■回想のライブラリー (14) 初岡 昌一郎、
────────────────────────────────────
(1)
ここ4年ばかり続けてバリ島に行っている。インドネシアは好きな国の一つだ
が、バリは特別なところだ。魅力は、第一にヒト、第二に文化、第三に気候。
バリに行くというと、「危なくない」という質問が返ってくるようになった。た
しかに、このところ2回の爆破事件があったが、これは空港近くの繁華街におい
て、いずれも外国人オーナーの店で発生している。スリ、かっぱらい、置き引き
などの犯罪も増えているようだ。これらは観光客の出入りするところでは、今日
どこでも珍しくないが、この面ではバリは比較的安全なところだ。
アチェの津波や中部ジャワでの地震など、インドネシアは最近大きな自然災害
に見舞われている。しかし、これらはバリ島には直接的な影響を及ぼしていない。
しかし、その度にバリへの観光客も目にみえて減少した。
日本人観光客、特に団体客は空港から近いサヌールビーチや、クタ地区に集中
する。その界隈に近代的な大ホテルが蜜集しているからだ。これらのところは、
もはや伝統的なバリらしさが失われており、というよりもともと存在していない
ので、ハワイや他の海浜リゾート地とあまり変わらない。
本当のバリは、島の東南に位置する空港周辺のリゾートやその背後にある州都
デンパサールからは離れた田舎に残っている。
8月末に、姫路獨協大学で同僚だったN教授、韓国の元外交官で大学教授を経
てフリーのジャーナリストになっているY氏と私の夫妻3組で、バリ島であまり
長期ではない休暇を過ごした。私達以外の皆さんには初めてのバリなので、ガイ
ド役も買って出た。ほとんどの時間を過ごしたのは、空港から約1時間ばかり山
の方に向かって車で行くウブド。
ウブドは人口5000人ばかりの小さな村で、空港近辺のリゾート地や、島内人
口の約半分が集中する州都デンパサールの雑踏から抜け出して来ると、ホッとす
るような別天地だ。海抜300メートル程度の高原地帯にあり、表通りを抜けると、
峡谷から立ち上った棚田の連なる向こうに、2000メートル級の火山群が遠望でき
る。
ウブドを有名にしたのは昔からの芸術の伝統で、絵画と彫刻、建築、そしてガ
ムラン音楽と舞踊。20世紀の初め頃からヨーロッパ人の画家達が住み着いて、次
第に外部の世界に知られるようになった。だが、それ以前からここにはバリ人の
職人や宮廷芸術家達が集団的に住み着いていた。この伝統の上に新しい花が咲い
ている。
バリの中心部にある国立美術館は伝統美術、郊外のジャラン・ラヤ通りにある
ネカ美術館はインドネシア人とヨーロッパ人がバリで描いた近代絵画。後者は地
元の先覚者が蒐集したもので、その人の名が冠されている。その二つの美術館の
中間に位置するチャンプアン峡谷の上にあるブランコ(スペイン人で、バリに住
み着いた画家)美術館の収蔵品などを観ると、ウブドの美術を一通り俯瞰するこ
とができる。
バリダンスもウブドが一番だと地元の人たちは自慢する。民謡による踊りを別
にすると、ほとんどすべての舞踊がヒンズー教起源の説話から派生したものであ
る。タイのダンスにも若干共通しているように、手と首の優雅な所作に特長があ
る。一部のセミプロ的な踊り手を除けば、すべて地元のアマチュアである。楽器
の演奏者もしかり。農民や商工業者が、夜はダンサーや奏者になる。なかでも、
群舞のケチャックは各地区のお寺の氏子達がほとんど総出で踊るものである。今
回みたチャンプアン地区のケチャックは圧巻だった。われわれのホスト、トコト
コさんの長男ワヤン君も踊手の一人。
絵画や彫刻も以前は他に本業を持つ人々の業だったようだが、最近は観光客に
よる需要が多くなり、次第にプロ化が進行している。ウブドの中心街から少し離
れた郊外地区に、しゃれたギャラリー、シックなブティーク、高級なレストラン
が増えているが、それらの多くは外国人所有になるものだ。
アジアでも最もレベルの高い小型リゾートホテルのいくつかがウブドにある。
それらは集落から少し離れて峡谷沿いの自然の中にひっそりと隠れるように作ら
れており、ほとんどが離れ家形式のヴィラである。それらは一部の例外を除き外
国資本によるものだが、その他に小規模な別荘的なホテル、バンガローといわれ
