【国民は何を選んでいるのか】

国政選挙から読み解く日本人の意識構造(2)
政治改革は選挙制度改革だったのか?~「小沢政局」の功罪

宇治 敏彦


 今回の主題は1990年代から2000年代初めにかけて日本政治の主導権を握った小沢一郎氏(自由党党首)の活動を中心とした「政治改革」の是非である。全盛期には「小沢政局」といわれるほど彼がウンと首を縦に振らなければ何事も前に進まなかったが、新進党、民主党などを経て、現在は山本太郎氏と共同代表を務める小政党のリーダーに甘んじている。田中角栄元首相の秘蔵っ子として「自民党のホープ」であった時代から1955年体制(自社2大政党ないしは自民一強時代)崩壊のきっかけを自らつくった。いまは「安倍政権崩し」のために共産党とも接触し「全野党共闘」を主張するなど、その行動は右から左へと大きくカーブしているようにも見える。彼が全盛期に主導した「政治改革」=「小選挙区制の導入」は、果たして日本の民主政治の大きな前進につながったのであろうか?

 前回の拙文で「文の政治」と「武の政治」ということを書いたが、それを象徴する言葉があるので紹介しておきたい。米国の第16代大統領エイブラハム・リンカーンが演説の中で述べた言葉である。

 The ballot is stronger than the bullet.
 (投票用紙は銃弾より強い)

 1861年から4年余にわたった南北戦争で、奴隷制度の廃止などを主張していたリンカーン大統領に南軍は激しく反発したが、最終的にはリンカーンら北軍の勝利に終わった。「もう『武の政治』にはサヨナラして『文の政治』で行こうじゃないか」というのが、リンカーンの呼びかけであった。アメリカでは西部劇の時代に、地域の保安官選びをする際、bullet(銃弾)を使って投票し、最多の銃弾を得た人物が保安官に就任したという例もあったらしい。語呂合わせで、bulletをballot(投票用紙)に引っ掛けてあるのだが、この短い言葉には、政治の近代化を象徴する深い意味が含まれている。

 すなわち昔は、アメリカに限らず、どこの国でも武器による戦いで政(まつりごと)の行方が決まった。日本でも徳川幕府以前は、やれ織田信長だ、やれ武田信玄だ、やれ上杉謙信だと、それぞれが「武の政治」を競い合い、勝った側が政治の主導権を握った。関ヶ原の戦いは、その代表例といえよう。「武の政治」の最大の欠陥は、幾多の戦いで多くの死傷者を出し、貴重な建造物も破壊し、無数の人々が生活の危機に直面することだ。

 それが一枚の投票用紙に政党名とか候補者名を書くことによって国民の明日からの暮らしの方向づけが出来るという「文の政治」は、政治の近代化そのものであり、人類の大きな進歩といえるだろう。

 皮肉にもリンカーンは、この名言を吐いた後の1865年4月14日、劇場で観劇中に奴隷制廃止に反対の南部人俳優J・ブースに銃撃され、翌日なくなった。

 一方、日本でballotによる「文の政治」が開花したのは大日本帝国憲法下で「平民宰相」と呼ばれた原敬首相の時代であった。原は、わが国では初の本格的な政党内閣を組織し、政党政治の発展に多大な功績を遺したが、残念なことにリンカーン大統領と同様に1921年(大正10年)11月4日、東京駅で国鉄職員・中岡艮一に刺殺された。

 戦前における政党政治は、軍部の権力増大に伴い1940年(昭和15年)、近衛文麿内閣当時の政党解散=大政翼賛会の発足で事実上、消滅した。それから日米開戦を挟んで敗戦までの5年間が日本国民にとっては、いかに暗黒の時代だったかは詳述するまでもない。

 ポツダム宣言の受諾、昭和天皇の「戦争終結詔書」のラジオ放送、マッカーサー元帥を筆頭とするGHQ(連合国軍総司令部)による占領政治のスタートなど日本政府にとっては明治維新に次ぐ大変革が起きた。約7,810万人(1947年発表の国勢調査結果)の国民は、飢えには苦しんだが、一方では「国民主権」「民主主義」「基本的人権の尊重」「戦争の放棄」などを盛り込んだ新憲法の発布を歓迎し、過去にはみられなかった「自由の時代」を謳歌した。

