≪特集:東日本震災≫

■ 原発をめぐり、科学者の使命と倫理を問う     羽原 清雅

        -落穂拾記(4)-   
───────────────────────────────────
 二〇一一年三月一一日、突然の大震災によって、豊かさのなかでまずはぬくぬ
くとした生活を堪能してきた現代の日本人は、ひとつのパニックに放り込まれた。

 新聞記者四〇年のうちにはいろいろなことがあったが、これほどの規模の事態
に遭遇したことはなく、いまも驚くばかり。記者駆け出しのころ、新潟にいて地
震に見舞われ、橋げた落下、液状化、石油タンクの二次火災などがあったが、死
者は山形などを含めても二六人と規模のわりには少なかった(一九六四年六月)。
ただ、この地震で地震保険が生まれ、この発端はスクープできた。

 水戸時代、東海村原電で原子炉のトラブルが起き、茨城県にもメディアにも知
らされず、この情報の遅滞ないし隠蔽を思い出して、今改めてこれが「原子村」
の体質か、と思い知らされている(一九八六年)。さらに、雲仙普賢岳の爆発で、
報道各社を含め四六人の犠牲者を出したとき、地元の編集局長として「安全」確
保のむずかしさを痛感させられた。だが、突発時の対策に名案は出てこず、それ
ではいけないのだが「運」というものを強く感じさせられた(一九九一年)。小
生の仲間に死者はなかったが、申しわけない思いである。

 こんどの事態のなかで、とくに原発問題だけでも、反省すべき分野はあちこち
にある。まず政治的責任を大きく負う政府は、継続的に「安全神話」を振りまい
てきた姿勢を問われる。なかでも行政実務の遂行にあたってきた経済産業省は、
安全についてきわめて甘くしか対応してこなかった責任がある。また、今でこそ
野党をいいことに臆面もなく政府攻撃をしかけている自民党は、長期政権のなか
で原子力政策を推進し構築してきた、むしろ根源的な大きな責任がある。

 現場で実践する東京電力はじめとする独占的電力会社は、安全面の対策をコス
ト低廉化など狭い範囲でしか考えておらず、不透明・非公開・隠蔽など、オモテ
とウラを使い分けての悪行を暴かれた形だ。さらに、新聞、テレビなどのメディ
アもまた、すべてではないにしても、安全についての基本的な追求をせず、表面
的に政府・電力会社サイドと、反原発の主張者やグループの双方を、いかにも公
平であるかのように両論併記するか、ときには「科学」の装いで安全神話を広め、
原発推進に組したりしてきた。

 そうした責任はいずれ問い直されるだろうが、この稿ではその非を咎めるつも
りはない。むしろ虚心坦懐に基本に立ち返って反省し、教訓を生み出し、次の望
ましい段階に進むように願っている。その趣旨で書き続けたい。

 この原発事故の事態のなかで、とくにこだわらざるをえないのは、科学者・研
究者の「使命」「倫理」という問題である。今度の大震災に伴う福島原発の動き
を見ていて目立つのは、関係学者たちの右往左往、言動の不確かさ、かつての発
言への無責任な態度、責任ポストにありながらの責任回避と反省のなさなどであ
る。学者たるものの覚悟というか、科学に対する真摯さはこの程度か、と感じる
のだ。原発という難しい科学の応用については、一般の国民には安全か危険かな
どはわからない。したがって、科学者たちをひたすら信頼して、その判断を受け
入れている。そこに、安全・安心が生まれ、原発立地も受け入れられている。

 この大前提をくつがえすような、関係学者たちのいい加減さが今、国民の眼の
前に見えつつあるのだ。なぜそうなったのか。権力接近の名誉のためか。カネに
眼がくらむのか。いちど言い出したら、軌道修正するとキズがつくと思うのか。
あるいは、研究や学殖自体が評価に値しない程度のものだったのか。

