【コラム】
神社の源流を訪ねて(5)

大和に来た出雲の神々

栗原 猛


◆野見宿禰が土偶をつくり殉死を止める

 奈良の三輪山周辺を「出雲」に関係する神社や地名を訪ねて歩いたら、これがなかなか多い。桜井市から長谷寺へ向かう国道165号線にかかる歩道橋には、「桜井市出雲」と表示があり、三輪山の北には出雲屋敷の地名がある。出雲から来た人々が集落をつくっていたところとされ、出雲姓の表札も見かける。

 日本書紀に「野見宿禰(のみのすくね)」が垂仁天皇の前で、力自慢の當麻村の「當麻蹴速(たいまのけはや)」と、力比べをした記事がある。「奈良県磯城郡誌」には、「出雲の称は古昔、野見宿禰、出雲より来たりてこの地に居住し、土偶をつくりたるに依りて起りたりと、伝ふ。…出雲より来りたる土師の氏人、此の地に子孫、繁殖して終に、一郷をなしたるには非ざるか」とあり、往古から出雲とのかかわりの深さをうかがわせる。

 野見宿禰はまた殉死をやめて、埴土(しょくど・はにつちの意)で、人や馬などを作り陵に埋めることを考案して、天皇に喜ばれたという。そのために出雲から100人の土師を呼び寄せ、「出雲」の名前が広がったようだ。出雲屋敷には「ヲナンジ」と呼ばれる小字名がある。「ヲナンジ」とは大己貴命(おおなむち)のことで、大神神社の祭神だ。

 都祁 (つげ)とは珍しい名前だが、古代朝鮮語で日の出を意味するトキノ(都祈野)に由来するという。日本書紀には「闘鶏」(とき)とあり、この地は渡来人が早くから開拓したといわれる

 初瀬川の水源地帯の奈良市藺生(いう)町の葛(くず)神社と都祁白石町の雄神(おが)神社の祭神は、いずれも出雲健雄(たけお)といわれる。この雄神神社は本殿がなく、拝殿から祭神の「雄雅山(540㍍)を拝む。大神神社とともに古い形式の神社で、拝殿に「金銀銅鉄」と書かれた扁額が架かる。その昔は鉄や銅、金、銀などの採掘や精錬でにぎわっていたのではなかろうか。

 三輪山の東南にある十二柱(じゅうにはしら)神社は、出雲村の村社だが、ここも神殿がなく「ダンノダイラ」(三輪山の東方の山の上にあった古代の出雲集落)にある磐座(いわくら)を拝む。この磐座には鉄分が含まれているといわれ、製鉄などと関係があったと思われる。

 岡本雅享氏の「出雲を原郷とする人たち」は、明治の初めごろまで、村民が年に一度、そろって「ダンノダイラ」へ登って、出雲の先祖を祀り、皆で食事をして相撲をしたりして、先祖をしのんだとの伝承を紹介する。

 氷室神社の主祭神「闘鶏稲置大山主命(つげのいなきおおやまぬしのみこと)」は、氷室の起源とされる。先年、韓国の新羅の古都、慶州の半月城を見た際、一角に氷室があった、出雲は新羅文化の影響を受けているので、氷室はまず出雲に渡り、それから奈良に伝わったのかもしれない。

 奈良には多くの出雲系の神社が進出しているが、奈良以外の地方ではどうか。水野祐氏の「出雲文化の東漸」によると、東国八か国の式内社のうち出雲関係の神社は、三割四分を占めるという。神社はその地を開拓した祖先を祭るものが多い。出雲人は出雲神とともに、長い時間をかけて東北各地にも、鉄や金銀を探し求めて、広がって行ったのではないだろうか。

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