【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

地域大国トルコを再び率いるエルドアンという男の素生と野心

荒木 重雄

 5月28日に行われたトルコ大統領選決選投票で、現職エルドアン氏の続投が決まった。それに先立つ同月14日投開票の大統領選では、「実績と安定」を誇るエルドアン氏と「民主主義の回復」を訴える野党6党統一候補クルチダルオール氏の事実上一騎打ちとなったが、ともに過半数に及ばず、決選投票へもつれ込んだのだ。
 エルドアン氏には、経済の混乱や2月に起きた地震への対応を巡って批判が高まり、「これまでで最も厳しい選挙」と言われたが、彼が「スカーフを外せ、と言われる社会を変えた」、また、彼は「いつも貧しい人たちの見方だ」との声に支えられて、再び権力を手にすることになったのだ。
 では、エルドアン氏とは何者で、何をやってきたのか。この機会に振り返っておきたい。

◆4度の非合法化を潜りぬけ

 第1次世界大戦に敗れたオスマン帝国が西欧列強の手で解体される中で、軍人ケマル・アタテュルクの下で建国されたトルコ共和国は、西欧化、世俗主義を国是とし、軍と司法がその守護者を任じてきた。が、しかし、国民の99%がイスラム教徒である社会では、当然、イスラムの復興を望む人々との間に葛藤が生じる。この葛藤こそがトルコ現代史の通奏低音であり、その通奏低音を表にせり上げたのが、エルドアン氏が仕掛けた政治であった。

 エルドアン氏が率いる公正発展党(AKP)のルーツは、イスラム的価値観に基づく経済発展を主張した政治家ネジメッティン・エルバカン(1926~2011)らが1970年に創設した「国民秩序党(MNP)」である。が、翌年には、軍による政党活動への締めつけが強まる中で同党は反世俗主義的との理由で憲法裁判所から活動停止処分を受けて解党。メンバーの大半は翌72年に設立された「国民救済党(MSP)」に移籍した。
 国民救済党は74年から三つの連合政権にも参加したが、80年に軍のクーデターで非合法化され、同党のメンバーと支持者は83年設立の「福祉党(RP)」に移った。
 福祉党は、国民救済党の苦い経験から世俗主義擁護を標榜してイスラム的主張は極力抑え、貧困層への福祉活動に力を注ぎ、その結果、96年にはエルバカン氏を首班とする政権を樹立するに至ったが、98年、またも軍の圧力で非合法化され、党員・支持者の大半は非合法化を見越してあらかじめ設立した「美徳党(FP)」に移籍した。この福祉党で幹部として頭角を現したのが現大統領のエルドアン氏である。
 
 54年、イスタンブール郊外の下町に生まれ、宗教高校を卒業したレジェップ・タイイップ・エルドアンは、大学在学中から国民救済党で政治活動をはじめ、福祉党時代の94年、イスタンブール市長に当選し、実務的手腕が高く評価されていたが、97年、政治集会でイスラムを賛美する詩を朗読したことが煽動罪に問われて、4年の実刑判決を受け、約5か月間服役し、被選挙権も剥奪された。
 福祉党の後継、美徳党が2001年、国民秩序党から数えて4度目の非合法化を受けて二つに分裂したとき、一方の、被選挙権を失ったままのエルドアン氏を党首に創設されたのが、現在の政権党・公正発展党である。

◆穏健・協調が一転し強権化
 
 公正発展党は、02年の総選挙で単独与党に躍進し、翌年には被選挙権を回復したエルドアン氏が首相に就任した。以来、彼は、欧米や近隣諸国との間に築いた良好な関係を基盤に目覚ましい経済成長を達成し、一方、公の場での飲酒禁止やスカーフ着用の解禁などイスラム的政策は、「青少年の保護」や「人権擁護」の主張の枠内に留め、民生の安定に注力した。

 この頃の彼の政治は、「イスラム政治の新モデル」として国内外から好感をもって迎えられていた。しかし、07年の「愛国的な軍人たちの地下組織」による爆殺未遂や13年の大規模な反政府運動を経て、14年、新たに創設した直接選挙による大統領に当選し、名実ともに実権を握った頃から、イスラム重視を公然と語るとともに強権化を深めていった。
 
 そこに16年、軍の一部によるクーデター事件が起こったが、エルドアン氏はすでに軍・司法・警察・主要メディアなどの中枢を自分に近い人物に入れ替え済みで、軍本体は動かず、反乱は半日で鎮圧された。そして、このクーデター事件に関与したとされて、1万数千人が拘束され、数万人の軍人や公務員が職を追われ、100社を超える報道機関が閉鎖された。
 さらに翌17年には、立法、行政、司法の三権に及ぶ強大な権限を一手に収める大統領制が制定された。
 こうした流れを受けての、今回の大統領選であった。

◆注目される外交手腕の行方
 
 エルドアン氏の去就は、国際情勢に多大な影響を及ぼすものとしても注目された。
 以前から、欧米と中東イスラム諸国を繋げる調整型の外交力が評価されていたが、しだいにロシア、中国とも関係を深め、とりわけ昨年2月のロシアのウクライナ侵攻以降、エルドアン氏の存在感は急速に膨らんだ。すなわち、彼は、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領の双方と会談や電話協議を重ね、3月には両国の外相会談や停戦協議をトルコで開催。7月にはウクライナからの食料輸出を国連とともに仲介した。
 一方、トルコに敵対するクルド人組織に活動場所を提供しているという理由で北欧フィンランドとスウェーデンの北大西洋条約機構(NATO)加盟に「待った」をかける(フィンランドは今年4月に加盟)など、尊大な顔も強めている。
 
今後の外交上の立ち位置が、国内の民主主義の消長とともに注目されるトルコである。

(2023.6.20)
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