 GHQ占領下における日本政府は東久邇宮稔彦内閣―幣原喜重郎内閣―吉田茂内閣―片山哲内閣―芦田均内閣―再登板の吉田内閣と目まぐるしく変わった。1947年4月の第23回衆院選挙で社会党が143議席と比較第1党になったことを受け、片山哲内閣が社会・民主・国民協同3党連立政権として発足した。西尾末広社会党書記長は東京駅で記者団から総選挙結果の速報を聞いて「えらいこっちゃ」と漏らしたと自伝にも記しているが、国民の多くは「沈黙だけが金」という戦時期の暗黒政治(武の政治)の裏返しとして社会党を第一党に選んだのであろう。当時、読売新聞の記者だった宮崎吉政氏(政治評論家。故人)は「首相官邸に入ってくる片山首相を記者団もカメラマンも盛大な拍手で迎えた」と書き残している。占領統治を指揮していたマッカーサーも「片山氏が新首相に選ばれたことは日本の政治が中道を選んだことを意味する。またキリスト教指導者(注:片山氏は長老教会派の会員)によって日本が指導されることは日本人の心の宗教的寛容と自由を反映している」という特別声明を出した。

 しかし、社会党内の対立で政府予算案が否決され、日本初の革新政権は、わずか9か月で瓦解した。以後、1955年体制が東西冷戦構造と重なるようにして1993年7月の第40回衆院選挙まで38年間続いた。それにピリオドを打ったのが小沢一郎・元自民党幹事長主導の「政治改革」だった。

 小沢氏といえば父・小沢佐重喜衆院議員(岩手2区)の急死を受けて自民党から衆院選に出馬し、27歳にして初当選。故田中角栄元首相は長男(正法)を5歳の時に亡くしているが、小沢氏がその長男と同年生まれ(1942年)ということもあって、小沢氏を溺愛し、プライベート面でも自分が親しくしていた福田正・福田組会長(新潟県の建設会社を経営し、田中支持者)の長女を小沢氏に嫁がせる仲立ちをした。1989年(平成元年)8月、金丸信・元副総裁の推薦で47歳にして自民党幹事長に就任した小沢氏は、海部俊樹内閣を影で操ったほか、ポスト海部選びでも宮澤喜一、渡辺美智雄、三塚博の各総裁候補を「小沢事務所に呼びつけて面接した」と話題になったこともある。

 当時の小沢氏の権勢ぶりは、筆者が自民党の加藤紘一氏(故人)や山口敏夫氏(後に新自由クラブ)らと個別に会食をしている時、彼らに電話が入ると「小沢さんからの呼び出しだから」と、即座に中座したことでも明らかだった。

 1992年、東京佐川急便事件で金丸副総裁が失脚したのを機に、小沢氏は「政治改革」を掲げて羽田孜氏らと「改革フォーラム21」を自民党内で立ち上げた。翌年には田中角栄氏の「日本列島改造論」に倣って「日本改造計画」(講談社)を出版し、「自立した個人を基盤にして日本は『普通の国』に脱皮すべきだ」と訴えた。具体的には「首相官邸機能の強化」「小選挙区制の導入」「地方分権基本法の制定」「国連中心主義の実践」などを提起している。

 いま同著を読み返して興味深いのは、安倍晋三首相が今年5月3日の読売新聞紙上で明らかにした憲法9条(戦争放棄)の第3項追加論を既に提起していることだ。

 「現行憲法には国際環境への対応に関する明確な規定がない。だから、憲法の解釈をめぐっていつまでも不毛な論争が繰り返される。この論議に決着をつけるために、私は二つの案を持っている。一つは第9条に新たに『第三項』を付け加える案である」。(中略)たとえば次のような条文を付け加える。『第三項 ただし、前二項の規定は、平和創出のために活動する自衛隊を保有すること、また、要請をうけて国連の指揮下で活動するための国際連合待機軍を保有すること、さらに国連の指揮下においてこの待機軍が活動することを妨げない』。もう一つの案として、憲法はそのままにして、平和安全保障基本法といった法律をつくることも考えられる」

 憲法問題が今回の主題ではないので、引用だけにとどめるが、平和安全保障基本法の考え方は宮澤喜一内閣当時に形を変えてPKO(国連平和維持活動)協力法として実現した。

 小沢氏が同著で強調した「なぜ小選挙区制がいいか」では「戦後政治の最大の問題はその『ぬるま湯構造』にある」として、衆院の中選挙区制は「ぬるま湯構造の維持装置」で「野党に現状改革の意欲を失わせてしまうほど居心地がよい」から、まず中選挙区制を打破すべきとした。そして選挙制度、政治資金制度、政治腐敗防止制度の「三位一体」改革を断行すべきだと主張した。

