【コラム】大原雄の『流儀』

南島紀行(3)~八重洋一郎・篇~

大原 雄

 翁長雄志前知事の逝去に伴う沖縄の県知事選挙は、9月13日に告示された。9月30日に投開票が行われる。沖縄の地図を広げてみると判るが、沖縄本島は、日本列島に銃口を向けているように、私には見える。沖縄・石垣島の射手は詩人となり、琉球・沖縄という銃口を日本「本土」に向けている。銃口には、詩句という言葉の弾丸が詰め込まれている。詩句群の隙間から、詩人は、ときどき、言葉の弾丸を撃ち出す。弾丸は、日本刀(日本を切る刀)のように、切れ味が鋭い。例えば、「日毒」という弾丸。

◆ 『日毒』というユニークな詩集

 「ひとはせっぱつまれば いや 己れの意志を確実に/
  相手に伝えようと思えば/
  思いがけなく いやいや身体のずっとずっと深くから/
  そのものズバリである言葉を吐き出す」
  「日毒」/
  己れの位置を正確に測り対象の正体を底まで見破り一語で表す/
  これぞ シンボル/
  (略)
  高祖父の書簡でそれを発見する そして/
  曽祖父の書簡でまたそれを発見する/
  大東亜戦争 太平洋戦争/
  (略)
  まさしくこれこそ今の日本の闇黒をまるごと表彰する一語/
  「日毒」/」 
    (八重洋一郎詩集『日毒』から、「日毒」)※「/」は、改行。

 ワープロで「にちどく」と打ち込めば、機械は、「日独」と表記する。「日毒」とは、出てこない。しかし、この詩集『日毒』の「手文庫」という詩を読むと、「日毒」が出てくる。

 「幾年もの後 廃屋となったその家を/
  取り壊した際/
  祖母の父の居室であった地中深くから ボロボロの/
  手文庫が見つかり その中には/
  紙魚に食われ湿気に汚れ 今にも崩れ落ちそうな/
  茶褐色の色紙が一枚 「日毒」と血書されていたという/」
    (詩集『日毒』から、「手文庫」)

 茶褐色の古文書に血書で認められていたという、聞きなれない言葉、「日毒」とは、何か。詩集『日毒』の「人々」という詩も読んでみたい。光緒(こうしょ)2年、1876(明治9)年、明治政府の琉球国劫奪の動きに抗して、その頃、中国清朝政府に「琉球救出」の嘆願に赴いた琉球国の役人、八重山島の役人らがいた、という。そのうちの誰かの報告を清国の福州琉球館の役人が記録した。

 「…光緒五年日人が琉球に侵入し国王とその世子を虜にして連れ去り国を廃し/
  て県となし…只いま島の役人が 君民日毒に遭い困窮の様を目撃 心痛のあ/
  まり危険を冒して訴えに来閩(びん)…」。
    (詩集『日毒』から、「人々」)

 閩とは、福州を都とする当時の国名。福州の別称。「報告」は、清朝政府への「泣懇嘆願書」(控)である。「八重山人がいずれ後の為にと何処かに隠匿して持ち帰った」ものだと、詩人は推測する。その報告に明記されて、歴史を生き残って、今の世に伝えられた言葉、「日毒」である。

◆ 八重洋一郎という詩人

 詩人・八重洋一郎(やえ よういちろう。以下、敬称略)は、1942年、石垣市生まれ。東京都立大学哲学科卒業(「東京都立大学」という名称もやがて復活するという)。沖縄・石垣島から東京に出てきて、法学の勉強を志していたが、途中で、留年。卒業も学科変更で、哲学科卒。都立大卒業後、正規には就職をせず、数学塾などを開き、東京で暮らす。その後、親たちが亡くなり維持管理をするものがいなくなった実家の管理を引き継ぐために、帰郷。それ以来、石垣島在住。
 詩集は、1972年、『素描』刊行。1984年、『孛彗』で、第9回山之口獏賞受賞。2001年、『夕方村』で、第3回小野十三郎賞受賞。詩集、試論集、エッセイなど多数。詩集『日毒』は、2017年5月刊行の第11詩集である。

