はふり)正六位上中臣鹿嶋連大宗に外従五位下を授く」とある。このように鹿島、香取両神社がそろって昇格していることから、中臣氏と鹿島、香取神宮とのかわりは、すでに日本書紀が書かれる以前からあったと思われる。こうした関係から中臣氏は、鹿島神宮の氏子だったのではないかという見方も出てくるわけだ。 

 また大阪市の枚岡(ひらかた)神社も、中臣氏の氏神とされている。中臣氏は神社祭祀に大事な亀卜を通じて、広いつながりを作っていったことがうかがえる。

 そこで対馬で生涯を終えた中臣烏賊津使主になるが、対馬に関する古代史研究家の座談会の特集に、中央から来た研究者から対馬出身の古代史研究者の永留「ながとめ」氏が、「『ナガトメ』さんは『ナカトミ(中臣)』と読まれたのではないですか。手掛かりになる伝承などは、聞いていませんか」と尋ねたという記述が載っている。中留氏は笑っているだけで特に発言はなかったようだ。

 906(延喜6)年の「新撰氏族本系帳」では、天児屋根命の子孫の常磐大連が、欽明朝のときに中臣連となり、大和王権の祭祀機構を取り仕切ったが、鎌足の時代になると中臣の系統は祭祀を継ぎ、鎌足の系譜は「藤原」を名乗って政治の舞台にかかわったが、その前の烏賊津使主がいた時代には、まだ「中臣」と名乗っていなかったのではないか。「中臣烏賊津使主」は、中央の影響力が伸びてくるにしたがって、亀卜の有力者として中臣一族に組み入れられていったのかもしれない。
 対馬には雷大臣命に関する伝承が、このほかにもあり、厳原町豆酘の雷神社は新羅征討からの帰還後に、雷大臣命が邸宅を構えた場所という。雷大臣命はそこで朝鮮からの入貢を掌り、祝官としての祭祀の礼や亀卜の術を伝えたという。
 美津島町加志の太祝詞神社には雷大臣命の墓がある。厳原町阿連の雷命神社の社家である橘家は、大臣命の末裔といわれ、上対馬町芦見の能理刀神社は雷大臣命が亀卜を行った場所とされる。以上

(2023.6.20)
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