る民宿が多数ある。しかし、高層、大規模な近代的ホテルは一つもなく、したが
って団体客の滞在は不可能。団体観光客は、空港付近の大ホテルからバスによる
日帰りエクスカーションでウブドに観光と買い物に来ている。
ウブドにはヨーロッパ人が多く、ほとんどが長期の滞在者だ。なかには住み着
いている人も少なくない。日本人も徐々に増えており、日本料理屋も2軒できて
いる。また、十数名の日本人女性が地元の人と結婚して暮らしているそうだ。し
かし、収入の点がネックとなり、日本に夫とともに里帰りしたり、離婚するケー
スも稀ではないようだ。
(2)
バリにはかなり昔から行く機会はあったが、ウブドを私が“発見”したのは比
較的最近のことだ。5年ばかり前に、家内をはじめてバリに連れて行き、海と山
の小さな町に滞在した。そのときに選んだ場所の一つ、ウブドがすっかり気に入
り、次の年にウブドでは地元の人が所有する唯一の高級ホテル、ピタマハに滞在
した。これは20部屋ばかりの離れ家が峡谷の斜面に点在する素敵なリゾートな
のだが、何しろ長期に滞在するには値段が高すぎた。
そのときに、このホテルから2、3分のところにある、小さなレストランにふ
らりと入って、知り合いになったのが、今回の宿泊したバンガローの主、トコト
コさんである。トコさんの新しい名刺には、ギャラリー、レストラン、バンガロ
ーと印刷されているが、彼は人の良い地元の顔役である。
彼の店と住居はウブド中心街から徒歩で約20分、チャンプアン峡谷を渡った
高台にある。3000平方メートルの敷地に個人のものとしては大きく、立派な邸宅
がある。彼の宅地はウナギの寝床のように表通りから細長くウラの田圃に向けて
長方形にのびている。通りから少しひっこんで ブティーク的な工芸品土産物屋
(今はインターネットカフェとしてテナントが入っている)、その奥に小さいが綺
麗なオープンテラスのガーデンレストラン。これは屋根と柱だけで、三方が吹き
ぬけとなっている。小さな池もあって、鯉らしき魚も群れている。
この先に小さな門があってパブリック・スペースとプライベート・スペースを
区別している。門を入ると右手に立派なファミリーテンプル。トコさん夫妻は毎
朝、お供えとお祈りをかかさない。この結界の中には、われわれがうかつには入
れない。少なくとも身だしなみが必要だ。
バンガローといわれているものは、われわれの一般的理解とは違い、別荘風の
しっかりとした建物である。夫婦と子供達の寝室として使われていた立派な広い
部屋4つが、今は客室として提供されている。今回は、われわれ3組でこの客室
すべてを専有してしまった。それぞれの客室の前にテラスがあり、バリコーヒー
を自分達で飲めるようにと、常にお湯を絶やさないポットが置かれたテーブルと
椅子がある。その横には天蓋つきのベッドが昼寝用に置かれ、庭の向こうの小屋
風のテラスにはハンモックが吊られている。これら全体が熱帯の花と緑につつま
れているので、本当に別天地の心地がする。
屋敷の一番奥に、トコさん一家の住居部分、納屋、作業場がある。この内庭に
は小さな囲いがあって、トコさんの末っ子、4才のニョマンが飼っている小さな
ウサギ達がいる。
トコとは、本来は「店」を意味する言葉だ。トコさんの一族はチャンプアン峡
谷で商店を代々営んでいたが、それを名前にしてしまったので、彼は、お店のト
コという意味でトコトコと名乗っている。トコトコ一家は、40台のトコさん、美
人で働き者の奥さんのチャンディ、長男のワヤン、次女のマディ、次男のニョマ
ンの5人家族である。ほとんどが一族や知り合いのようだが、10人の使用人がレ
ストランや屋内で働いており、庭や部屋は常にクリーンに掃除されている。
このような快適でホスピタリティ万全の場所で、一泊朝食付きで邦貨換算約
3000円なのだから、私達はすっかり気にいってしまった。今後は年に一、二回は
行くようにしたいと思っている。ここの食事がまたいいし、日本と比べてはもち
ろん、バリでの同じクラスのところと比較して格安だ。トコさんが始めてまだ2,
3年なので、ほとんど知られておらず、朝と夕はわれわれの専用レストランのよ
うだった。
朝食のメニューはいちおう、アメリカン、コンチネンタル、インドネシア風、
バリ風の4種類に分かれている。しかし、トコさんは取り混ぜて何でも注文して
くれという。私の定番は大皿のパパイア、奥さん手作りのヨーグルト、ミゴレン