 そうした扱いやすい御用学者たちの論拠をもとに、政府や電力会社はコストの
安さや需要の高まりなど当面の事情に引っ張られ、反対の論理や疑問、反対勢力
の動向を十分検討することなく、あたふたと実行に踏み切ってしまう。ひとたび
ミスや事故が生じると、隠したり、改ざんしたりで「安全神話」を押し通してし
まう。ひとたび、安全を言い募った以上、不備や予想外の事態が起きたり、問題
が発生したりするわけがない、といわざるをえず、また自らも次第に信じ込むよ
うになって、見直しや改善といった措置が取れなくなっていく。

 共同正犯の政府・電力会社・学者のスクラムはますます固くなり、ここに本来
の安全は見捨てられていく。そんな構図が出来上がっているところへの、大惨事
だったのだ。そしていま、直面しそうなのは、原発なしで日本経済はやっていけ
るのか、電力確保こそ最大の復興の課題、という論理が言われるようになって、
今後の原子力政策が根本的に見直されることなく、小手先だけで原発継続を決め
てしまうような現実である。政治の混乱に眼が奪われているなかで、こうした現
実路線が上記三者のスクラムのもとで進められかねない。そうなれば、さらなる
不幸に見舞われることは間違いない。

1.昨今の曲学阿世


  学者、研究者は、実証的・客観的・多角的に真理・事実を究明することが使命
である。彼らの忠誠は、研究対象に捧げられ、名誉、利益、著名などに向けられ
てはならない。ヒトラーに仕えた物理学者フィリップ・レーナルト、ヨハネス・
シュタルクらほどではなくても、権力に奉仕するような姿勢をとるべきではない
ことは当然として、平穏の世の中であっても、学者はおのれの学問の蓄積に誠実
であり、また一部分の方向からのみ追求せずに多角的に実証し、説得力を持たせ
なければならない。かつて、ある首相が言った「曲学阿世」という言葉が逆説的
に思い出される。

2.問題の姿勢


  実態はどうか。内閣参与の学者は放射能被爆の危険が自説に合わない、として
泣きつつ辞任した。この人物の被曝のリスクを低く抑えたいという信念はいいと
しても、科学的対応とは程遠く、むしろ基準値への疑惑を増して福島県民の危機
感を高めた混乱はどうなのか。政権に関与するという意味がわかっていない。ま
た、ある元原子力安全委員長は、安全は技術的に可能だが、安心は科学者の対象
外、といったことを述べていた。

 自らのポストの持つ責任に対して自覚がない。斑目春樹原子力安全委員長は菅
首相に「福島原発は構造上爆発しない」と言ったり、「(汚染水の処理について)
知識を持ち合わせていない」と語ったりするなど、この種のいい加減さはまさに
枚挙のいとまがないほどだった。また、政府のIAEAへの報告書では津波や過
酷事故対策などの不備を認め、政府・自治体・電力会社など一体で事故対応策を
決めた原子力災害対策マニュアルが実際には活用できるようなものでなかったこ
とも明らかにされた。

原発定着に至る各段階で関与した科学者たちの、学究としての倫理を問いたい。
  学者ではないが、朝日新聞の科学報道の先端にあり、科学部次長、論説委員だ
った大熊由紀子は「津波のツの字も想像しなかったことについては、不明を恥じ
ています」(日本記者クラブ会報二〇一一年六月号)と述べているが、その正直
さは評価するとしても、いささか唖然とせざるをえない。

3.浜岡原発と地震


  筆者は新潟のほかに、水戸に一年半ほど在住したことがあるが、ここでは月単
位で震度ニ~三程度の地震があり、日本は地震国なのだ、と実感せざるをえなか
った。また、吉村昭の著作などに触発されて、折にふれて津波は大丈夫なのか、
などと話したこともあった。新潟や水戸での生活がなかったら、地震・津波を考
えることもなかっただろう。

 そんなかかわりで思うのが、静岡県の浜岡原発の稼動中止措置についてである。
菅首相の数少ない成果、とされている件だ。地震や津波の科学から見て、この判
断が妥当かどうかはわからない。ただ、「浜岡」の不安は大きい。ほぼ百年毎に、
まとまって地震が起きているからだ。これは地震予知連絡会会長・島崎邦彦の話
を聞いて感じたものである。というのは、東海、東南海、南海の一帯では、一九
世紀には善光寺(一八四七)、伊賀上野、安政東海、安政南海(一八五四)、江
戸(一八五五)、富山・岐阜県境の飛越(一八五八)の五回、また二〇世紀には
ほぼ百年経って鳥取(一九四三)、東南海(一九四四)、三河(一九四五)、南
海(一九四六)、福井(一九四八)とやはり近辺で五回発生している。この事実
からすると、三度目の正直はやがて四〇年後に襲ってくる可能性がある。
   
