■【横丁茶話】
大江健三郎の演説と「春さきの風」 西村 徹
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月遅れの話になるが、7月17日「朝日新聞」川柳の欄。「声出して力出る人
出ない人」という句に「一流か二流か」と注釈があった。新聞を丹念に読んでい
れば解るのだろうが、丹念に読まない私にはこの川柳がなにを諷しているのか解
りかねた。家内に訊いたが解らないという。
私は脈絡もなく昨夜テレビで見た代々木公園の反原発デモで大江健三郎が演説
したのを思い出した。あの演説のことではないかと、ふと思った。朝日新聞がノ
ーベル賞受賞者を「二流か」などというはずはないから私の勘違いに違いなかろ
うが、では、どうして勘違いしたのか。
7月16日デモ当日の夕刻、どこのテレビだったか、見渡すかぎりの人の海が
まず映って、そのなかから大江健三郎の顔が浮かび上がって「わたしたちは政府
に侮辱されていると感じるからであります」とか「わたしたちは侮辱の中にいる」
とか言った。
その文言の内容はともかく、抑揚が方言によるらしいこともともかく、何故あ
んなに、いちいち尾語を落として、尻すぼみの喋り方をするのだろうか。せっか
く人々の昂揚した気持ちをまるで鎮めようとでもするかのように、あるいは肩透
かしを食らわすかのように。講演や対談のときは独特の訛り、独特の語り口がこ
の人の持ち味でもあるが、これは内輪の集会ではなくて野外の演説なのだ。
普通一般には踏ん張って、力むところで力を抜く。風船の空気が抜けるように
息を抜く。デモ参加者のブログにも「大江のモニョモニョ演説」とあったが、ま
ったく「声出して力の出ない人」の感じだった。演説がいかにも演説らしくなっ
ては作家らしくなくなるとでも思っているのだろうか。
政治家でなくても作家であっても、たとえいくら不器用で人見知りする人であ
ったとしても、石原慎太郎でなくても田中慎弥であっても、いったん野外で演説
をするからには肚をきめて責任の取れる演説をすべきものであろう。獅子吼せよ
というのではない。訛りは演説のメリハリと矛盾するものではないはずである。
演説 oratio は祈りでもある。ただ「人前で読む」講義、講演とは違うだろう。
あれがテンネンならやっぱりテンサイなのだろうか。テレビはそこだけを切り取
って映していたから、そんなふうに思うしかなかった。
17万人の参加者すべてを「侮辱している」とはいわないが、「侮辱している」
と感じた人もいなかったとは言えまい。17万人が埋めつくした代々木公園の、
久しく見られなかった特別な場の特別な熱気を損なうところがまるでなかったと
はいえまい。相手かまわぬひとりよがりと感じた人がいなかったとはいえまい。
昔こういう演説を馬乗り演説と言った。今風にはパーフォーマンスのよくないプ
レゼンテーションとかいうのでないか。
「750万を超える署名を持って首相官邸に行きましたが、官房長官は首相の
答を直接聞いてくれと言いました。その答は大飯原発の再稼働でした。私たちは
政府に侮辱されている。私たちは次の原発の大爆発によって侮辱の中で死ぬほか
ないのか。そういうことが起きてはならない。私たちは政府のもくろみをうち倒
さなければならない」。
さるブログにここまで書いてあって、それを読んではじめて何を言っているの
か結局のところだけはわかった。ならば「750万を超える署名」と、あきらか
に数を頼む政治の枠組みを自ら構えてこと挙げしているのだから、大集団を前に
した演説もまたそれにふさわしく政治的に効果を最大化する方向のものであって
欲しかったと思う。
さらに彼の演説のほぼすべてを収めた動画によって、「侮辱の中にいる」とい
う、いささか取ってつけたようにも聞こえるレトリックの由来を知った。彼の演
説は先ず中野重治へのオマージュから始まる。自分が今77歳であること。中野
重治は77歳で死んだこと。そして全集で中野重治初期の作品「春さきの風」を
読み直したこと。それは1928年3月15日の大弾圧という昭和史の中の、そ
の禍々しい日のひとつの出来事をえがいていることを語った。
「3月15日につかまった人々のなかに1人の赤ん坊がいた」という1行でそ
