【コラム】神社の源流を訪ねて(34)

宗像大社

栗原 猛

◆ 大陸と交流の守護神だった

 JR鹿児島本線東郷駅から宗像大社前でバスを降りると、すぐ目の前が宗像大社である。祭神は田心姫神(たごりひめ)、湍津姫神(たぎつひめ)、市杵島姫神(いちきしまひめ)の三女神である。
 社殿は海を向いて建てられていて、沖ノ島の沖津宮に田心姫神、大島の中津宮に湍津姫神、辺津の宮に市杵島姫神が祀られ、この3社を合わせて宗像大社と呼ばれる。全国の六千近くある宗像神社の総本社でもある。古代から日本と朝鮮半島を結ぶ「海北道中」(うみのきたのみちのなか)の守護神とされ、古事記、日本書紀も重要視していることがうかがえる。

 社伝によると、古事記、日本書紀には、天照大神は宗像三柱大神に対して、「歴代の天皇を助け奉り、歴代の天皇からお祭りをうけられよ」との御神勅を下されており、建国当初のきわめて重要な時に、重大な御使命を帯びて、対内的には九州の緊要な位置、対外的には大陸との交通の門戸に当たる宗像の地に…三柱の神々が降られたことに、並々ならぬ意義を拝察することができます。宗像大神は,またの御名を「道主貴」(みちのぬしのむち)と申し上げます―とある。
 沖ノ島にも行ってみたかったが、ここは信仰の島なので簡単に上陸はできない。ただし祭祀遺跡の主なものは、広大な境内に造られた神宝館で見ることができる。
 沖ノ島は、その昔は宗像地方を根拠にした古代の豪族胸形氏の信仰の島だった。胸形氏は玄界灘の航海術に優れて、『福岡県の歴史散歩』によると、「朝鮮半島や大陸との交流が大事だったヤマト政権が手に入れる手段の一つとして、胸形氏の信仰を同時に利用したと考えられる」という。朝鮮半島と切り離せない関係にあるヤマト政権にとって、ここは海の関所、つまり「道主」だったのである。

 沖ノ島は宗像の新湊から約57キロで、古代から朝鮮半島への目標になり、歴史が下っても航海者にとっては信仰の島だった。不言島とも呼ばれ、島のことは外部に話すことは禁じられ、明治以降もわずかの神職や研究者が立ち寄っただけとされる。
 それが1954(昭和29)年以降3次にわたる調査によって、祭祀遺跡の重要さが一躍世間に知れ渡った。とりわけ注目されたのが、祭祀形態の推移と奉献品の豊富さである。沖ノ島を見れば、祭祀形態の移り変わりが、一貫してわかるといわれる。

 調査で明らかになった祭祀形態は、4、5世紀は、巨岩の上に方形の祭壇を積み、中央には依代とみられる小石が置かれ、磐座がつくられている。またこの時期には鏡や碧玉製の腕飾り鉄製品など、古墳時代前期と共通する出土品が出る。
 少し下って5世紀後半になると、祭祀は岩陰で行われるようになり、ひときわ目を引く金銅性の指輪や帯飾り指飾り、馬具、鉄斧など新羅からの舶来品が増えてくる。大陸との交流がさらに広がったということであろう。それ以降になると、祭祀は半岩陰で行われるようになり、やがて建物が作られ沖津宮社殿に移って行ったと考えられている。

 海の正倉院と呼ばれるように、奉献品の中には朝鮮、中国、遠くササン朝ペルシャ製のガラス細工などもあり、古代から人々の交流の広がりが知られて興味深い。

 (元共同通信編集委員)

(2021.09.20)
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