  羹に懲りて膾を吹くわけではないが、しかし危険と見たほうがいいし、備えは
すべきだろう。NHKの某キャスターなどは、それでは電力はどうするのか、と
佐賀県知事など反発派の意見を多用して発言していたが、政府の要請が浜岡のみ
であることに不満なら、ほかの原発についてはむしろ地元を預かる知事らが地元
電力会社や多方面の専門家たちを集めて、政府に対抗するなり、準用するなり、
それぞれの地域事情に沿った対応を検討すべきなのだ。地方自治という以上、政
府の指示を飲まなくてもいいような検討努力をすべきで、その複数の診断結果を
それぞれの地域や政府が参考にして、さらに望ましい対策を考えればいい。

4.原発導入時の背景


  原発導入の経過を見ると、これは完全に政治主導で、関係学会はそのあとに追
随するように対応を決めている。しかも、学者の間にはさまざまな見解があり、
この混乱が尾を引いて、政治判断がどんどん先行する結果になったと思われる。
つまり、学問的な安全対応がまとまらないうちに、政治的な路線が引かれ、これ
に同調する学者、研究者ばかりが起用されて推進、結果的に慎重論や反対論は遠
ざけられ、十分な各専門学会の幅の広い論議が交されないままに今日に至ったと
思われる。
   
そこで、導入の決まった一九五四年当時を、少し長くなるが振り返ってみたい。
  この年、政界では造船疑獄(一月)、法相の指揮権発動(四月)に揺れ、日米
MSA(相互防衛援助)協定が調印され、自由党憲法調査会(岸信介会長)が発
足し(とも  に三月)、また翌年にまとまる左右社会党の統一と保守合同の動
きが始まりつつあった。

 しかも、この時期には第五福竜丸のビキニでの水爆実験被曝という事件が三月
一日に起きており、ヒロシマ・ナガサキにつながる悪夢が甦っていたのだ。衆参
両院では学者たちの意向を入れる形で原子力国際管理決議案が可決され(四月)、
杉並区で原水禁署名運動が動き出している(五月)。つまり、一方で政界のどさ
くさのなかで原発導入が進められ、他方で原水爆の恐怖との闘いが始まる、とい
う同時進行の時代であった。
   
  原発導入は、無所属から日本民主党に所属した正力松太郎(のち初代原子力委
員長)、改進党の中曽根康弘(のち科学技術庁長官、首相)らが推進したことは
よく知られている。一九五三年、アイゼンハワー大統領が原子力の平和利用と対
外協力を提唱しており、これが中曽根たちの行動の引き金になった。翌一九五四
(昭和二九)年三月、「原子炉建造補助費」二億三五〇〇万円が予算化されたが、
これは五四年度予算成立が難航するなかで、末期的与党の吉田自由党と改進、日
本自由の保守三党が妥協し、共同修正して生まれた。いわば、政治混乱に乗じて
論議不十分のままに生まれた政治的所産だった。

 当時の新聞はこの予算化について「学界や関係官庁をあわてさせ」「研究体制
が全くない折なので関係者の受けたショックも大きかった」(三月四日朝日新聞)
と報じた。さらに、この日の朝日社説は、次のように厳しい指摘をしている。
  「この費目をかつぎ出した議員たちは、おそらく、原子力問題の重要性を、政
治家として認識した先覚者のつもりでいるかもしれないが、日本の現状に照らし
て、実はこれほど無知をさらけ出した案はないからである。」

 「原子炉製造補助費というが、いったい、どこの、だれが、日本で原子炉製造
計画を、具体的に持っているか。われわれの知る限りで、そのような具体的計画
は、まだ存在していないのである。」「日本学術会議と事前に連絡なしに、この
ような予算案が登場し、それが国会を通過するという事態は、到底、黙視できな
いのである。」

