【コラム】
『論語』のわき道(15)

向暑閑話

竹本 泰則

 今年の夏を暦でたどると、始まりは5月5日(立夏)、季節の真ん中である夏至が6月21日、年間で最も暑いという大暑の7月22日を経て、8月6日(立秋の前日)で終わる。
 蛇足ながら、土用・丑の日は7月21日と8月2日で、今夏は二回ある。鰻屋にとってはありがたい年かもしれない。

 暑さが感じられるようになると耳に入ってくる言葉の一つに熱中症がある。この病名はすっかり日常化し、天気情報の番組で生活上の注意を促したり、ニュースではその日に救急車で搬送された患者の数を報道したりする。
 ところで、今年は新型コロナウィルスの感染をおそれて人々は挙ってマスクを着用している。マスクを着けると口元の温度はすぐに39度から40度くらいまでに上昇するらしい。口の周りに汗をかいたくらいで熱中症になることもあるまいが、マスクによって呼吸がしにくくなるために、心拍数や呼吸の回数が1割ほど増えるというデータがあって、これに運動や気温の急激な上昇が加わると熱中症になるリスクは高まると指摘する専門家もいる。何にしろ鬱陶しい季節がしばらく続きそうだ。

 暑さで急に体調を崩す症状を、子供のころ(昭和の半ば)には「日射病」と呼んでいた。その後しばらくして「熱射病」なる呼称も現れた。それらを含めて今では熱中症という呼び方にまとめられているようだが、この用語は奇怪である。特定の物事に心を奪われるといった意味の「熱中」という熟語がすでにあるのに、熱中症の熱中はこの意味ではない。

 漢字熟語の中には字が同じでも読み方・意味は違うという例はある。たとえば「人気」。ニンキと読めば世間の評判・受けなどをいい、ひとけ(ひとっけ)と読むと人がいる気配などを表す。ほかにジンキ、ひとげといったいい方もあり、また違った意味になる。
 しかし「人気」の場合は、意味が違えば読みも変わるということであるからまだいい。熱中は読みまで一緒で意味だけが違う。仏教用語を起源とする日常語の中には本来の語義とは異なる意味で使われる例がいくつかあるようだが、この語はそれとも違う。

 現代の熱中症のことを明治時代には「熱あたり」と呼んでいたので、これから来ているのではないかという話を耳にしたことがある。そう言われれば、やはり子供のころだが、日射病のほかに「暑気あたり」という言い方が大人にあった。そして漢字の「中」にはあたるという意味がある。それで熱中、つまりねつあたりか。しかし動詞と目的語を組み合せる場合、目的語は下に置くのが漢語の原則のように思う。例えば毒に中(あた)るというには中毒とする。熱に中(あた)るというのであれば「中熱」としなければいけないはずだが……。
 素人の想像に過ぎないが、例えばカルテなどに「熱中り」(ねつあたり)と手書きすることなどがあって、それが次第に漢字熟語のような扱いに変化したものではないだろうか。

 孔子の時代は今から二千数百年もさかのぼる昔だ。その当時の夏の暑さはどうだったのだろう。浅学の悲しさ、よく分からない。 『論語』には季節・気象に関しての記述がほとんど見当たらない。 四季を表す漢字では「春」がおよそ五百章の内のただ一章に現れるのみ。「夏」は人名・王朝名としての用例だけで、この字が季節をいう例はない。秋や冬という字も出てこない。晴・曇・雨・雪も見つからない。ただ、暑い・寒いの漢字はそれぞれ一章ずつにある。
 「暑」は服装に関する記述の中に見られる。

  暑に当たりては縝(ひとえ)の絺綌(ちげき)、必らず表(ひょう)して出(い)ず

 縝の絺綌とは葛布のかたびらと注釈されている。葛はその根っ子を生薬の「葛根(かっこん)」や葛粉にするばかりではなく、古くはつるを布に加工していたようだ。
 家の中では葛布のひとえという格好でも構わないが、外出するときには必ず上に一枚羽織る(表す)こと、これが君子のマナーであるということらしい。
 肌が透けるような織りだったのではないだろうか。

 暑を表す日本語は「あつい」だが、逆に「あつい」に相当する漢字を探すと、暑以外にも結構多くの数がある。常用漢字に限ると、炎、厚、熱、篤などが出てくる。炎、暑、熱など、それぞれの漢字がどの程度まで厳密に使い分けられているのか知らないが、それはともかくとして、和語の方にもひっかかる。温度などのあつい(hot)と本などのあつい(thick)とは意味がかけ離れているのだから言葉も区別があってもいいではないか……。

 待てよ。この二つは日本語でも別の言葉だったかもしれない。言葉を口から出してみればわかるが、アクセントが違う。現在の発音が言葉として成立した当初のものと全く同じではないとしても、この二つの言葉は原初から耳で聞けば音の調子が違っていたとも想像できる。そうであれば、これは自分たちの言葉を書き表す独自の文字をもつより前に漢字を取り入れてしまった返酬(むくい)であろう。漢字から派生した [単なる表音文字である] かなで書くと違いが埋没してしまうのだ。

 あたるという和語も使われ方が幅広い。何かがぶつかる、接触するという意味のほかにも、映画や興行、出版ものなどが人気を得たような場合に使われる。また人に「つらくあたる」といった言い方もする。そのほか「伯父さんにあたる人」、「陽があたる」、「新年を迎えるにあたり」……と多様だ。
 手軽な酒のつまみにするめ(鯣)があるが、これをあたりめと呼ぶことがある。「する」は失うに通じるところから、それを嫌っての忌み言葉である。このことは前から聞いていたが、何と「ひげをあたる」という言い方もこの系統らしい。「ひげを剃る」が「ひげをする」に訛り、さらに「する」をあたるに言い換えたものだそうだ。
 『広辞苑』を見ると「あたる」の項には二十三通りの語意が出てくる。

 江戸いろはかるたの「い」の札は「犬も歩けば棒にあたる」。このあたるは「会う」の意味だという。「初戦から強豪にあたる」などという口だろうか。たしかに、歩きながら棒にゴッツンコするということではないだろう。そんな間抜けな犬などいるわけがない。

 ところでこのおなじみの慣用句だが、意味合いとしては二つあるという。一つは、犬も縁の下あたりでゴロゴロしておれば無事なのに、フラフラ出歩くものだから人間さまから棒でぶたれる。余り出過ぎちゃいけないという戒め。もう一つは、犬だって家におるばかりでは面白いことなどありゃしないが、外に出ると思わぬ餌にありつくことだってある。宝くじも買わなきゃ当たらない、ともかく先ず動くことが肝心という諭し。
 後者は棒が幸運とか僥倖といったものに結びつくところにいぶかしさがあるが、それはともかくとして、この二つの読み方、どちらもすでに江戸時代からあったものだという。学問的に当否が明らかにされ、どちらか一方に決着するというような次元の問題ではないのでこの先も両論並立だろう。

 なにか迷っているときこの句を言われたら「じっとしてろ」なのか、「動け」なのか迷うことになる。だから口にするときには旗幟を鮮明にすることが必要になる。
 「犬も歩けば棒にあたるというだろう、あんまり出しゃばるもんじゃないよ」といった具合。

 (「随想を書く会」メンバー)

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