 その主張をもとに小沢、羽田氏らによる「改革フォーラム21」が結成された。そして1993年の通常国会で「政治改革」を錦の御旗に、宮澤内閣を揺さぶり、会期末の6月18日、野党が提出した宮澤内閣不信任決議案に改革フォーラム21の35人を含め自民党の39人が賛成(ほかに16人が欠席)で、決議案は賛成多数(賛成255票、反対220票)で可決された。昭和30年から38年間続いた「1955年体制」が崩壊した瞬間である。

 小沢氏らは自民党を離党し同23日、「新生党」を立ち上げた(羽田代表、小沢代表幹事)。
 当時、筆者は既に取材現場を卒業して編集局デスクのポストにあったが、彼らが当時「守旧派」「改革派」という表現を流行らせたことを今もよく覚えている。政治改革に積極的でない政治家およびそのグループを「守旧派」と決めつけ、選挙制度改革などに積極的な自分たちこそが「改革派」だというわけだ。ちなみに小沢グループは、宮澤首相や梶山自民党幹事長らを「守旧派」の代表とみなしていた。

 内閣不信任案可決を受けて宮澤首相は国会解散に踏み切り、7月18日に行われた40回衆院選では次のような結果になった。

 自民党    223議席(選挙後に追加公認を含め228議席)
 社会党    70議席
 新生党    55議席
 公明党    51議席
 日本新党   35議席
 民社党    15議席
 共産党    15議席
 新党さきがけ 13議席
 社民連     4議席
 無所属    30議席

 自民党は比較第一党だが、理屈の上では公明党や日本新党と連立を組めば政権継続も可能だった。だが宮澤首相や梶山静六自民党幹事長には、その意思はなく、同首相は選挙から4日後には辞任を表明してしまった。新党さきがけの武村正義代表は日本新党の細川護煕代表と組んで小選挙区比例代表並立制の導入を柱とする「政治改革政権」の誕生へと走り出していた。武村氏の頭にあったのは政治の師と仰ぐ後藤田正晴氏を総理総裁に据えることであった。だが細川氏は「非自民党連立政権」構想を模索し、それに目を付けた小沢氏が極秘裏に連合の山岸章会長と接触して、細川氏を首相候補に据える「非自民・非共産」の7党連立という構想を固めていった。この辺の素早い裏工作は、小沢氏の特技でもあった。

 1993年7月29日に開かれた社会、新生、公明、日本新、民社、新党さきがけ、社民および民主改革連合(参院)の7党1会派のトップ会談では首相候補に細川氏を内定すると同時に「小選挙区制の導入」など12項目にわたる政策合意を発表した。政党助成金の公布も含む政治改革関連4法案は同年11月、衆院で修正可決されたが、翌年1月の参院本会議では小選挙区制に反対する社会党議員17人の反対で否決されてしまった。困った細川首相や小沢氏らは野党・自民党の協力を得る以外に道はないと自民党の主張する小選挙区300議席、比例代表200議席案(当初案では小選挙区、比例とも各250議席)を呑み、小選挙区制を実現させた。

 後年、河野氏は「小選挙区制の導入は大失敗だった」と自己批判した。その理由として同氏は「死に票が多くなる」「総裁主導の候補選びになるので公認候補が金太郎飴みたいになる」などを指摘している。また小選挙区制の下で5年5か月の長期政権を維持した小泉純一郎元首相も、河野氏とは別の意味で「小選挙区比例代表制は憲法違反だ」と制度発足当初は声を荒げていたことを思い出す。つまり日本国憲法第43条では「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と規定されている。にも拘わらず新制度では「小選挙区で落選しても、比例代表選への重複立候補で『惜敗率』(トップ当選票に対する次点票の比率)を利用して当選できる」というのは「直接投票で落選者した候補が当選者になるということだから明らかに憲法違反」との理屈からだ。

 旧選挙制度下では代議士(衆院議員)は、軒なみ同等だった。しかし現行の小選挙区制では代議士は(1)300の小選挙区でトップ当選した者(2)11ブロックの比例で当選する者(3)小選挙区、比例に重複立候補して小選挙区で落選しても、惜敗率の大きさで比例から当選する者――の3通りとなった。