 「仮に、何年か先に、小型の実験用原子炉ひとつをつくるにしても、・・・・
原子科学者を中心として、多部門の科学者が、正しい目標と順序とを立てて協力
しなければ不可能である。これら多部門の科学者の研究組織を生み出すには、ど
うしても日本学術会議が中心にならなければならないのである。だが、この予算
案は、日本学術会議の存在を無視して登場した。」と、いまに通じるような問題
点を早々と見抜いていた。

 実際、日本学術会議の茅誠司会長らは時期尚早として反対を申し入れた。さら
に、三月一一日には、「平和利用に限定」を前提とする原子力憲章など国会の意
思表示を求めるような見解が示された。朝永振一郎、藤岡由夫、森戸辰男、伏見
康治、坂田昌一といった著名な学者が名を連ねた。しかし、流れには逆らえず、
「原子力は平和的にしか使わないことを国会で決議」し、「予算の扱いは日本学
術会議に諮問する」ことを決めるにとどまった。

5.各界学者の協調


  朝日社説のいう「多部門の科学者の協力」だが、この問題は今回の安全確保策
に影響しているのではないか。非科学的門外漢ながら、故高木仁三郎著「原発事
故はなぜくりかえすのか」(岩波新書)では、物理学者と化学者について、原子
核の特性の解明や法則性の発見など理論的研究をする物理学者は「放射能に関し
てはずいぶん乱暴なことをやっている」として、微妙な放射能を扱う化学者の世
界との違いを指摘、またこれらの研究が活用されていないことを述べている。こ
れは一例だろうが、科学者の世界ではその進歩、複雑化や深まりに伴って専門分
野の細分化が進んでおり、その交流は半世紀前の比ではないくらいに重要になっ
ているはずだ。専門では通用しない状況にある。しかも、脱原発や危険を指摘す
るような学者たちは異端視または排除され、その指摘を冷静に再検討して、説明
や論争を交すと言う基本的な姿勢を捨ててしまった。

6.「安全神話」の脅威


原子核の問題は極めて難しく、一般的には理解できない。したがって、専門家の
いうことを信じる。学者研究者の原発についての発言には、偽りは一切なく、客
観的で実証的な論拠があることが前提である。そのうえで、政府、というよりも
所管の官庁、官僚が論理的に十分な検討したうえで問題なしとして法律のもとに
制度化され導入される―――すくなくとも、そのように信じられてきた。
  それが「安全神話」になったわけだが、結果としては信じた者が愚かであった、
学者も官僚群もその対応にウソの部分があった、というような事態になってしま
った。「想定外」と簡単にいうが、今日の事故の様子を見ると、むしろ「想定」
しなかったことのおかしさが目についている。科学者の取り組みはその程度だっ
たのか、それで許されると思ってその任に当たっていたのか、と言わざるをえな
い。

 しかも、「絶対安全」と言った手前、改変、修正、再検討などの対応の余地を
自ら閉ざしてしまった。政府内部も、その無謬第一の姿勢を崩すわけにいかず、
体制に組み込まれた学者たちと一蓮托生の関係になってしまっていた。そこに、
学者としての良心、公務員としての責務のあり方を疑わざるをえないのだ。

7.学ばなかった多様な事故


  これまでどれだけの原発事故や課題が生じていたか、を考えれば、「安全神話」
が成り立つわけがないことは明白だった。一般の人たちも漠然としながらも、
「ほんとに大丈夫なのかな」と思う風潮があったことは否定できまい。
  海外では、スリーマイル島原発(一九七九.三、レベル五)、チェルノブイリ
原発(一九八六.四、レベル七)の事故以外にも、米、旧ソ、英、仏などの原発
事故のほか、軍事用原子力事故を含めるとかなりの数に上る。国内では最近だけ
でも、敦賀の高速増殖炉もんじゅ事故(一九九五.一二)、東海村のJCO事故
(一九九九.九)、柏崎刈羽の地震事故(二〇〇七.七)などが大きいが、これ
までのトラブルは小さな放射能漏れなども含めると三〇〇件はあるだろう。
それだけのリスクがありながら、政治の舞台はチェックし切れなかった。その都
度、危機を感じた対応があったら、と思うが、「安全神話」に毒された与野党と
も、政府によるのか電力会社によるのか、少なくとも非科学的にだまされてしま
った。
  小さな事故でも、きちんとした科学的なメスが入っていたら、異端でも反対グ
ループでも、その指摘にきちんとした検討を加えていたら、予防的措置も出来て
いたかもしれない。これは、科学者の怠慢というしかない。

8.放射能汚染物の処理は?


