【コラム】神社の源流を訪ねて(65)
固有の文化として蘇る
韓国に神社の源を訪ねる6
栗原 猛
外国観光客に人気
論語に「怪力乱神を語らず」という一句がある。孔子の生きた時代にはすでにシャーマニズムはあったとされる。ここで怪力乱神とは怪異・勇力・悖乱(はいらん、道理を外れること)・鬼神などの総称とされ、この四つについて儒者は関係するべきではないという立場だったといわれる。
巫堂では、病気を治したり、悪霊を払い先祖供養をしたり、また豊漁や豊作を祈る儀式などもほとんど巫女が主宰した。鉦、銅鑼などの音楽に合わせて巫女が激しく歌い踊って、霊のお告げを依頼者に伝えたりする。青森県・恐山のイタコや、沖縄のユタなどに比べられる。世界各地に存在する霊的なものと交渉する儀式(シャーマニズム)は、仏教や道教などの影響も受けているが、占いや医療は宮中の儀式の中でも重要な位置を占めていた。
シャーマニズムは、シベリアのツング-ス種族に発生したといわれる。この種族を語族で見ると、トルコ語、モンゴル語、満州語、韓国語、日本語などはウラルアルタイ語族に入り、シャーマニズムを共有するとされる。古代中国大陸も含めて東アジア、北アジア全域に分布しているが、ただ中国では漢時代に儒教が国の教義になると、シャーマニズムは敵視され抑圧されるようになる。
論語の言う怪力乱神とは、怪力を持ち人間や動物に害をもたらし、仏教の影響を受けた夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)地獄の獄卒の牛頭(ごず)、馬頭(めず)などは、邪教とみられた。
シャーマンは神霊や精霊などをその体に憑依(ひょうい)させ、神託を伝える巫女の起源とされる。古事記や日本書紀には邪馬台国の女王、卑弥呼について「鬼道に事え、能く衆を惑わす」とあるので、神託を受ける巫女だったように思われる。シャーマニズムによる指導者であった。
弥生時代には女性が中心になって、占いをしたり、祭祀を主宰しているので、当然神の一番近くにいる巫女の地位は高かったであろう。日本書紀を読んでいると神功皇后もシャーマニズム的なものが感じられる。シャーマンは、縄文時代に存在したといわれるが、記録の上で確認できるのは弥生時代からのようだ。
大和朝廷の時代になると、国の制度が整い、政治の実権は次第に男王に移り、巫女は政治の中心から遠ざけられる。また神社の祭祀を助けるという役割もなくなり、例えばイタコや沖縄のノロのような立場になっていったといわれる。時代が下り、祭祀に雅楽や神楽舞が奉納されるようになると、神楽舞では巫女が切り離せない存在になってくる。
一方朝鮮半島では李朝の500年の儒教体制も、堂信仰は邪教と見られ排除されている。弾圧はその後も続き、1970年代には朴正煕大統領が農村の近代化を目指したセマウル運動(新しい村)でも、堂信仰は、農村の近代化を妨げるということで、排斥される。
このセマウル運動で堂信仰はさらに減ったとされるが、一方で根強く生き残ることにもなった。経験を積んだ巫女が農村の婦人の苦労や悩みを聞いて、アドバイスをしたりすることで一体感が生まれ、人々に希望を与える役割も果たした。巫俗信仰は農村の婦人に根を下ろしたことが長く命脈を保った秘密がありそうだ。農村社会での人々の生活が貧しかったことも背景にあると思われる。
近年では、朝鮮半島の固有の伝統文化として巫俗信仰の行事がいくつか国の無形文化財に登録された意味も大きい。地域の祭事独特の踊りや音楽なども、イベントとして、外国からの観光客にも見られるようになり、伝統文化として若者の間にも見直しの動きが出るなど、新しい視線が当てられている。以上
(2024.4.20)
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