(焼きそば)、そして濃いが、つよくないバリコーヒーである。和食党の私もこの
朝食に満足している。昼や夕食には、メニューにない特別料理もいろいろと注文
を聞きながら用意してくれる。ウブドの名物料理は鴨で、これは水田を自由に泳
ぎまわっているカモなので、小ぶりなのだが、脂肪分が少なく、味はよい。これ
をまずローストし、その後15時間もかけてゆっくり煮たもので、口に入れると
とけそうだ。漁師から直接入る魚も注文によって出されるが、和風になじんだも
のにとって、バリ風は正直いってイマイチの感がある。最後の日には、田圃でた
まにとれる鰻を入手したのでと、バリ風のフライにしてくれた。小さい針金のよ
うなもので私にはウナギとは見えず、珍しかったが、なじんだウナギの味とは別
物だった。これを数十匹、特別製のサンバル(辛いトウガラシをベースにさまざ
まな香味や野菜を入れたヴァリエーションがある)をかけて食した。
トコさんは空港送迎を自らしてくれるし、私達の時には奥さんのチャンディが
いつも一緒にやってくる。希望すると海や山にも連れて行ってくれる。トコさん
と1~2時間、付近の田園地帯を早朝散歩するのも私の楽しみの一つだ。今回は6
時起床、6時半出発で毎朝でかけた。最初の朝は全員参加であったが、次第に参
加が減り、最後は私とトコさんだけになってしまった。
トコさんの家の庭にも早朝から様々な野鳥が飛来する。散歩の途中では、姫路
の付近でよく目にしたと同じ白鷺が多く見られる。ある朝は、低いプルメリアの
木にとまっている翡翠(かわせみ)がみられた。日本でみるものよりもかなり体
型が大きい。これはインドネシア・キングフィッシャーとして本に紹介されてい
る同類別種のものらしい。後述するウォーレスは、さらに細かく区別し、インド
ネシアには5種の独特のカワセミがいると記している。
夜はすばらしい星空がみられる。真上にある天の川だけはわかるものの、星座
の知識に疎いものには、南十字星も識別できない。何人かの地元の人に聞いてみ
たが、知っている人はみつからなかった。
(3)
バリに初めて行ったのは労働組合の派遣で、1970年10月だった。同行者は3
人で、当時全逓本部会計部長加藤正造、同東京地本鈴木栄二が一緒だった。
スカルノ時代の後期には、共産党系のSOBSIを除き、インドネシアの労働組
合は名存実亡状態に追い込まれていた。それがスハルト時代に入ると、初期にお
いては結社の自由が事実上、多分対外的なみせかけとして、回復されかけた時が
あった。とはいっても、スハルト時代に全盛を誇ったインドネシア共産党系
SOBSI系組織にたいしては、逆に厳しい弾圧の嵐が吹いていた。われわれの訪問
はそのような頃だった。
インドネシアにおける郵便労働者の組合運動史はオランダ植民地時代にさかの
ぼる。最初の組織は、オランダ人中堅職員の組合として誕生したようだが、その
後にはインドネシア人労働組合も生れた。第一次世界大戦後にははっきり労働組
合を名乗っていた。インドネシアだけではなく、多くの植民地において、一番最
初の労働組合を結成したのが郵便労働者であった。それは最低限の識字を必要と
する労働であるだけでなく、仕事を通じて外国人と外国の事情にふれる機会を持
っていたからであろう。
インドネシアでも歴史的にみると、他の旧植民地と同様に、労働組合運動は官
公部門の組合が運動の中心であった。なかでも郵便電気通信、鉄道、教員が三本
柱であった。郵電労働者の組織であるSSPTTは、当時すでに100%に近い組織
率を達成していたが、それは現場の幹部職員が中核となり、全員が加入する職能
団体的かつ友愛親善的組織だったからであろう。その点では、管理職を非組合員
とする先進国の組合とは大きく異なっていた。
植民地時代より郵便電気通信部門の管理機構はジャカルタではなく、ジャワ島
中部の高原都市で、年間を通して涼しいバンドンに置かれてきた。独立後に首都
がジャカルタとなり、郵政省が他の政府省庁と同じく首都に置かれてからも、管
理機構はバンドンに留まった。
ジャカルタに着いたわれわれ一行を出迎えたのは、旧知のサブルールヤキンで
あった。1966年の国際郵便電信電話労連(PTTI)ブリュッセル大会後に東京に
立寄った時には、彼は書記長であったが、組合再建の中心人物であったスチャイ
