≪連載≫宗教・民族から見た同時代世界
宗派主義・排他主義が懸念されるインド新政権
インドで10年ぶりの政権交代が行われ、ナレンドラ・モディ首相率いるインド人民党(BJP)が政権の座に就いた。
慢性的な汚職とばらまき政治で経済停滞に悩むインドで、西部グジャラート州の州首相であったモディ氏は、インフラ整備に剛腕を振るってインドではじめて「停電のない州」を実現し、海外からを含む企業誘致で州経済を10年連続2ケタ成長させたとされ、そのモディ氏の開発と政策実行力への期待が、去る4、5月の総選挙でインド人民党の地滑り的な勝利をもたらしたといわれている。
では、インド人民党とはどのような政党であり、モディ氏とはいかなる人物であろうか。過去の行動から確かめておきたい。
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◇◇ ヒンドゥー主義団体から派生
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インドには独立以前から、民族義勇団(RSS)と称する、侮れない勢力をもって強硬路線を展開するヒンドゥー至上主義団体がある。この団体の政治組織として1980年に設立されたのが、インド人民党である。
8割近いヒンドゥー教徒の他にイスラム教徒をはじめ多様な少数派を抱えるインドでは、セキュラリズム(政教分離、宗教的融和主義)と「少数者への配慮」を独立以来の国是としてきたが、その理念と真っ向対立する「ヒンドゥーこそ至高」「多数派ヒンドゥーの力で強力な国家を」と唱えて登場したインド人民党は、しかし、その極端な主張から、当初は、政治の主流にはなりえない政党とみなされ、事実、84年の選挙では下院公選議席543のうち、僅か2議席を獲得したのみであった。
この政党が一挙に党勢を拡大したのがアヨーディヤ事件であった。
では、アヨーディヤ事件とはなにか。
北インドにあるアヨーディヤという町は、古代叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子(ヒンドゥー教の主神の一つ、ヴィシュヌ神の化身)の誕生の地とされる。そこに16世紀に建立されたバーブリ・マスジッドとよばれるイスラムのモスク(礼拝堂)があった。それに対して、「ここはヒンドゥーの聖地だからそのモスクを毀してラーマを祀るヒンドゥー寺院を建てよう」という乱暴な主張のキャンペーンを、民族義勇団とその傘下の、インド人民党を含むヒンドゥー至上主義諸団体が展開したのである。
90年10〜11月、ヒンドゥー至上主義派は数万人の支持者をアヨーディヤに動員し、モスク破壊を企んだ。だが、治安部隊に阻まれ、衝突して怪我人がでた。一旦、流血の騒ぎなどが起こるとすっかり興奮するのがインドの大衆のつねである。ヒンドゥー対ムスリムの宗教暴動が全国に亙って起こり、数万人の死傷者をだした。
この騒乱と興奮をヒンドゥー教徒の結集に結びつけて、インド人民党は、翌91年の選挙で119議席を獲得し、政党としての地位を確立する。
これに味をしめたヒンドゥー至上主義派は92年に再びモスク破壊の大動員をかけて、ついにモスクを破壊した。再び宗教暴動が全国に広がり、前回に増す犠牲者をうんだ。
宗教暴動とはいえ内実は多数派ヒンドゥーによる少数派イスラム教徒への一方的な攻撃、暴行である。これが効を奏して、インド人民党は次の選挙では162議席を得て第一党にのし上がる。
社会の閉塞感や大衆の不満を吸収し騒乱に仕組んだインド人民党は、98年、ついに同党主導の連立政権を立ち上げるに至った。
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◇◇ 虐殺を止めなかった州首相
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政権を獲得したとはいえ、同党の得票率は25%、連立諸政党を合わせても37%。安定政権にはほど遠い。そこで仕掛けたのが、政権獲得直後の核爆発実験であった。物議・騒乱こそ求心力のもと。国際社会の非難を浴びながらもその冒険によって、同党主導政府は、国内では92%という驚異的な支持を得た。
次なる支持獲得のイベントが2002年のグジャラート州における宗教暴動であった。モスク破壊後も列車を仕立ててアヨーディヤへ通うヒンドゥー至上主義活動家と沿線イスラム住民との衝突をきっかけに、グジャラート州の各地でヒンドゥー大衆によるイスラム住民への攻撃がはじまり、暴行、略奪、放火で一説では3千人を超えるイスラム住民が犠牲になった。
問題は、国内外からの非難にもかかわらず、このような事態が同年3月から5月に亙る2か月以上も続いていたことである。打つ手がなくというより、これをヒンドゥー教徒結集の好機と捉えたインド人民党州政府の意図的な放置と見るのが、当時のインド知識人の多くに共通する見解であった(因みに筆者は当時、隣州に在住)。
これによって政権基盤を強化した当時のグジャラート州首相が、他ならぬ、民族義勇団幹部出身の、ナレンドラ・モディ新首相である。
彼は虐殺放置の廉によって米国からはビザ発給を拒否されてきた。
さて、こうした冒険主義的なパフォーマンスで大衆の支持獲得に成功したインド人民党ではあったが、新自由主義的な経済政策で期待を裏切られた貧困層の離反によって、04年の選挙に敗れ、政権を国民会議派に譲った。
国民会議派政権は、国是のセキュラリズムと「少数者への配慮」に加え「公正と社会正義を伴った経済成長」を旗印にバランスのとれた政策運営を志して10年間、政権を維持してきたが、政界汚職の蔓延や経済の低迷で支持を失い、今また、宗教や民族というアイデンティティ・レベルの刺激をこととするポピュリズム(大衆迎合主義)の政治勢力に政権を譲ったのである。
さすがに選挙中は宗派主義・排他主義的な発言は封印してきたインド人民党ではあったが、国民がこの政党に期待する経済改革が順調にすすまないとき、求心力を保持する手段として、再び国内の少数派や隣国に排他主義の矛先を向けることになるのではないか、懸念されるところである。
(筆者は元桜美林大学教授)