【コラム】
風と土のカルテ(80)

実像のナイチンゲールと「看護師の鑑」Kさん

色平 哲郎

 今年2020年は、近代看護の創始者フローレンス・ナイチンゲールの生誕200年に当たる。ナイチンゲールといえば偉人伝の常連で、世界中に彼女の名は知れわたっている。看護学校の中には、戴帽式や卒業式で「ナイチンゲール誓詞」を唱和するところも少なくない。

 ナイチンゲール誓詞は、米国デトロイトの看護学校がナイチンゲールの偉業を讃え、「ヒポクラテスの誓い」にならって作成したもの。それはそれで定着していることなので、今さらとやかく言うつもりはないのだが、美化・偶像化されたために、彼女ほど、業績の本当の偉大さが一般に伝わっていない偉人も少ないのではないか。

●信じられないほど壮大な業績

 そもそもナイチンゲールはイギリスの上流階級の生まれで、社交界の花形、身分の高い貴婦人だった。そのような女性が、英国、フランス、オスマン帝国の同盟軍とロシア軍とが激闘をくり広げるクリミア戦争(1853~56年)の兵舎病院へ看護団を率いて赴くものだから世論は大いに沸き立った。

 しかし頑迷な軍医長官は看護団によるケアを拒む。ナイチンゲールは不衛生な環境を整えることから次第に、インスタンブール近郊の兵舎病院に入り込み、感染症などで40%以上に跳ね上がっていた患者(傷病兵)の死亡率を5%程度まで下げたといわれる。

 それで「クリミアの天使」と呼ばれるわけだが、「戦場で敵味方に関係なく看護した」とか、「看護師は自己犠牲を厭わない白衣の天使であるべきだと強調した」というのは事実に反する。むしろ療養環境の劣悪な状態、そして医師たちのパターナリズムを改めさせ、看護職を専門職として確立するために「知的に、したたかに、たたかい続けた人」と言えようか。

 実は、ナイチンゲールが看護師として働いたのはわずか2年半だった。36歳で英国に帰還したナイチンゲールは、人獣共通感染症ブルセラ症に起因するとされる慢性症状のため、その後の54年間、90歳で亡くなるまで、ほとんどベッド上で生活を送る。病床から英国政府に提言して諮問委員会を作らせ、調査情報を集めて報告書をまとめる。膨大な書物を著す。

 ナイチンゲール看護研究所(金井一薫所長)のウェブサイトによれば、ナイチンゲールは「8つの顔」を持っていたという。著述家、看護の発見者、教育者、優れた管理者、衛生改革者、病院建築家、統計学者、ソーシャルワーカー──。これらの顔々が見つめていたのは、あえて単純化するなら「病者と看護者の良き環境をつくること」だったのではないか。

 ナイチンゲールは自著『看護覚え書』で、看護の定義についてこのように述べている。
 「看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また食事内容を適切に選択し適切に与えること──こういったことのすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えること、を意味すべきである」。

 こう訴え、実際に病棟を設計し、理想のケア環境を現出させた。このようなナイチンゲールの信じられないほど壮大な業績について、われわれ医師はほとんど知らない。

●次の世代はどう受け止めるか

 一方、私が「おねえさん」と呼んでいた看護師の鑑、Kさんは深く洞察していた。今年の夏、「おねえさんにとって、フローレンス・ナイチンゲールって、いったいどんな人でしょうか?」と問うと、こんなメールが返ってきた。

 「看護を志したものとして、とても尊敬する存在です。命を使って(使命)、命を削って、たたかい、妥協を許さなかった。看護を、聖職でなく、賎職でもなく、専門職プロフェッションとして認めさせた。『あの時代』に看護職(ケアワーカー)の役割を主張し、普遍化した。感情的、ヒステリック、そうですね、、、冷徹です。後につくられた偶像。周囲が都合よく語って、それがそのまま伝えられてしまった。そして、意思を貫いた勁(つよ)さ、でしょうか」

 このメールが届いて間もなく、Kさんはご自宅で71歳で亡くなった。Kさん自身、佐久総合病院の外科病棟で看護師を長く務め、協同組合医療運動を先導しておられた。「一人ひとりが大切にされる社会(病院)づくり」を目指し、女性がたたかい続けることの厳しさを、身をもって知っていた彼女。

 ナイチンゲールの真実の姿、ここを看護の次の世代はどう受け止めてくれるのだろうか。

(長野県佐久総合病院医師・『オルタ広場』編集委員)

※本稿は、『看護覚え書(改訳第7版)』(現代社、2011)の他、ナイチンゲール看護研究所のウエブサイト(https://nightingale-a.jp/)、長島伸一『ナイチンゲール』(岩波書店、1993)を参考にさせていただきました。

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2020年12月28日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202012/568531.html

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