【横丁茶話】

■大和高田市 本町・市町寸見                 西村 徹

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  昨年12月17日の土曜日、大和高田というところに行った。私の関心事は大
和高田そのものにはなく、竹内街道を走って竹内峠を越えるという、ただそれだ
けである。南河内すなわち「近つ飛鳥」、推古、用明、孝徳、敏達、わさわさと
古代天皇陵が散在するなかを、ひたすら二上山を南に巻くように東に進んで、聖
徳太子の墓所とされる叡福寺門前を過ぎる頃には、標高はかなり高くなっている。

しかし金剛葛城山系の河内側裾野は勾配が緩やかで、二上山も山といえるほどの
大きさを感じさせない。

 峠頂きから大和の野に下る坂の勾配は急になる。この緩急のダイナミズムに私
の心は弾む。子供が滑り台を滑って降りるときのように。私は他愛なく、ほとん
ど身体的に年齢を忘れる。加えて街道についての僅かな知識がその昂ぶりにすこ
しばかりの風合いを添える。聖徳太子の度重なる往還にまで想像が及ぶわけでは
ないが、司馬遼太郎を読んで得た程度の知識の中から、吉田松陰が五条の森田節
齋を訪ね、また両人が相携えて富田林へと、夜を徹して登り下りしたことぐらい
は頭に浮かぶ。

 さらには、いささかまぶしいイメージとして、青年福田定一の心臓に仄かな恋
の灯を点したという、両脚を伸ばしたまま自転車で滑降してくる「葛城の乙女」
の、ちらと微笑む姿が浮かぶ。そういうわけで、いつもドライブに誘ってくれる
Kさんが大和高田に用があって出かけるのに便乗した。

 いずれにせよ、ひとまずKさんの用というのにも触れておかねば義理が立たな
いので言い及ぶ。Kさんは地元の徒歩圏内にある工業高校に学んだ。その3年間
のクラス担任は、実家が高田のクスリ屋で畝傍中学から広島高等師範学校に進
み、卒業して大阪府立堺工業高校の化学の教師として生涯を全うされた。その先
生の遺族のところに手づくりのお菓子を届けるというのである。

 よほどいい先生だったにちがいないが、いかにもKさんという人のこだわりと
一風変わった律儀さが伺えるはなしである。

 さて、その先生はどのようにいい先生だったか。Kさんの話が簡単なので簡単
にしか言いようがないが、要するにリベラルであったらしい。対比として隣のク
ラスは、担任が検定で教員資格をとった人で、自身が努力家だったからか、生徒
にもさかんに勉強を督励したらしい。

 常に平均点はKさんのクラスより10点高かったという。その成績の差が生徒
のその後にどのような差を生んだかは残念ながら聞いていない。しかし「苦労し
て校長なんかから僕らを護ってくれていたんでしょう」というのがKさんの感想
である。平均点の低いクラスに所属したことを幸運と認識していることは明らか
である。

 Kさんは1月19日現在70歳に達したばかりである。この世代の親たちの最
大多数は高等小学校卒で、辛うじて戦禍を生き残った人たちは戦後経済成長の大
動力として貢献した。しかし、やはり、ブルーカラーとして学歴による格差を感
じないわけにいかなかった。

 それゆえ子供だけはなんとしても高校にやりたいと念願した。Kさんの世代は
低学歴の親の切なる期待を背にして進学した世代である。普通科高校に劣らず、
特に工業高校は今では想像できないほど学力の水準が高かった。Kさんは平均点
の10点低いクラスにあって、後に理学博士になった。

 生徒の水準が高かったからリベラルな先生の存在が許容されたのであったのか
もしれない。なにがどうしてどうなったか、その因縁は簡単には言えないが、た
とえば維新の党が打ち出した教育基本条例が、もし仮にそのまま罷り通ることに
なるならば、隣のクラスより10点も平均点の低いクラスの担任はかならずや低
い評価、きびしい処遇をまぬがれないであろう。現状でさえNHKの番組中の
「A子先生の日曜日」という寸劇で「学年主任はわたしのクラスの平均点がちょ
っと低いからってネチネチネチネチ」と、小池栄子扮する先生がこぼす場面があ
った。