ヨの急逝によって委員長に昇格していた。彼は私と同年の生れで、当時、弱冠35
才であった。
彼のオンボロ車でジャカルタ市内を通過している時、交差点の真中でエンスト
をおこしてしまった。すると彼は運転席から降り、なんと後からその自動車をけ
り始めた。頑固なロバがすねたときにこれをしかると同じ方法だ。しかし、加藤
さんが指導してようやくこの窮地を脱した。市街地を抜けるとバンドンに向かう
道はあまり車もなかったが、そのうちに邁進してくる対向車があらわれた。とこ
ろが、すれ違えるほどの道幅はないのに、どちらも譲る気配がない。間一髪のと
ころで、わがサブルールがハンドルを左に切って、車を畑に入れ、並木のウラか
らまた道に戻ったので事なきを得た。ジェームス・ディーン主演の映画「エデン
の東」で暴走する若者達のチキンゲームのようだった。相手は、多分軍人だった
というのがわれわれの結論。
あらゆる開発途上国で最大の組織勢力は軍隊であり、軍人が名実とも支配して
いる国が非常に多かったが、インドネシアは特にひどかった。これは軍事的独立
闘争の後遺症かもしれない。
その頃読んで感銘を受けた本に、スウェーデンの経済学者で、社会民主主義者
だったグナール・ミュルダールの『アジアのドラマ』という、大部の著書があっ
た。これは「社会改革なくして、開発なし」という主張を、南アジアを主たる研
究フィールドとして展開している。その中で、人々に「クルマの運転を覚えさせ
るのは容易であるが、監督なしに自発的に規律を守って働くことを教えるのはも
っと困難」と書いてあったが、しかし、規律ある運転を自主的に行うこともそう
容易なことではないと実感した次第。これは、外国旅行を通じてその後もしばし
ば経験し、私が取得した運転免許を実地に用いるのを断念した理由の一つともな
った。
サブルール委員長に同行してもらってスマトラ島のパレンバンを訪問した後、
インドネシア滞在の最後にバリに向け、西から東へとジャワ島上空を横断して小
さなプロペラ機で飛んだ。当時のデンパサール空港は掘立て小屋程度の小さなも
ので、もちろん売店もなければ、待っているタクシーの姿もなかった。
われわれが唯一の外国人グループらしく、空港職員が近づいてきて、今郵便局
から自動車がこちらに向かっていると知らせてくれた。ほどなく、逓送用の小さ
な赤色のバンが到着した。これが、その後4日間の滞在中の足となった。あとで
知ったことだが、島には2台の郵便自動車しかなく、1台をわれわれが使ったの
で、島半分の郵便配達はその間ストップしていたことになる。当時は、そして今
も、大都会の一部を除き郵便の個別配達はなく、村役場とか学校など拠点にまと
めて届けるだけだ。こうした状況は開発途上国の多くにみられる。その点、かつ
て日本人に感動を与えた中国映画「山の郵便配達」を観ると、辺境の地まで大変
な苦労によって郵便が届けられている状況が良く描かれており、他の先進国並の
サービスが行われているのがわかる。さすが、やはり中国は文字の国だ。
(4)
デンパサールもマスツーリズム以前のその頃は、まだ牧歌的な街で静かだった。
緑が多く、林の中に家が点在している感じで、明治初期の東京について外国人が
当時書きのこしていた印象記を髣髴させるものがあった。
在野の歴史家、渡辺京二がかつて『エコノミスト』に連載していた「われら失
いし世界」の第25回目に、表通りには人家が密集しているが、裏街道からすぐ
美しい田舎の風景に接するという記述がある。「田園作りも、人口が密集した地区
の中にまで入り込んでいるから、もともと都市と田舎との境界をはっきりつける
ことは困難である」というベルクの印象を、その中で紹介している。これに似た
ような風景はこのバリの州都には1970年当時まだ存在していた。渡辺のこの連
載は、『逝きし世の面影-日本の近代素描』(葦書房、1998年)に収録されており、
日本近代化のプロセスを外からみる視点を提供していて面白い。ちなみにこの出
版社は福岡にあって、渡辺京二の本をいくつか出版してきた。
われわれが投宿したのは、デンパサール市の中心、市庁舎のすぐそばにあるホ
テル・バリであった。サヌアビーチに日本資本で当時完成したばかりの近代的高
層「バリビーチ・ホテル」を別にすれば、このホテルが唯一の外国人向けとそれ
までみられていた。植民地時代の木造洋風建築で、フロントとレストランのある
