宗教・民族から見た同時代世界
国際社会への復帰をめざすイラン
イランのロハニ大統領とオバマ米大統領が、電話で直接、会話を交わした!
1979年のイラン革命での断交以来、初めてのトップ対話であった。
僅か15分とはいえ、協調の意思を確認した両首脳の対話が、この秋、ビッグニュースとして世界を駆け巡った背景には、互いに相手を「大悪魔」、「悪の枢軸」と罵り合い、敵視し合ってきた両国の関係、それはまた一方で、自由主義の欧米と厳格なイスラム主義国家との「文明の衝突」とも目されてきた30年余りの歴史がある。
この機に、その経緯を振り返っておきたい。
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◇◇ イラン革命への道程
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19世紀から20世紀初頭にかけて、中東一帯は、英国とロシアの間で繰り広げられた領土・利権の獲得競争に蝕まれてきた。イランにおいては、ロシアとその後のソ連が軍事侵攻を繰り返す一方、英国は、アングロ・イラニアン石油(AIOC)を通じ、純利益の僅か16%をシャー(国王)の取り分とする条件で石油資源を収奪した。
1951年に登場したM・モサッデク首相は、こうした不公正な負の遺産を断ち切ろうと、石油国有化法案を議会に提出する。モサッデク型資源ナショナリズムが周辺諸国に波及することを懼れた米国は、英国とも謀って、イランを石油市場から締め出すと同時に、CIAを通じて、「モサッデクは共産主義者」と宣伝し、さらに軍部をそそのかしてクーデターを実行させ、モサッデクを失脚・逮捕に追い込んだ。
この工作後、イランの実質的支配権を手に入れた米国は、国王パフラヴィ・シャーを傀儡政権に仕立てあげ、CIA仕込みの秘密警察(SAVAK)を手足としたその独裁政権にイスラム勢力の弾圧と欧化政策を強行させる一方、石油収入の殆どは、米国から派遣された軍事・経済顧問たちの「助言」によって米国の兵器と商品の購入に当てられるシステムをつくりあげた。
イランの軍事大国化はまた、米国はじめ西側諸国の中東における権益とイスラエルの存在を守るため、アラブのイスラム勢力に睨みをきかせる「ペルシャ湾の憲兵」の役割を担わせたものでもあった。
しかし、こうした米国の政策とそれに追随する王族・特権富裕層の腐敗、市場経済化がもたらす格差の拡大とイスラム的価値観・生活様式の破壊に対する民衆の反発がしだいに高まって反体制運動や民衆蜂起が相次ぐようになり、とりわけ78年からの大規模な民衆蜂起によって翌年2月、ついにシャー政権は倒されて、長らく追放されていた反体制運動の象徴的指導者ホメイニ師が帰国した。これがイランの「イスラム革命」である。
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◇◇ 敵視政策に包囲されて
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「イスラム革命」の波及を懼れた国際社会は、一斉に反イラン・キャンペーンを繰り広げた。とりわけ、経済的・軍事的利権を失ったうえ、パフラヴィの身柄引き渡し拒否や在米イラン資産接収の報復として大使館を占拠される屈辱を舐めた米国の怒りは激しかった。
80年、国際社会の意を汲むかのようにサッダーム・フセインのイラクがイランに侵攻し「イラン・イラク戦争」が勃発すると、対立していたはずの米ソをはじめ、自国の民衆のイスラム・パワーを恐れる周辺アラブ諸国まで、こぞって、兵器・資金・情報・外交などでイラクを支援し、米国は石油基地に加えイラン艇や旅客機の攻撃などで直接手も下したが、イラン・イラクの消耗戦は8年を経ても雌雄を決せぬまま終結した。
付言すれば、このときの米国によるイラクへの過剰な軍事援助が、その後のクウェイト侵攻などフセインの野望を膨らませたのだ。
米国は、イランを「テロ支援国家」に指定し、米国企業による貿易・投資・金融の禁止から、米国以外の企業による石油・ガス開発への制裁、さらにはイランからの原油輸入そのものへの制裁まで、国際社会を巻き込んだ敵視政策と締め付けをエスカレートさせていった。そうした過程で、米国とイスラエルがもっとも恐れ、槍玉に挙げたのが、「平和利用」を標榜するイランの核開発であった。
米国とイランの確執が「文明の衝突」などでないことは、ここまで記してきたことからも明らかであろう。
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◇◇ イラン国民の国際社会での復権を
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1989年のホメイニ師歿後、後継の最高指導者ハメネイ師やラフサンジャニ大統領、ハタミ大統領などは米国に「平等互恵」の関係修復を呼びかけたが、米国による敵視政策は強まる一方であった。そうした中で2005年に登場したのが、最右翼、革命防衛隊出身のアフマディネジャド大統領であった。激しい反米・反イスラエル発言を重ね、核開発でも国連の制裁決議に一歩も引かぬ対決姿勢が国民の一定の支持を得ていたが、しかし、もともと民主主義と自由への志向が強い国民の間でその独裁的強硬姿勢への批判が広がり、制裁による国民生活の困窮も相俟って、この8月の大統領選では、保守派ながら欧米との対話路線を主張するロハニ師が当選することとなった。
とだけいったら単純化しすぎであろう。これまでの選挙では、最高指導者ハメネイ師の黙認のもと、民衆が支持する改革派候補者は出馬を認められず、これに抗議する民衆には武力弾圧も加えられた。今回の大統領選も同様、改革派は立候補を認められず、保守派6人の候補者のうち比較的リベラルと目されたロハニ師に民衆の票が集まったのである。
その最初の成果が、冒頭に記したオバマ米大統領との電話会談であった。
米国側にもイランの変化を歓迎する事情はある。イラク戦争、アフガニスタン戦争の後遺症から国民に厭戦気分が広まり、加えての財政逼迫である。新たな軍事行動はぜひとも避けたいところである。
さて、その後の米英独仏中ロ6か国との協議で、イラン側の核開発譲歩と欧米側の制裁緩和のトレードはとりあえず順調に進みつつあるように見える。だが、イラン、米国双方の国内で今後も保守派は歩み寄りに抵抗することだろう。とりわけ、両国の関係改善に危機感を募らせて単独でのイラン軍事攻撃をも辞さない構えのイスラエルは、米国内でのロビー活動を活発化させている。さらに、サウジアラビアなどイスラム教スンニ派の親米湾岸産油国も、シーア派のイランと米国の関係改善に苛立ちを隠さない。
先行き予断を許さぬ状況はあるが、ともあれ、イラン国民の国際社会への尊厳ある復帰と平和に生活する権利が回復されることを期待したい。
(筆者は元桜美林大学教授)