の小説ははじまる。父親と母親と赤ん坊はいっしょに警察に引っぱって行かれる。
父親とは別に赤ん坊は母親といっしょに保護檻に入れられた。赤ん坊は死んだ。
母親は高等(警察)に殴られ「大きな手型が顎から瞼、眉の上にかけて赤黒く浮
きあがった」。
釈放されて、帰ると未決から父親の手紙が来ていた。母親は封緘葉書を持って
来て返事を書き最後の行を書いた。「わたしらは侮辱のなかに生きています」。
みごとな第1行と、みごとな最終行である。
大江は、自分の使う「侮辱の中にいる」という言葉が、この1行、「春さきの
風」の最後の1行の引用であることを説明するために演説の前半を費やした。こ
の言葉への思いいれを伝えたいのであろう気持ちはよくわかる。
「春さきの風」が傑作であること、中野重治が大江の捧げるオマージュに値す
る詩人・作家であることに私は同意する。個人的にまったくに同意するが、その
ことへの言及がこの場の大集団にとって、はたして必要であったか、あるいは適
当であったかは疑問である。言葉の由来以上に、「春さきの風」以上に3.15
そのものを語ってくれればいっそうよかったように思う。瀬戸内寂聴が大逆事件
をメモなしで語って好評だったと聞く。
ふとここで思い出す。何についてであったか、たぶんイラク問題に関してであ
ったと思うが、日本政府のとった施策に大江は怒り、それを伝えるフランスの新
聞リベラシオンが見出しを Je suis en colere としていたことを。これがすぐ
さま日本語にして「わたしは怒りの中にいる」になるのかどうかはともかく、こ
のフランス語の言葉遣いが彼の頭の片隅にあって「春さきの風」の最終行「わた
しらは侮辱の中に生きています」に強く反応したのでもあるかと思ったことを。
彼はほかにも「ここに集まった人々はただの群集ではない。注意深い人々の集
まりである」というようなことも言った。「注意深い」もシモーヌ・ヴェイユの
引用のはずだ。「侮辱の中にいる」は引用であることを明らかにせずとも聴き手
は了解できる。よほど「注意深い」のほうが説明を多く必要とするであろう。政
治演説はそれが自分の文学趣味に合うかどうかを第一義の目的としない。結果と
して文学でありうることを妨げるものでないというにとどまる。文学を意図せず
文学でありうる政治演説は中野重治国会演説集が好例である。
毎週金曜首相官邸前に集まるデモについて、「生活の不安定な人々の数が最近
急増した日本では、福島原発事故後、これらの人々が新たに抗議活動に加わるよ
うになった。生活の不安定な若者は、自分たちをマージナルな存在に追いやって
いる社会経済システムに対する 欲求不満のはけ口として、時間的な余裕もある
ことから反原発運動に加わる」と、7月14日(フランス革命記念日)付けルモ
ンド紙は書いている。
この「若者」たちの多くは社蓄でない。つまり既得権者でない。「非正規自由
人」とも定義できるし「貧乏閑人」とも定義できる。「注意深い」若者もいるか
もしれないが「欲求不満」に身を焦がしている若者もいる。とするならば、その
中には、ひな壇に勢ぞろいした大御所たちの賛同者崇拝者ばかりの集まるいつも
の聴衆ではなくて、橋下大阪市長に熱狂するような階層の若者もすくなくないは
ずである。日を追って膨らむ人の数を見ると、この種の若者が相当の多数を占め
ると考えておかしくないはずである。
この種の若者たちをいたずらに遠ざけてしまうのでなくて大きく包み込む絶好
の機会ではなかったかと惜しまれる。さらに7月27日の国会議事堂前デモを見
ると、ほとんどカーニバルというに近い祝祭的空間が出来上がっているように見
える。集客力の高い大看板がこれだけ揃ったところで、代表格の大江はもっと堂
々と千両役者であってほしい。火薬の湿った花火のような演説ではいかにも勿体
ないと思う。まだこれからも機会はある。次のおりにはもっと「注意深く」あっ
て欲しいと願わずにはいられない。 (2012/07/29)
(筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)
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