 「日毒」の詩編の引用でも判るように、この詩人の言語感覚は研ぎ澄まされていて、刃物のように鋭く、弾丸のように致命的である。

 つまり、「日毒」の「日」とは、明治政府を指す。明治政府の「琉球処分」である、強行的な「廃藩置県」は、最初の「毒」である。「琉球処分」とは、明治政府が、琉球国に対して、清国(中国)への「冊封」の廃止を求めた一連のプロセスを言う。

 「冊封(さくほう、または、さっぽう)」とは、時代ごとに、当時の中国の王(「天子」と称した)が、近隣の諸国・諸民族の首長と取り結んだ「君・臣関係」のこと。名目的な称号、任命書、印章などの授受を媒介とする外交上の関係。「 天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」という意味の中国の制度。中国の歴代王朝の君主たちが、勝手に「自任」していた。清朝(清国)時代の中国まで維持されていた。

 明治政府は、1872(明治5)年に琉球国を廃絶させて琉球藩とし、明治政府の直接的な管轄とした。さらに、明治政府は、1875年、内務官僚を琉球処分の「処分官」として、琉球に派遣し、清国との関係を「途絶(冊封法の廃止)」するように、と求めた。明治政府のこうした動きに対して、琉球の地元の士族層を中心に反対運動を展開したが、明治政府は、軍隊や警察など国家権力を使って反対運動を抑え込もうとした。
 1879(明治12)年、明治政府は、琉球藩を廃して、強制的に日本への統合を求め、沖縄県を設置すると琉球国に通告した。「日毒」という文字を記載した文書は、その後の歴史の中でも、捏造・改変などされずに、この頃の動きを記録している。最後の琉球国王は、東京移住を命じられ、独立国・琉球王国は、明治政府の手で約500年の歴史を閉じさせられた。

 しかし、詩人の石垣島にあった祖母の父の居室、その地中深くから見つかった手文庫の中にあった茶褐色の色紙には、「日毒」と血書されていた。八重は、「今なおこの言葉は強いリアリティを持っており、そのこと自体が現在を鋭く突き刺す」という。
 明治政府は、「大東亜戦争 太平洋戦争/三百万の日本人を死に追いやり/二千万のアジア人をなぶり殺し それを/みな忘れるという/意志 意識的記憶喪失」の歴史をくぐり抜けて、戦後は、対米従属国家として、そして、現在は安倍政権として姿を変えてきたものの、幾たびも「琉球」の上に「日毒」は、覆いかぶさり、「アメリカファースト」のために、人殺しの訓練をさせる施設・米軍基地を沖縄にさらに作らせようとしている。相変わらずの「日毒」ぶりは、全く変わらない。琉球処分も、辺野古基地強行建設も、いずれも国家権力を前面に立てた強権発動。沖縄県民への新たな琉球処分以外のなにものでもない。

◆ 第1詩集『素描』から

 詩句群の隙間から、ときどき、言葉の弾丸を撃ち出す詩人は、第1詩集では、こういう詩を書いていた。

 八重洋一郎第1詩集『素描』。この詩集には、詩篇に対するタイトルがない。目次を開けると、「素描Ⅰ」「素描Ⅱ」などとあるだけだ。例えば、冒頭の詩。タイトルもなく、いきなり詩が始まる。

 「くるひゆく  しづけさのほの暗い言葉から/
  踏む足に/
  高々と 杉杉(すぎ)聳え 逞しい調べ組む/
  (略)」 (八重洋一郎詩集『素描』から、「素描Ⅰ」。全56行。全4ページ)

 「くるひゆく  しづけさの」は、2字空き、「高々と 杉杉(すぎ)聳え」は、1字空き。

 「素描Ⅱ」の冒頭は、

 「赤壤(あかり) 裂け/
  冴え渡る 堆なりに 影失せて/
  空もなく/
  ひらき来る  輝きを/
  透徹り/
  ひろがる 沙漠よ/
  (略)」 (詩集『素描』から、「素描Ⅱ」。全117行。全9ページ)

 「赤壤(あかり) 裂け」は、1字空き、「ひらき来る  輝きを」は、2字空き。

 ここで、詩人の自己解説。「素描ⅠⅡ、これは私が思索を続けてきて、これから先は今、自分に見えてきたものを描く以外にないと気づいた時書きだしたものである」という。

 「素描Ⅲ」の冒頭は、

 「さけびあひたはぶれる 葉ずれの音 に/
  風 刺され  明るくすばやい 艸々 は/
  ひらたく視線を切りさいて/
  目路(めぢ) はるか  迫りくる地平に/
  あふれ埋(うづ)みゆく/
  (略)」 (詩集『素描』から、「素描Ⅲ」。全599行。全50ページ)

