【コラム】
風と土のカルテ(51)

在宅医療の開拓者が残した「医療界への遺言」

色平 哲郎


 京都・西陣の「住民医療」の開拓者として知られる早川一光先生が、6月上旬、94歳の生涯を閉じた。
 早川先生は「わらじ医者」の愛称で親しまれた。
 大往生といえようが、早川先生が90歳を過ぎ、癌に罹って発した言葉、
「こんなはずじゃなかった」(NHK『ハートネットTV』2016年5月26日放送)
は耳の奥にこびり付いている。

 早川先生は、「西陣の路地は病院の廊下や」を合言葉に日本の訪問診療、在宅医療を切りひらき、畳の上での看取りを推奨してきた。
 その先生自身が患者になって「こんなはずじゃなかった」と悔いた。
 後世の医療に何を求めておられたのか。
 そこが気になって仕方ない。

 早川先生が社会医療法人西陣健康会・堀川病院(198床)の前身、白峯診療所に赴任したのは1950年。
 当時、織物の産地で名高い西陣では、暗くてジメジメした環境での重労働がはびこり、結核の届け出数は京都市全体の約20%を占めていた。
 西陣機業労働者や日雇い労働者が加入できる健康保険はなく、病気に罹ったら諦めるしかなかったという。

 そのような状況で、西陣の住民たちは互助的な「生活を守る会」を結成する。
 そして「自分たちの体は自分たちで守ろう」と診療所の開設を思い立つ。
 約800人の住民の出資で3万8,000円の基金が集まり、白峯診療所は開かれた。

 生活を守る会の事務所の半分、10畳ひと間を診療所に充てる。
 早川先生は、医療の「民主化」を求めて所長に就いた。

●自己嫌悪の言葉に込められた意味

 8年後に工事費1,500万円のうち300万円を住民が出資し、不足分は労働金庫からの借り入れで堀川病院(当時22床)が建設される。
 院長に就任した早川先生は、出資した住民を中心とする「堀川助成会」の各支部から地域理事を迎え、「住民とともに」病院の運営に携わった。
 住民参画の方式は現在に受け継がれている。

 早川先生は、リハビリの必要性を早くから説き、月に何度か患者さんを集めて集団リハビリを行った。
 認知症の人のケアにもエネルギーを注ぐ。
 住民とともに育んだ西陣の「住民医療」は、格段に進歩し、在宅の療養環境は整備された。

 その立役者だった早川先生本人が、前述のドキュメンタリー番組の中で
 「こんなはずじゃなかった」
 「おれは何をしてきたんやろう。『在宅は天国や』と言うてみんなをワァーッと煽ってきたけれど、実際に天国なんか? かえって地獄じゃねぇか」
と語ったのだ。

 「ひとの世話になって生きることは、これほど居心地の悪いものなのか。自分が健康だったとき、患者の気持ちがわかったつもりで、本当はわかっていなかったのではないか」
と、早川先生は自己嫌悪をさらけ出す。
 そして
 「夜が恐い。病気になって初めて感じたことです」
と弱音を吐く。

 早川先生は、患者としての気持ちを口にすることで、医療界への遺言を残したのではないだろうか。
 もっと想像力を働かせろ、患者さんの身になって何が必要か考えろ、と、、、

 高齢患者の在宅医療は、生活支援などの面でまだまだ改善の余地があろう。

 (長野県・佐久総合病院・医師・オルタ編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2018年6月29日号から転載したものですが文責は「オルタ広場」編集部にあります。

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