本館が大通りに面しており、ヤシや他の庭木の繁る広い中庭に4-5部屋づつの長
屋のようになったカマボコ型の客室棟が点在していた。
客室に入ると、ベッドの上に枕とは別に、ベッドサイズの長い枕のようなもの
が置かれていた。これは寝相の悪い人のための枕かといぶかしんだのだが、後で
人から教えられたところによると、これがかの“ダッチワイフ”というものであ
った。このダッチワイフは相当お年を召していたので、部屋の隅にお引取り願っ
た。
その後、オランダに何回も行き、いろいろなホテルにも泊まったが、ダッチワ
イフにはお目にかからなかった。もともと本国では必要がなかったものかもしれ
ない。
このホテルで記憶に残っていることは、部屋はすべて中庭に面しており、ドア
をあけると、早朝からポットに入ったコーヒーが置いてあることだった。底に粉
がたまるほど濃いバリコーヒーの味は忘れ難かった。
ところで、オランダによるバリ島植民地支配の拠点は、デンパサールではなく、
そこからは遠く離れ、島の反対側にあるシンガラジャであった。ここは植民地以
前のバリ島にあった複数の王国の中で、最も強力な王族が支配していた。シンガ
ラジャは現在島内第二の都市であるが、人口はデンパサールよりもはるかに少な
く、近代化と観光化に取り残されている感がある。それだけに、コロニアル風の
洋式建築が随所に残っており、落着いたたたずまいをみせている。もちろん、当
時は、海運に依存しており、このあたりは太平洋側のバリ海に面した静かな湾で、
良港のあるこの地をオランダ人が選んだのは当然であった。同じ太平洋側のバタ
ビア(ジャカルタ)や、スラバヤなど西部ジャワの拠点と、ロンボク、フローレ
スなどの東部の島々を中継する戦略的中継基地であった。
バリ島の東に隣接するのがロンボク島で、その間の狭いが潮の流れの速い海峡
をウォーレス線が走っている。ウォーレスはダーウィンとほぼ同時代の人で、動
植物の分布と分類に先行的な研究を行い、この海域を5つの動植物的区域に分け
ることを提唱した業績で知られている。
彼がバリ島を訪れたのは、1856年6月のことであった。バリ島の北側、すな
わち、シンガラジャと同じバリ海に面するピレリンという小港に、シンガポール
から小さなスクーナー船で20日間の船旅の後に入港している。彼の主たる目的
地は、次に向かうロンボクだったので、バリには2日間しか滞在していない。
しかし、彼はその間に興味深い観察をここでも行っている。彼はその代表的な
著作『マレー諸島』の中に、次のように記している。
「あちこち歩き回って、私は驚き感激した。・・・・それまで私は、ヨーロッパ
以外では、一度もこのように美しい見事に耕された地方を見たことがなかったか
らである。僅かに起伏している平野が海岸から10-12マイル内陸に伸びており、
そこは、樹木の茂みやあるいは耕された丘陵の美しい連なりと境を接していた。
ココヤシやタマリンドや他の果樹の密生した茂みで区切られて、家屋や村落があ
ちこちに散在していた。一方、それらの間に広がる豊かな水田は、ヨーロッパの
最もよく耕されている地方の最良の耕地にも匹敵するほどの念入りに作られた灌
漑方式によって水が供給されていた。」これに続いて彼が描写しているのは、「土
地の起伏にしたがって、広さ数十エーカーから、腰をかけるだけの実に狭い土地
まであったが、どの土地も完全に水平になっていた。しかし、隣の土地は、数イ
ンチから数フィート高いか、あるいは低いかどちらかに位置している。水は山か
ら流れ落ちてきた流れを全て利用しているのである。」これは私が子どもの時に岡
山の山村で見ていた棚田の風景とまさに何ら変わるものではない。
ウォーレスの『マレー諸島』は、インドネシアやその周辺地域の“逝きし世の
面影”をよく伝えている古典的名著であるが、これまで容易にわれわれが目にす
ることができなかったものである。しかし、1991年に600ページを超えるこの
書物が思索社から日本語訳で出版された。訳者の宮田彬は医学博士で、われわれ
と同年代の人だ。彼が、専門外のこの本を訳した契機は「少年時の夢」だったと
その訳者が後書きに述べている。素晴らしいことだ。彼は本の末尾に懇切な「解
説」も書いている。小文におけるウォーレスの引用は、この本から借用した。
(筆者は姫路独協大学名誉教授)
目次へ