 字の空きに加えて行の空きも、大きくなる。思うに、この詩集は、読む詩集ではなく、朗読する詩集ではないか。字の表記とともに、朗読するリズムのようなものが計算されているように思った。詩人の自己解説続き。「Ⅲはこれらの全面展開、ⅣⅤはその肉づけとさらに続くべき思索への足掛りである。/南海の明るい風景と苛酷無惨な歴史の重圧の中で、生れ育った私に、存在というものの意味根拠を問い糺したい要求は熾烈なものがあった」。

 第1詩集『素描』は、1972年5月15日刊行。発行所は、世塩社。沖縄那覇市久米2丁目とある。詩人は、言う。「本書発行日の五月十五日は沖縄のいわゆる「本土復帰」の日である。かかる天下り的強権的策略的乞食的政治現象とは根本的に無関係に(つまり徹底的に対立して)われわれという生命は営まれていくのであることを言いたいがために、わざとこの日を選んだのである。一九七二年三月十五日」。

◆ 『素描』から『日毒』へ

 『素描』という詩集は、難解である。しかし、詩篇「素描」には、後に「日毒」へ変化して行く芽はあったように思う。この詩人は、琉球・沖縄の歴史の数々の過酷な部分を背負っているように思う。どのように変化して行ったのか。私には、興味深い。今回、沖縄で、詩人・八重洋一郎に直接お会いしたのをきっかけに、7冊の詩集と2冊の試論集を求めて、入手した。八重洋一郎が、『素描』から『日毒』へと変化して行くにあたって、どのあたりに「変化」、あるいは、「不変」のポイントがあるのか、探ってみたいと思った。そして、八重の詩人としての履歴を見ていて、ぜひ読んでみたい詩集があった。

 八重は、1984年、『孛彗(はいすい)』で、第9回山之口獏賞を受賞した。「孛彗」とは、「彗星(すいせい)」、ほうき星のこと。彗星は何十年周期で地球に接近する天体。太陽に近づくと2本の尾を曳く美しい姿で観測される。

 「ゑけ あがる三日月や/
  ゑけ 神ぎゃ金真弓(かなまゆみ)/

  天空さしてとび上る声々/
  躍る肉 苦世の底に/
  群がる血族(うから)/
  青一色に澄みわたる奥行き深き大海に/
  白波けたててはじける筋肉/
  たぎる汗 声の限りの狂熱に/
  風は割れ 歴史は剥れ/
  ああ 汚れなき「時」は/
  今 大海の舞い深く/
  (略)」 (『八重洋一郎詩集』所収の詩集『孛彗』(抄)から、「孛彗」。元詩集が入手できず、選集の『八重洋一郎詩集』を参照した)

 「孛彗」→ 「ハレー彗星」→ 「ハーレー」、という連想だろうか。ならば、琉球・沖縄の伝統的な行事の一つへの着目。「ハーリー」(あるいは、「ハーレー」と呼ぶ地域もある)とは、航海の安全や豊漁を祈願し、「爬龍船(はりゅうせん。舳先に龍の頭、艫に龍尾)が描かれている」や「サバニ」(小型船)と呼ばれる伝統的な漁船に乗り込み、多数で「エーク」という櫂でスピードを競う競漕行事。「孛彗」は、琉球・沖縄の習俗に改めて注目した詩人が、新境地を開いた。国民体育大会の応援歌のような詩で、肉体、健康、明るさ、若さなどというイメージが私の中で喚起される。

 同じ詩集『孛彗』から、「空」。

 「三年たち 洗骨のため棺をひらくとき人々は怖れたもの/
  だ 肉が腐れないまま骨に付着し笑っているのではない/
  かと 肉の部分がすっかり消えさり骨のみが白々として/
  いるのを見るとサリトーンといってホッとした/
  (略)」 (『八重洋一郎詩集』所収の詩集『孛彗』(抄)から、「空」)

