【沖縄・砂川・三里塚通信】

基地闘争の光と影 砂川11年間・百里30年間の法廷闘争

仲井 富

◆ はしがき

 私は砂川闘争を担った相磯まつえ弁護士の訃報に接し、オルタ広場24号(2020.4.20)に以下のように書いた。
 ――砂川闘争を担った弁護士団にも存命の方は少ない。同じころ弁護士一年生だった新井章さんは当時26歳。最後まで宮岡さんを支えた砂川米軍立川基地内民有地明渡事件の中心的存在だった。(福島)京子さんから聞いた電話にかけてみた。お元気だった。長電話してコロナが収まったら会いましょうということになった。――

◆ 新井章弁護士から丁重な便り いまや卒壽に近い89歳の現職弁護士

 新井章弁護士からその後、以下の資料が送付されて来た。「東京中央法律事務所 2019年1月 事務所便り81号」に以下のような記述があった。

 ――私は今年で88歳になるが、今から約60年前、25才で弁護士になったときは、社会的に弱い人たちの味方になれればといった程度の、きわめて暖昧・漠然とした思い(抱負)しか抱いておらず、労働法律事務所に入所(就職)したのも、そのようなささやかな決意からであったことを思い返している。
 だからして、その先どのような職業的経験を積み重ね、将来どのような法律家として〃大成〃していくかのヴィジョンも持たぬまま、漫然と仕事を始めたから、1年も経たぬうちに労働弁護活動の現場からは外されて、「日本社会党法規対策委員会法律相談部」という奇妙な看板の法律相談所に回され、仕事を続ける仕儀となった。
 事柄の性質上、そこでは行き場のない社会的問題(困難)を抱えて困り果てた人達が、日本社会党の看板を頼りに相談事件を持ち込んでくるというというところ(職場)だったわけで、米軍基地拡張で田畑を接収される砂川基地拡張反対同盟の農民達も(砂川事件)、国立療養所で月6000円の日用品費では捕食費も賄えないと訴える生活保護患者(日本患同盟)の人達も(朝日訴訟)、このルートを頼って、私たち若輩弁護士らと結びあわされることとなったのである。私ごときが後年憲法訴訟、人権裁判の弁護士といわれるようにきっかけは、実はこのような偶然のめぐりあわせからであったということができる。――(東京中央法律事務所 事務所便り №81 20119年1月 人間万事塞翁が馬)

◆ 砂川現地闘争の3年間と11年間の法廷闘争

 私は22歳の9月末、岡山から東京に出てきた。当時は港区桜川町に左派社会党の本部があり、青年部の事務局長として、西風勲青年部長の下で勤務することになった。だがそれもつかの間だった。翌10月11日には左右社会党の統一大会が開かれ、三宅坂の社会党本部に勤務する事になった。私は青年部事務局長の肩書きは残ったが、新設された軍事基地委員会の書記として配属された。

 歴史的な砂川闘争へ本部員として派遣され、激突の3年間、生きるか死ぬかの流血の現場闘争を経験した。それがその後の人生に影響した。1970年4月、社会党本部を辞めて、公害問題研究会を作り、月刊誌『環境破壊』を創刊した。砂川闘争の経験をもとに、北海道から沖縄まで、全国の住民運動の人士をたずねる旅を重ねた。いまや砂川闘争以降65年の歳月が経った。

 最近、相磯まつ江弁護士の訃報や、新井章弁護士との電話のやり取りを始めたことがきっかけで、重要なことを忘れていたことに気づいた。砂川現地闘争の3年間を光とすれば、影の裁判闘争11年間をすっぽり忘却していた。砂川闘争の影の歴史である11年間の裁判闘争なしに砂川の完全勝利はなかった。
 新井弁護士との再会と宮岡さんの『砂川闘争の記録』、そして最晩年の1980年に宮岡さんにインタビューした『月刊総評』「わが戦後史と住民運動」の記事を読み返して気づいた。 

◆ 砂川闘争勝利のカギは栗原むらさんの抵抗とその後11年間の法廷闘争

 砂川闘争勝利のカギは、滑走路延長計画のど真ん中にあった栗原むらさんが最後まで土地を売らなかったことだ。条件派が次第に増えて、当初は130戸だった反対派は最終的には23戸となった。中でも栗原むらさんの土地は滑走路延長の計画地として、あらゆる工作がなされたが、断固として断り続けた。これによって米軍基地拡張計画は頓挫した。

 3年間の現地闘争が終わって、われわれは次なる目標、警職法闘争、安保闘争へと転戦し、事実上砂川闘争のつき合いは終わってしまった。
 しかし宮岡さんたちはその後11年間の法廷闘争を、相磯、新井両弁護士を中心として戦い続けた。その最大の裁判闘争が、砂川町長に対する職務執行請求裁判だった。

 砂川町長に対する職務執行請求裁判が、当初長くとも約3カ月という短期間で審理されはしないかと危惧した弁護団の見方を大きく狂わせ、すでに3年間も経過したことは、それだけ土地収用の手続きを阻み、引き延ばしたことであって、これが砂川側争のなかで果たした役割の大きさははかりしれない。
 宮岡さんは、行政訴訟の枠のなかで、こんなにも長いあいだ引き延ばし得たことも、砂川闘争の勝利の一因であったと私は考えている、として以下のように述べている。

