【コラム】
酔生夢死

大脱走というパトス

岡田 充

 何から何まで舌を巻いた。カルロス・ゴーン・日産自動車前会長(65)の“大脱走”である。楽器の収納ケースに身を潜めてセキュリティチェックをかいくぐり、関西国際空港からプライベートジェット機で中東のレバノンへ―。ハリウッド映画を地で行く脱走劇。ハリウッド映画のプロデューサーが、映画化提案をしたというのはよく分かる。

 世界的企業の元トップに、プライベートジェット機。脱走計画を練ったのは、米軍特殊部隊(グリンベレー)出身の民間セキュリティ会社… 主役をはじめ大道具と小道具がこれほど揃っていれば、劇画『ゴルゴ13』も敵わない実話だ。「事実は小説より奇なり」という格言が頭に浮かぶ。
 まず舌を巻くのが、大脱走を実現したゴーンの「パトス」(情念)だ。彼は「私は有罪が前提とされ、差別がまん延し、基本的な人権が無視されている不正な日本の司法制度の人質ではない」と、レバノンで“潔白”を主張した。主張の是非はともかく、海外でゴーンと同じ立場に置かれた日本人なら、実行に移すだろうか。

 多くの日本人は、「冤罪」で起訴されたとしても、あるいは理不尽な外国の司法制度で裁判を受けたとしても、それを「運命」として受け入れ、裁判で無実を主張する道を選ぶのではないか。大地震に台風・豪雨など自然災害が常態化している日本では、身に降りかかった災禍は、自然災害と同様「あきらめる」のが習い性になっている気がする。農耕民族の性。
 これに対し、欧米社会では「運命」を受け入れず、状況を切り拓くのが人間性の発露であり、正義と考える傾向が強い。犯罪や災害、戦争に直面した人物が、一見無謀とも思える挑戦をして状況を切り拓く。ハリウッド映画の典型的「文法」の一つでもある。「善と正義」を御旗に「神」の恩寵も受けながら、最後に自分の思いを遂げる主人公は「英雄」である。

 大脱走に対する日本人の受け止め方は、二分される。大晦日のニュースでまず感じたのは「痛快」だった。子供の頃読んだ小説「怪盗ルパン」が、幾重もの厳重な網をかいくぐって脱獄に成功する物語の痛快さと同じ。作り物に過ぎない権力や権威をものともせず、あざわらう快感である。
 もう一つの反応は、お上に従順な常識的法治論。日本を代表する「読売新聞」は、ゴーンのレバノン記者会見について「国外逃亡を正当化する理由にならない」とし「主張があるなら法廷で語れ」と社説に書いた。ゴーンの身柄が日本に戻る可能性はほぼゼロ。「犬の遠吠え」なのだが…

 と、まあかなりゴーンに同情的なことを書いてしまった。冷静に見れば、大脱走を可能にしたのは、脱出作戦費用だけで日本円で約16億円(ブルームバーグ通信)もの大金を投じた財力だ。「地獄の沙汰もカネ次第」と言ってしまえば身もふたもないが、カネさえあれば、司法制度も国境もなんなく越えられる。そんな世界にわれわれは住んでいる。

画像の説明
  『みんなの怪盗ルパン』(ポプラ社 2016/3/8)の表紙

 (共同通信客員論説委員)

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