 詩人は、海の祭り、葬礼と琉球・沖縄の習俗行事に改めて注目し出し、詩篇として記録した。

 八重洋一郎は、また、7年後の2001年、『夕方村』で、第3回小野十三郎賞を受賞した。『夕方村』も、元詩集が入手できず、選集の『八重洋一郎詩集』を参照したが、こちらは、選集に『夕方村』掲載の全ての詩篇が載っている、いわゆる「完本」ということだった。詩集『夕方村』には、「夕方村」というタイトルの下に、「カラス」など5つの連作詩篇、「黒耳」など5つの連作詩篇、短編の「夕方村」、「月(1)」など3つの連作詩篇がある。つまり、4つの「夕方村」が、描写されている。ここでは、まず、短編の「夕方村」を取り上げよう。

 「ホラ 東の池にお父さんが寝ている/
  あおむけになって/
  羽織ハカマで 西枕して/
  もう二週間もそのまま/
  見えないの/
  手を振って あんなにおかしそうに/
  笑いながら/

  サメに食われたんだ 釣りの/
  名人だったからね/
  一度は浮きあがったんだ でもね/
  ズルズルと足から/
  スーときて一匹/
  スーときて二匹/
  むらがってきたよ/
  深々と心ぞうの奥まで食われた/
  ムラサキイロニミズハサキ/
  (略)」 (『八重洋一郎詩集』所収の詩集『夕方村』から、短編詩「夕方村」)

 もう一つの「夕方村」は、連作詩篇から、いくつかを紹介しよう。「カラス」。

 「狙い定めて撃ったのに落ちてきたのは/
  子供だった 今も日毎の/
  酒杯(さかずき)に/
  血のようにうかぶゆうやけ/」
    (『八重洋一郎詩集』所収の詩集『夕方村』から、連作詩篇「夕方村」のうち、「カラス」)

 2005年刊行の詩集『しらはえ』から、「しらはえ」を引用する。

 「後(シーヌ)の郷(フン)/
  わが町の墓には庭がある 年に一、二度係累が集まり/
  ゴザ蓆(むしろ)をひろげささやかな供物をささげるための そして昔は/
  旗をたて その庭で骨が洗われた/
  (略)」 (八重洋一郎詩集『しらはえ』から、「しらはえ」)

 「しらはえ」とは、白南風のこと。梅雨明け頃から吹く南風。2000年代に入ると、琉球・沖縄の習俗行事をさらに詩的にアウフヘーベンする感じで、詩人は、詩篇を地に根付いたブラックユーモアで包み始めたことが、判るだろう。

◆ 数学と詩人

 八重洋一郎のユニークさには、実は、「数学好き」という要素が欠かせない。八重には、詩論集『詩学・解析ノート わがユリイカ』というのがある。「ユリイカ」とは、古代ギリシャの数学者アルキメデスが、数学の定理を発見した時、喜びの叫びとして「エウレカ」と2回声をあげ、裸のまま、外に飛び出したことから、「ユリイカ」は、「発見、発明」などの意味を表す言葉になった、という。

 アルキメデスが発見したのは、次のようなことである。風呂に入った時、水位が上がることに彼は気がついた。「水位が上がった分の体積は、湯の中に入った彼の部分(複雑な人体の形状)の体積に等しい」のではないか。ならば、詩人は、何を発見したのか。

 例えば、「解析ノート(7) ——詩とは何か、詩人とは何か——」では、次のように書く。ちょっと長いが、引用してみよう。

 「現代数学のトポロジィー(位相幾何学)的知見によれば二次元球面は三次元空間の中で裏返すことができる。(スメールの学位論文)。すなわち二次元平面に描かれた円は円の内部と外部を厳格に区別できるが、三次元空間におかれた球面が球面の内部と外部を区別することはなかなか微妙である。したがって二次元平面における論理と三次元空間における論理はおのずからその構造が違ってくるということになる。次元があがると自由度は増すのだから四次元球面、五次元球面、まして況(いわ)んや無限多次元球面は無限多次元空間の中で完全に裏返し可能となり、内部と外部は完全互換となる。外界は詩人の最も奥深い内面へと裏返すことができるのだ。そして詩人の内奥は広大無辺の宇宙、いやこれまで私が言及してきた宇宙の更に外側の雑音と化す。詩人の内部には外部が充満しているのだ。啓示、すなわち外界は棘となって詩人を刺したが、今や詩人はその内部から唸りをあげて天空を切り裂く尖った「虚」の鏑矢(かぶらや)を次々と外界へ放射する」
    (八重洋一郎詩論集『詩学・解析ノート わがユリイカ』から、「解析ノート(7) ——詩とは何か、詩人とは何か——」)