◆浅沼裁判長の現地検証を引き出した砂川弁護団の存在

 ――裁判の当初は7、80名の先生方が弁護団に参加され、裁判にも2、30名が出席されて砂川闘争の強大さを示したものであったが、そういう時代はすでに過ぎて、この頃の裁判側争を支えられたのは新井章先生と菅井敏夫、相磯まつ江の両先生であった。
 砂川の現地でも、予定地内の住民への圧力は形を変え、さまざまなルートを通して強まる一方で、条件派が多くなっていた。この裁判で私の主張したいところは、具体的な実質論であった。何とか具体的実質論に持ち込みたかった。
 1961年2月21日の公判で、浅沼裁判長は現地検証を採用し、飛行場施設の検証と砂川町の現場検証が行なわれることになった。
 この現場検証は、基地の供与は適正かつ合理的に行なうという旧行政協定第三条に照らしても不可欠なはずであって、6年間ものあいだ埋もれさせられてきた収用認定無効取消し訴訟を進展させる上で大きな意味を持つものであった。先にもふれたが、この差し戻し審と収用認定無効取消しという重要な闘争を、地道な努力を積み重ね、推し進められたのは新井先生であった。この当時の砂川の裁判闘争への新井先生の御努力は並大抵ではなかった。――(『砂川闘争の記録』宮岡政雄著 三一書房)

◆ 百里原自衛隊基地反対闘争で町長リコール 山西きよ女性町長誕生

 新井弁護士とのやり取りを通じて、百里原の山西きよ元町長を中心とする自衛隊基地反対闘争も新井弁護士が最高裁判決まで関わっていたことを知った。
 百里原自衛隊基地は、砂川闘争開始の翌年1956年5月に全国初の自衛隊基地として決定された。急速に反対運動が盛り上がり、この年の8月に百里基地反対期成同盟が結成された。そして12月に山西きよさんを中心に愛町同士会が発足。翌年の57年4月には誘致派の幡谷仙三郎町長のリコールに成功、余勢を駆って基地反対の山西きよ町長が当選した。日本で始めての基地反対の女性町長の誕生であった。

 私は、この百里原基地反対運動のオルグとして社会党本部から派遣された。総評本部からは全国基地連の信太忠二さんがオルグとして派遣され、彼とともに現地闘争に関わった。しかし開拓農民の家は貧しく、着々と切り崩しが始まっていた。農家にはまだまともな風呂場さえなかった。信戸智利雄反対同盟委員長の家のドラム缶の風呂に入って星を仰いだ思い出がある。
 1956年当時の日誌には「8月20日、西村力弥事務局長、砂川の清水さん、田中さんらと百里原現地視察」と書き残している。

 もともと百里原は海軍の飛行場だったが、戦後は開拓農民が入植してきた。戦争が終わって間もなく、飛行場は解体されて開拓地となり150戸の人が入植したが、まともな農機具も肥料も無い中で、作物は育たず借金が重なる状態だった。そこへ付け込んで、町長や自民党議員が組んで防衛庁に基地誘致を申し入れた。そして1957年9月、ブルドーザーによる工事が強行された。2年後の2月、山西町長も基地誘致派からのリコールによって町長を解職された。

◆ 山西きよ元町長の自衛隊違憲訴訟30年を支えた新井弁護士

 私は砂川現地闘争の3年間と同じく、山西町長のリコール敗北を契機に、現地オルグをやめ、新たな警職法とか安保闘争に専念することになった。だが、この百里原では闘争の灯は消えなかった。その後、本当の闘いは、山西さんが起こした自衛隊違憲訴訟だった。

 当時を振り返ると忸怩足る思いだ。私は、これで山西さんは肥料屋の女房に戻って、つつがなく過ごされるだろうと思っていたからだ。だが山西さんはくじけなかった。2006年に百里原をともに戦った松原日出男さん(水戸市在住)を訪ねて、30年間の自衛隊違憲訴訟の全容を聞くことができた。それを『月刊むすぶ』2007年の「住民運動再訪」に「山西きよの三里塚闘争」として2回にわたって掲載した。

 山西きよさんは、町長選敗北後、以下のような言葉を残している。
 「敗れたからといっても決して引き下がりません。基地建設絶対反対という初心はあくまで貫徹していく覚悟であります」
 3年間の現地闘争の後、11年間の砂川基地反対闘争の最後の勝利の鍵となった法廷闘争。百里原自衛隊基地では、敗れたとはいえ、自ら取得した土地を死守した山西きよさんらの一坪運動により、世界にまれな、軍事基地内の誘導路を「く」の字に曲げて作らざるを得なかった。

 ともに長い法廷闘争の中心になったのは新井章弁護士たちだった。砂川と同じく私は、3年後は別の闘争へと去っていくのだが、その後1989年まで30年間の百里基地自衛隊違憲訴訟や一坪運動などによって、いまなお基地内には山西さん名義の土地が点在し、毎年基地内の民有地で平和祭が開催されている。(資料『百里原物語』松原日出男著 2007年4月刊)

<資料> 新井弁護士が関わった訴訟一覧
・家永教科書裁判
 (第一次訴訟・最判 平成5年3月16日)
 (第二次訴訟・最判 昭和57年4月8日)
 (第三次訴訟・最判 平成8年8月29日)
・朝日訴訟(最大判 昭和42年5月24日)
・牧野訴訟(東京地判 昭和43年7月15日)
・堀木訴訟(最大判 昭和57年7月7日)
・旭川学テ事件(最大判 昭和51年5月21日)
・全逓東京中郵事件(最大判 昭和41年10月26日)
・東京都教組事件(最大判 昭和44年4月2日)
・全農林警職法事件(最大判 昭和48年4月25日)
・砂川事件(最大判 昭和34年12月16日)
・恵庭事件(札幌地判 昭和42年3月29日)
・長沼ナイキ事件(最判 昭和57年9月9日)
・百里基地訴訟(最判 平成元年6月20日)
・学生無年金障害者裁判東京訴訟(最判 平成19年9月28日)

 (世論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

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