【コラム】神社の源流を訪ねて(46)

天孫族と対馬

栗原 猛

◆ 往古、天孫族の「首都」は対馬の佐護だった

 「対馬島誌」は戦後、何回も改訂版が出されている。出版元は違うがいずれも千ページの及ぶ大作である。神社の項目では神話や神社にまつわる伝承などが豊富に収録されており、対馬の神社が果たした役割の重要さが神話を通して知られ興味深い。いくつか関係する項目をひろってみた。
 「太古の対馬には所々に天孫族の神を祭れる古社あり。其の中に天孫族通過の遺跡を祀れるものあるべし。神代に於いて、天孫族最初の首都は上県郡佐渡の地ならんとの説あり」。

「天穂日命(天照の子神)の子、天日神命、對馬の県主になり、小船越に府を置きたまえり。阿麻氐留神社は其の遺跡なりと伝ふ」。
「天日神命は出雲系なれば当時、出雲朝の勢力本島に及び居りしならん」。
「天孫族は出雲族と同じであり、最初に国を造った人々は海人族であった」。
「和多都美神社の祭礼の鯛口に釣り針をつけて奉る。海幸山幸の神話を再現している」―

 古い時期、天孫族と対馬のかかわりが、深かったことがうかがえる。記紀には、5世紀に対馬と壱岐の神社の祭神が亀卜の人々と一緒に、奈良に移ったという有名な記事がある。この時期には、中央では国づくりが盛んに進められていたから、対馬や壱岐の豊かな伝説や進んだ神社の行事、亀卜などが卜部によって中央に持ち込まれ、記紀の編纂作業にも当然、反映されたと思われる。また中央の神を中心にストーリーを組み立てるために、地方神が持ち上げ役になることもあったと思われる。
 「対馬島誌」も指摘しているように、対馬には海幸山幸が祭神の神社や、海幸山幸にまつわる伝承などが極めて豊富なことである。市内を車で走ると、豊玉姫を思わせる豊玉という地名、豆酘の多久頭魂神社は「ユキ」、佐後の天神多久頭魂神社は「スキ」と呼ばれるが、これは大嘗祭の際に作られる悠紀(ゆき)殿と主基(すき)殿を思わせるとの指摘もある。
 神社についてよく式内社かどうかと関心を持つ人がいるが、式内社というのは10世紀初めに大和政権が官社と認め、「神名帳」に記載されている神社のことで、全国には2861社ある。うち九州に総数98社。福岡には11社あるが、対馬、壱岐の2島合わせるとなんと53社(対馬は29社、壱岐は24社)にものぼる。天孫降臨の地と言われてきた宮崎は4社、鹿児島は2社だから、飛びぬけて多いことになる。この神社巡りでは、神社の祭神が渡来神とかかわりのあるかどうかを注視していて、式内社かどうかについてはこだわっていないが、それにしてもこの多さはどういうことなのだろうか。 
 対馬と壱岐が「神々の島」と呼ばれるゆえんがよく分かるが、大和政権のみならず古代の人々が、福岡―壱岐―対馬ー朝鮮半島のルートを、ことのほか重要視していたことがうかがえて興味深い。

◆以上

(2022.9.20)
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