 筆者は当時、東京新聞、中日新聞の朝刊に連載していたコラム「まつりごと異見」に「代議士3通り模様」という一文を書いた(1994年11月2日)。

 「ランク付けするわけではないが、この3種類の代議士を便宜上『第1種』『第2種』『第3種』と呼ぶことにする。このうち地元選挙民が陳情などに当たって、最も重視するのは小選挙区でトップ当選する第1種議員である。なぜなら、その選挙区の中で最も影響力を持つ議員とみなされるからだ」

 この3種類の代議士は「金・銀・銅」とも呼ばれるようになった。その後、「重複立候補制度」や「惜敗率」は、有権者だけでなく政党レベルでも評判が悪く、改善をすべきだとの声が強まっている。

 もともと小選挙区制度の導入は、第8次選挙制度審議会(小林與三次会長)が1990年4月26日、海部首相に「小選挙区300、比例代表200の2票制」を答申したことから本格化した。「同士討ちが激しい中選挙区制は金権腐敗政治を加速する」「小選挙区制度にすれば英国型の2大政党による政権交代が可能になる」などが小選挙区制導入論の根拠だった。

 だがマスコミでも、選挙制度審議会の会長を出している読売新聞は小選挙区制推進派だったが、朝日では同審議会委員の川島正英氏(内政問題担当の編集委員)が推進派に対し政治コラムを書いていた石川真澄編集委員は反対派と分かれていた。

 東京新聞の佐藤毅編集局長(当時)は紙面で「小選挙区は平成の愚挙」と批判した。また政治学者の間でも、同じ慶応大で堀江堪教授(日本選挙学会長)は小選挙区推進派、弟子の小林良彰教授は中選挙区制維持派と割れていた。

 小沢一郎氏は、小選挙区制についてどう考えていたか。「中選挙区制は、政治のぬるま湯構造をつくり、野党も駄目にした」から「支持率の変化が敏感に議席に反映されて2大政党制が確立しやすい小選挙区制に切り替えるべきだ」というのが基本認識だった。そこへ佐々木毅(元東大総長)、曽根泰教(慶大教授)両氏ら日本生産性本部の役員にも名を連ねている学者たちが「小選挙区制度の導入と同時に、選挙公約に代わるマニフェスト(具体的政策とその達成手順、時期などを有権者に明示する文書)を各党が提示すべきだ」と主張して、「マニフェスト選挙」が一大ブームになっていった。

 以上のように(1)自らの自民党離党で38年間続いた1955年体制にピリオドを打つきっかけをつくった(2)中選挙区制度を小選挙区制に切り替える原動力になるなど「現状打破」に積極的に動いた――という点では「小沢政局」は、評価されてもよい。

 しかし、その一方でシーソーゲームのように相対する政治勢力が拮抗し、A党が駄目ならB党、B党が腐敗したら再びA党といった2大政党政治が日本に確立できたか、というと、そうではない。確かに小選挙区比例代表制度が導入されてから5回目の総選挙だった2009年8月の第45回衆院選では、民主党(現民進党)が308議席を獲得(自民119議席)して政権交代が実現した。マニフェスト選挙も定着するかに見えた。だが鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦の3内閣は約3年4か月にして自壊し、2012年12月の第46回衆院選で自民党に政権奪還を許した。爾後、安倍晋三氏が総理総裁に復帰し、5年近くの安倍一強政治が続いている。マニフェスト選挙も影をひそめた。

 沖縄基地問題で言動がぶれた鳩山内閣、2011年3月の東日本大震災における菅内閣の対応不足、事業仕分けや八ッ場ダム問題での迷走ぶり、小沢一郎氏に対する西松建設の献金疑惑、野田内閣での尖閣諸島の国有化決定など諸々の問題が重なって、民主党(現民進党)の議席がピークの308から73へと大幅ダウンした。目下のところ民進党が再浮上するめどは全く立っていない。小沢氏らが描いた「2大政党が並立する形の政権交代」は夢のまた夢になってしまった。