 平均点が10点も低ければ、そのクラスの担任は更迭され、後釜には、人間味
乏しく上司に媚び、生徒には締め付けのきびしい教員がとって替わるであろう。
生徒の点数、成績順位をつけることを拒否したシモーヌ・ヴェイユは追放される
であろう。坂の上の雲の時代ならば80人中60位の広瀬武郎をロシア留学に抜
擢するような上官もありえただろうが、そういう味な上司もまた存在しえなくな
るであろう。

 教育基本条例は国の経済に即物的に寄与する人材を供給することになるのだそ
うだが、そのクラスに所属することを幸運と認識し、後にそれを幸運であったと
回想しうる、先生の死後10年を越えても手作りのお菓子を届ける気になる生徒
が、果たしてありうるかどうか。

 橋下ヴァンダリズムによる文化と教育の破壊はそういう温もりのある教師と生
徒の人間関係をも破壊するであろう。今日さかんに高唱される「絆」をも破壊す
るであろう。明治初期の一時期に突発した廃仏毀釈や明治末期の神社合祀に酷似
した惨禍をもたらすのではないかと心配である。本来懐かしいものであるべき日
の丸、君が代を恐喝の責め道具に悪用するなど冒涜でなければ狂気でしかない。
狂気は短期に終息することを切にねがう。

 特に大阪は、たとえば昔大屋政子が海外からオペラなど呼んできて財界人を招
待しても、せっかく用意した最前列が空っぽというような文化状況にあった。今
も変わるまい。さらに貧すりゃ鈍しているかもしれない。遡れば第三高等学校は
1869年に大阪に設立された舎密局に端を発する。1886年第三高等中学校
となったが、1889年には京都に移転となった。大阪は高等教育機関に冷淡で
あった。また京都帝国大学医科大学は、やはり大阪に設立されるはずであったが
大阪はさしたる関心を示さなかった。そういう大阪の文化風土であるがゆえに橋
下ヴァンダリズムの危険は大きい。

 道草してしまったが、とにかく、ひさしぶりに竹内峠を越えた。峠越えの感慨
は変わらないが、クンナカ(国中:奈良盆地)は、もはや昔のウマシ国原ではな
い。とりわけ高田の辺りがひどい。いかにひどいかを司馬遼太郎はすでに197
1年に書いている。

 『街道を行く』第1巻「竹内街道」の章で「今の現実の、この日本でももっと
も汚らしい県の一つになってしまった風景」と言っている。わざわざ「大和高田
のあたりで」「建売り屋という、まるで巾着切りのように素ばしこい稼業の人」
を見かけたと書いている。

 幸か不幸か高田は大阪に近すぎた。大阪に達する鉄道が3本も通っていて、当
然ながら特急・急行停車駅が3つある。急行で大阪まで20数分。電鉄会社とデ
ベロッパーが見逃すはずはない。完全に大阪近郊としてバブル期に人口は急増し
た。さらにクルマ社会が進んで郊外の街道筋は国の「まほろば」だろうが、うま
し国原だろうがおかまいなしに、回転すしやらファミレスやら自動車屋やらメガ
ネ屋やら、なにやかやゴミゴミと建つのは防ぎようがない。

 それはそれとして、私どもは近鉄南大阪線・高田市駅の高架下をくぐって駅か
ら遠からぬ紀陽銀行前に駐車、クルマを離れる間の30分を私は自由行動時間と
して与えられることになった。

 クルマばかりが錯綜する幹線道路を逃れて一息つきたい思いから道路を西に渡
って北を望むと、本町と読めるネオンサインらしいものの架かるアーケードが目
に入った。商店街なら気がまぎれると期待して向った。しかし、どうも様子がち
がうのだ。歩けど歩けど、商店は、無くはないがないにひとしい。あっても看板
がない。ひっそりとガラス戸の中で商売している程の感じ。他はほとんど軒並み
が格子の嵌まった仕舞た屋である。

 決して無人ではなく、よく住み為されているらしく道路も掃き清められてい
る。おそらく店は畳んだが地代金利で暮らしに困らぬ典型的なランティエの町に
なっているらしい。あてにはならぬが、それが私の直感である。なんとなく、こ
れから先の日本のようでもある。    

 荒れた感じはないが、まさに森閑と静まり返っているのは土曜日の昼下がりと
いうこともあってのことかもしれない。老夫婦が1組よろよろと横切ったほかに
1人も人には出会わなかった。1台のクルマも通らなかった。ただただ静かだっ
た。寺内町で有名な、同じ奈良県橿原市の、今井でさえ共産党と公明党のポスタ
ーを見かけたが、高田本町にはそれもなかった。今井といえば高田もまた寺内町
であることを歩いて知った。