 実際に、八重には、『トポロジィー』という詩集がある。2007年刊行。これも、元詩集が入手できず、選集の『八重洋一郎詩集』所収の『トポロジィー』(完本)を参照した。詩篇群のタイトルは、「0」から「101」を経て「∞」となる。このうち、「101」と「∞」を引用してみよう。

 「みみ さざなみ/
  あおいうみ しずかなまひる/
  しろい/
  かいがら/」
    (『八重洋一郎詩集』所収の詩集『トポロジィー』から、「101」)

 「くまぐまにかくされてはりめぐらされた/
  やわらかい無礙融通の/
  神経ネット・ワーク/
  思いがけない位置を結んで/
  一点を/
  全点が吸収する/
  釘打たれ/
  大空の任意の一点に吊りさげられ/
  激しい矛盾命題を証明する/
  受苦のトポロジィー/
  おだやかな深い速度でその全時空をひきうける/
  かくされた けれど/
  ありありと見えているきよらかなもう一つの/
  トポロジィー 青の/
  永遠/」
    (『八重洋一郎詩集』所収の詩集『トポロジィー』から、「∞」)

 八重の詩を読みながら、私は、ランボーの詩篇を思い出す。太陽に溶け込んだ海で見つかった「永遠」に想いを馳せる。

◆ 美(ちゅ)ら海に囲まれた石垣島

 八重洋一郎は、沖縄・石垣島で生まれ、大学入学でふるさとを離れ、後に、石垣島に戻ってきた。そして、その後は、石垣島に在住している。石垣島の自然を歌った詩篇も多い。例えば、2014年刊行の詩集『木洩陽日蝕』。

 「海の上に海があり重ねられたその海は/
  ひときわ青く そして静かに/
  右へ 左へ 少しずつ移動する/
  (略)」 (八重洋一郎詩集『木洩陽日蝕』から、「息吹き」)

 「島は蛇にかこまれている/
  脱皮した/
  脱肉した/
  脱魂した/
  白骨だけとなって幾重にも幾重にもはしりくねっている/
  しら波/
  (略)」 (八重洋一郎詩集『白い声』から、「暗礁(リーフ)」)

 八重山諸島の中核となる石垣島は、沖縄本島とは違う側面も持っているようだ。美の海に囲まれた石垣島は、実は、蛇にも囲まれている。梅雨の季節、沖縄など南島には、3つの南風(はえ)が吹く。梅雨入りの頃に黒い雨雲の下を吹く「黒南風(くろはえ)」。梅雨の最盛期に吹く強い南風は、「荒南風(あらはえ)」。そして、すでに触れたように、梅雨明け頃から吹く「白南風(しらはえ、あるいは、しろはえ)」。南風でさえ、変わるのに、石垣島の歴史は、どう変わってきたのか。

 詩集『日毒』には、「日毒」という表現のほかに「琉毒」という言葉も出てくる。「紙綴(かみつづれ)」という詩篇は、被支配者のもっと痛切な歴史の叫びを伝えている。琉球国と八重山諸島の関係を撃ってくる。

 「わが高祖父は明治初頭 この南の小さな島の書記 文書保管係のような役を務めていた模様 当時のメモが一枚だけ残っている」という。その文書の中に、「『日毒』が今やまた新たな姿となって我々に浸み込んでくる怖れがある」という意味の表現がある、という。さらに、「粗末な紙の綴り」には、次のようなことが書かれていた、という。八重山諸島から、琉球国、そして明治政府の日本を見ている。「書き手は誰であるか全く想像がつかない」と詩人は、書く。詩人が読んだ文書は、「呟きのようなかすれた崩し字」であり、読みにくい。以下は、詩人が読み解いた「その大意である」という。