 筆者は次のように思う。
1、もともと「ベストの選挙制度とベストの政治運営」というのは、この世に存在しないのではないか。小沢氏自身も前掲の著書「日本改造計画」の中で小選挙区の弊害として「少数党に不利」「国民を必要以上に分断する」「必ずしも2大政党制になるとは限らない」と書いている。それでも小選挙区制導入に拘ったのは「政治にダイナミズムを取り戻したい」からだという。事実、小選挙区制になって自民党政権の崩壊、野党第1党の躍進と政権交代で日本列島が沸き立った時期があった。だが現在は「安倍一強政治」が長期化している。中選挙区時代でも、前記した終戦直後の片山内閣誕生時のように国民が沸き立った時もあったし、宇野宗佑内閣や森喜朗内閣のように「早く辞めろ」の声が渦巻いた時もあった。選挙制度と有権者の声は正比例していない。どんな制度であれ、自分たちにためになる政治をやってくれる政権なら支持するし、そうでなければ次の選挙で変えるしかない。それが政(まつりごと)の基本構図である。

2、では「安倍内閣の支持率は、なぜ高いのですか」と、よく聞かれる。田中角栄氏の場合は実行力もあり、立身出世型の政治家で国民的人気も高かった半面、金権腐敗体質が改まらず、政権は2年5か月しかもたなかった。沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作氏は7年8か月の戦後最長政権だったが、国民的人気はなく、「私も栄ちゃんと呼ばれたい」とぼやいた。人気が高ければよしというものでもないし、任期が長ければよしというものでもあるまい。

 安倍内閣支持率が50%前後と比較的安定しているのは、一に、小選挙区制度のお蔭で権力(候補者選定から閣僚や高級官僚の人事権に至るまで)、資金力(小選挙区導入と同時に始まった政党交付金)が首相官邸に集中し、与党内に有力な反対勢力、対抗勢力がないからだ。あの「三角大福中」が競い合った1970年代と状況は全く違う。二に、民進党などに「野党力」がないことだ。安倍首相や主要閣僚の国会答弁を見ていても、最後は数の力で乗り切れるとの余裕が見てとれる。三に、有権者(国民)の保守化が進んでいること。「生活保守主義」と言って良い。非正規労働者の拡大で生活水準レベルがダウンし、未婚者や「子どもの貧困現象」が増加して、人口減の加速にもつながっている。朝日新聞の世論調査分析では安倍内閣支持率に関しては「20歳代の支持が最も高く、30歳代以降も若いほど高く、60代にかけて下がる」傾向(5月29日朝刊)だという。

 妙な表現かもしれないが、「若者の安倍化」「中年の安倍化」、さらに言えば「国民の安倍化」が進んでいるのだ。かつては総評を中心に働く者の不満は労働運動=反政府活動へと向かった。だが非正規の増加で労働運動も弱体化し、生活者の大半は「これ以上、暮らしが悪くならないよう現政権で我慢するしかないか」と思っているのではないか。私があえて「国民の安倍化」といったのは、そのような意味である。

 内閣支持率とは別に「いまの政治に満足していますか」という世論調査(明るい選挙推進協会)結果みると、2014年時点では「満足」は17.7%、「不満」は74.6%で、2012年時点の調査より不満が4.4%増えている。内閣支持率より、この調査の方が国民の声をストレートに反映しているのではないか。

3、政治家も小選挙区制にガードされて「党の公認さえ取り付ければ」と思い、本当の競争原理が働かないし、「天下国家のために国民の反対を押し切っても」といった気概がなくなっている。具体的には「1,062兆円(国民1人当たり837万円)に及ぶ国の借金をどうやって解消するか」「選挙区割りの姑息な変更で格差2倍以内を辛うじて保つのではなく、抜本是正になぜ乗り出さないのか」などなど安倍内閣が持越しにしている課題は多い。財政の責任者である麻生太郎副総理・財務相も「日本人は沢山の貯蓄を持っているからギリシャとは違う」と財政債務に能天気な姿勢を見せる。

 筆者は「武の政治」より「文の政治」を訴えているが、もう一つ別の表現をすれば「医術の政治」以上に「メンタルヘルスの政治」が大事な時代を迎えていると思う。安倍政治はトランプ米大統領を軸にした日米同盟の強化、戦争中の社会弾圧を想起させる「共謀罪」、学校法人「加計(かけ)学園」問題での対応などで、国民の心にストンと落ちない態度をとってきた。一見、手術は成功したが、心の病は直せなかった医者の姿を想起させる。国民の気持ちに寄り添った政治をすることこそ、今後の難局を乗り切る政治家には必須の条件と思うが、いかがであろうか?
 (元東京新聞論説主幹・現東京・中日新聞相談役)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