 交通量ゼロに近いのに北むき一方通行の道を北に進むと左手に專立寺という寺
の堂々たる大門が建っていた。そして鐘楼でなくて太鼓楼があった。門内は、だ
だっ広い駐車場が占めていて本堂はどこだかよくわからなかった。門前には教育
委員会の大きな立て札があって寺内町たる由来が記されていた。

 寺内町となったのは、慶長5年(1600年)西本願寺12世准如によって、
御坊(専立寺)が創建され、その門前に商人を近郊から集め、大和の中心的な商
業の町として発展させた結果であるらしい。とにもかくにもこの町筋を、ものの
20分足らずを歩いて寺のほかに記憶に残るものが3つある。ひとつは表札に當
麻とある人家を見たこと。當麻氏とは寺内町よりさらに昔の、興福寺の荘官から
武士化し、後に筒井順慶によって滅ぼされることになる高田城々主の名である。
おそらく土地の名家であろう。

 次いで目を惹いたのは宮城医院。大正時代らしいセメントの洋館で、右から左
へ、文字の順に書けば「院醫城宮」の表札。内科を標榜しているが診療時間など
は何も書いていない。

 これは記念碑的に残しているだけで、宮城医院そのものは、その奥まったとこ
ろで現在も営業しているらしい。商店は寂れても老人が残っていさえすれば患者
がいなくなる心配はないだろう。もう一度カメラを持って撮影に行きたいような
絵柄だ。

 今ひとつは森川商店。これも大正期鉄筋コンクリート2層の、銀行のような、
なかなかのビルディングで、何を商うのかは分らないが(後に、建設資材を扱っ
ていると知った)活発に営業中の模様。商店街に立地の必要ない業種だからであ
ろう。

 この、森川商店の角を右に曲がって次の街角をもう1度右に曲がってKさんの
クルマに戻ることにした。本町通りと併行して、いちだんと商店の少ない町は市
町とか市場町とかいう、やはり往年の商業街であったらしい。再び教育委員会の
掲示板に、昔は日紡(ユニチカ)の工場もあって綿業の盛んな土地柄、市町には
木綿問屋が多かったらしい。

 僅か20分足らずの散策。これだけのことで何がわかるわけでもないが師走の
午後というのに時間が止まって人の気配のない、しかし静まり返って堂々と立派
な町というのは、どうにもこうにも整理のつかない夢幻的なもので、歩いていて
異界に身を置くような、ある種の畏怖を感じないではいられなかった。

 土地の歴史はうわべだけでわかるものではない。分るものではないが隣町の新
庄の出身者の言として、間接に聞いたところによると、里謡に「高田の野郎に 
今井のお方」という文句があるそうな。またネットを繰ると「八木の『お人』に
今井の『おかた』 高田の『奴ら』に御所の『ガキ』」というのがあった。

 今井が往昔大変な富を集めていたことは知っているが、近隣相互の口さがない
のは古い土地ならどこでも同じ。お笑い種にすぎまいがお笑い種にはなりうるの
で紹介しておく。もうひとつ、本町の南入口近く北片塩町に巨大な共同浴場があ
るらしくみられた。温泉まがいのリゾート浴場はよく見かけるが、こんな閑散と
した(元)商店街に純然たる共同浴場つまり銭湯がデンと構えているのは今どき
めずらしい。老人の社交場だろうか。

 大和高田市 本町・市町地区まちづくり協議会というのがあって寺内町として
の景観を取り戻そうとしている模様である。そしてそれはそれでしっかりおやり
になればよいと思うが、なんとしても現況は近未来の日本そのものを象徴するも
のに思えることを重ねて言いたい。

 北にも南にもすこし歩けば駅前のアメニティーは十分である。禁煙外来で有名
な市民病院もある。20分で大阪に行ける。とにかく騒音というものがまったく
ない。老人にはこれに勝るところはないのではないか。近隣の土地を売ったスト
ックで暮らして静かに死を迎える。よいではないか。そう思う。
  もういちど、こんどはもう少し時間かけて歩いてみよう。そう思う。
                         (2012/02/14)

            (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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