【コラム】
酔生夢死

国境越える自由な想像力を

岡田 充


 海岸に寝そべって海を眺めていた。自由になった解放感はあったが、いつまでもここに居続ける訳にはいかない。唯一の情報源は、世話になっている漁民の家のラジオだけだった。1949年11月、台湾に近い与那国島でのことだ。話の主は当時28歳の台湾・高雄市議Cである。
 日本から台湾統治を引き継いだ国民党政権が47年、台湾人の抵抗を武力弾圧した「2・28事件」から70年。台湾全土に広がった抗議運動への鎮圧とその後の摘発で殺された台湾人エリートらは推定1万8千~2万8千人といわれる。元々台湾に住む「本省人」と、国共内戦に敗れ大陸から逃れてきた「外省人」との対立の出発点でもある。

 台湾から与那国島に密航してきたCも、日本本土で旧制中学に学んだエリート。社会主義者の彼も反国民党の抗議運動に参加して、追われる身になった。なぜ与那国だったのか。台湾の花蓮から与那国まで約110キロ。気象条件がいいと最西端にある西崎(いりざき)から、台湾本島が見える。密航漁船で渡ったCは「与那国まで約5時間かかった」。

 台湾の日本植民地時代、与那国島民は進学や就職のため台湾に渡った。沖縄本島より近い台湾は共通の経済・生活圏だった。日本の敗戦によって台湾と与那国の間に国境線が引かれる。だが与那国には米軍基地はなく、新支配者の米国も密航や密漁にはおおらかだった。迫害を逃れるには、与那国が便利だったのである。

 3万年以上も遡れば。人類は台湾から海を渡って与那国など八重山、宮古に漂着した。日本人の祖先である。国立博物館は2019年、台湾から与那国に向けて手漕ぎの竹いかだで3万年前の再現実験をする。

 与那国に1か月半滞在したCは、ようやく密航船に乗って日本へ。その後東京に滞在した後、新中国へ渡った。社会主義の中国に抱いた幻想は、文化大革命で打ち砕かれる。「国民党のスパイ」の汚名を着せられ迫害されたのだ。日中国交正常化後に解放され香港の大陸系デパートに就職。故郷の高雄に戻ったのは42年後の1991年、新聞は「死者が生き返った」と報じた。

 日本は海に囲まれた島国である。だから国境を島と海によって区切られた「自然国境」と考えがちだが、国家と同様、人為的産物にすぎない。与那国も1879年に沖縄県として日本に編入(琉球処分)されるまで、琉球国の一部だった。国境も主権も永遠ではなく変化することを知るのは重要だ。
 文部科学省は17年度の学習指導要領の改定版で、北方4島、竹島(韓国名 独島)、尖閣諸島(中国名 釣魚島)を「我が国固有の領土」とし、尖閣については「領土問題は存在しない」と明記し、児童・生徒に教える方針だという。「固有」とは何か。辞書には「もとより」「自然に」とあるが、国際法には規定はない。国境や主権が存在しなかった時代を含む時間軸から物事を考える想像力を持つこと。そうすると風通しの良い風景が見えてくる。教育は時の権力の道具ではない。

画像の説明

  与那国最西端の西崎(いりざき)灯台にあるタイル画。
  遠くの山並みが台湾本島(2011年 筆者撮影)

 (共同通信客員論説委員・オルタ編集委員)


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