 「琉球王朝は滅びた。王府と言っても四百年前 前王尚徳から反乱に/
  よって王権を簒奪したにすぎず 前王の世子妻女まで悉(ことごと)く殺して/
  いる 更にそれ以前の王統と言えども武によって他を圧したにすぎ/
  ず その花飾りとして唐の国の冊封を受け威を張ったにすぎない /
  力というものは須(すべから)く不公平なもので使用人から身を起し成りあが/
  り 主家への裏切り謀略によって王となった者でも その出身地伊/
  是名 伊平屋島は無税 我が島は酷(むご)い人頭税を課された 従って島/
  人は王府滅亡に依り『琉毒』から脱れられるとも思ったが 姿を変/
  えたもっと悪性の鴆毒(ちんどく)が流れ込んできただけであった/
  今 大和は清国に勝ち 髭を捻り太刀を叩き意気揚々と武張ってい/
  るが あと七十年もすればどうなるか分らない 今 大和人が悉(ことごと)/
  く恐れ敬っている あの道教漢籍から無理矢理抉(えぐ)り出し 潤色模造/
  いた称号もどうなるか分からない…/」
    (八重洋一郎詩集『日毒』から、「紙綴」)

 唐の国も清国も、それぞれの時代の、当時の中国の国名。中国と日本に挟まれた琉球は、その間で、バランスをとりながら独立国を維持してきた。明治維新まで、こういう処遇をされてきた石垣島は、1945年4月の米軍沖縄上陸の後、連日、米軍の空襲を受けるようになった。米軍の石垣島上陸も噂されたという。

 1945年4月15日、いわゆる「石垣島事件」が起こる。石垣島の宮良飛行場を空襲した米軍機が日本軍に撃墜され、石垣島の海岸の浅瀬に乗員たちがパラシュートで不時着したところ日本海軍に捕獲された。海軍は、3人の米兵の取り調べと尋問をした上で、その日のうちに処刑(殺害)してしまった。戦後、日本軍関係者がGHQに密告したことで、事件は発覚した。

 1948年3月の判決で、41人が死刑を言い渡された。最終的には、絞首刑は7人となり、巣鴨プリズンで、1950年4月、死刑が執行された。2ヶ月後、朝鮮戦争が勃発したため、巣鴨プリズンでは、最後の死刑執行となった。

 石垣島に現在のところ米軍基地はないが、米軍機が石垣空港に緊急着陸することはある。米軍普天間基地(飛行場)所属の米海兵隊垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ2機が相次いで着陸した。オスプレイが石垣島周辺で訓練中に、機体の調子が悪くなり、緊急着陸したという。

 「ここ沖縄ではオスプレイの異様な姿と轟音に六十八年前の戦争地獄の記憶が抉り出され 年老いた人々に晩発性PTSD発症が増えている」
    (八重洋一郎詩集『日毒』から、「闇」注より)

◆ 石垣島の毒:「琉毒」→ 「日毒」→ 「米毒」(本質は「日毒」)

 詩人・八重洋一郎は、詩篇「敗戦七十年談話 ——沖縄から——」と題して、次のように書く。

 「めちゃくちゃですね 一番ひどく痛めつけられたところが もう一/
  度さらに痛めつけられ それが未来永劫ずっと続く というので/
  すから 腸が煮えくり返るようです 本土防衛の捨て石とされ /
  街々は壊滅 山野は変容 住民はその三分一が落命/
  (略)」 (八重洋一郎詩集『日毒』から、「敗戦七十年談話 ——沖縄から——」)

 沖縄本島の形を地図上で見ると、日本「本土」に銃口を向けているように見えはしないか。世(ゆー)は移れど、沖縄に流される毒は、垂れ流され続け、途絶えることがなかった。毒の発生源は、昔から判っているのに、毒は、大元で止めることなく、今も流れ続けている。

★追記:この「南島紀行(2)」で取り上げた作家・大城貞俊の最新連作短編集「六月二十三日 アイエナー沖縄」が刊行されたので、お知らせしたい。短編集には、表題作「六月二十三日 アイエナー沖縄」のほかに、「嘉数高台公園」「ツツジ」の、3作品が所収されている。「アイエナー」というのは、沖縄の表現で「ああ」という意味の感嘆、ため息を意味するようだ。1945年から2015年まで10年ごとの6月23日を、それぞれ別の主人公の視点で描いている。
 「嘉数高台公園」は、沖縄戦の激戦地であり、現在は、普天間基地近くの宜野湾市の住宅地に残る高台公園を舞台にしている。「ツツジ」は、著者がライフワークにしているふるさと大宜味村の戦争犠牲者を取り上げた聞き書き「奪われた物語」をフィクションにしたものである。
 刊行元は、インパクト出版会。03−3818−7576。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)

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