  もう一点で問題なのは、原子力発電に伴う使用済み燃料や汚染廃棄物の処理方
法がいまだに結論を得ていないことである。「トイレのないマンション」といわ
れるが、それは正しい指摘と思わざるをえないほど、基本的な問題への解答が出
ていなのだ。
   
  放射能の高いレベルの使用済み燃料はガラス固化体としても、半減期は数万年
以上と長く、海洋投棄、宇宙放出、また地下深い埋蔵にしても、長い地球の存続
を考えると、そうもいくまい。いま増え続ける汚染水や、廃炉となった大量の機
材類はどうするのか。受け入れ先をカネで買う、といった従来の対応ではすまな
いだろう。
    
  この科学的処理の開発はきわめてイロハの問題として必要だったが、これをク
リアできないままに突き進んでしまった。地球は自分たちだけのためにあるので
はないし、ヒロシマ・ナガサキの復興が予想以上に早かったからといって、その
まま進んでいいというものではない。いま思えば、「安全神話」を語るなかで、
科学者はこの問題をはぐらかしていなかったか。

9.ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ


放射能問題を考えるとき、ヒロシマ・ナガサキの軍事的利用の場合と、フクシマ
のいわゆる平和利用の場合が同根のように思われる。 原子核の怖さについて、
どちらの取り組みも甘すぎたのではないか。自然界に対する人間のおごりがあっ
たのではないか。福島県下で子どもたちを放射能に汚染された野外で遊ばせてい
いのか、という問題は、被害の大小はあっても、根源は同じである。
また、あの爆発の脅威は、放射能科学を大きく前進させたものの、この教訓は
今回の惨事には十分生かされたようには思われない。核爆弾の爆発と、フクシマ
原発建屋の爆発は異質のものだとしても、人間に対する脅威は同じだ。さらに、
ヒロシマは当初、情報の秘匿政策もあって国際的なアピールが弱かったが、今回
は未知の世界を知ろうとする海外の学者が派手に詰め掛けた。ここでも、ヒロシ
マの技術面を含めた経験をどう生かすのだろうか、と素人は感じる。

10.具体的立案の必要


  これからの原発はどうすればいいのか。先にも触れたが、おそらく「電力不足
になるのに、原発なしでいいのか。日本経済は成り立たなくていいのか」という
主張が経済界やかつての尾を引きずる自民党あたりから次第に強まってくるだろ
う。危険か、それでも電気か。もうひとつは、自然エネルギーへの移行論である。
これは、被災状況からみれば、説得力を持つだろう。だが、太陽熱にしろ、風力
依存にしろ、このコスト計算が見えてこない。つまり、原発継続論と反原発・脱
原発論が衝突するが、裏づけというか論拠が乏しいままに、無為な対立が続くの
ではないだろうか。
   
筆者は、基本的には脱原発の立場だが、しかし両論とも生き残りの主張をする
なら、一方は「安全」の強化を、一方は「代替コスト」の具体案を、それぞれに
示してほしい。説得力を持つような論戦を早く展開して、結論に寄与してほしい。
それには、学者研究者のしっかりした論戦が必要だ。議論のバトルはどんどんや
って、非科学的政治家たちに選択の論拠と正しさを示してもらいたい。

 科学者たちはその能力を、あくまでも論理性、倫理性、またその使命に立って
役立ててほしい。学者群は、疑惑を感じざるを得ないその言動、対応を見直して、
国民の安全と安心を誘えるような基本的な役割を果たしてほしい。(敬称略)

(筆者は帝京平成大学客員教授、元朝日新聞政治部長)

                                                    目次へ