【コラム】
大原雄の『流儀』

南島紀行(2) ~大城貞俊・篇~

大原 雄


【「慰霊の日」の新聞記事から】
 2018年6月23日。1945年の沖縄戦で亡くなった人たちを悼む「慰霊の日」。沖縄・糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で追悼式があった。沖縄県の翁長知事は平和宣言の中で、次のように述べた。
 「昨今、東アジアをめぐる安全保障環境は、大きく変化しており、先日の、米朝首脳会談においても、朝鮮半島の非核化への取り組みや平和体制の構築について共同声明が発表されるなど緊張緩和に向けた動きが始まっています。平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古(へのこ)への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりでなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません」。

 いちいちごもっともな内容であるが、ごもっともで、明解な提言に対する安倍首相の挨拶の要旨を書き写しておこう。
「沖縄の方々には、永きにわたり、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいております。この現状は、何としても変えていかなければなりません。『できることはすべて行う』。引き続き、この方針の下、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしてまいります」という言い方で、20年以上も前の認識に基づく政治判断を頑なに変えず、辺野古新基地建設を日々強行し続けているのが、実態だろう。
 虚偽とも言える日本語の表現を蹂躙する言葉がここにはある。これに対して、辺野古の現地では、反対派の人々が連日抗議行動を続けているし、沖縄の翁長知事は埋め立て承認の撤回に向けた作業を進めている。

 癌との闘病を続けていた翁長知事が、8月8日、急逝した。67歳。逝去を悼み、心から哀悼の意を表したい。沖縄の豊かな自然を守り、そこに生きる生物を守り、人々の生活を守る。辺野古新基地建設反対の先頭に立ち続け、知事は最前線で倒れた。その志を継がなければならない。沖縄の県知事選挙は、11月の予定だったが、前倒しで、9月中に実施される見通し(8月半ば現在)。

★ 大城貞俊さんへ

 きちんと表現することを最優先する文学活動に携わるものとして、沖縄の慰霊の日(6月23日)の安倍首相挨拶の文言は、言動不一致の極みであり、私には、いちいちが、醜いものに見えてきます。沖縄県民の気持ちを逆なでしています。そういう想像力さえ欠けた文言ですね。追悼式を伝えるテレビの画面では、この挨拶の途中で会場の席から退場した人の姿が見えて、なぜか、ホッとしたのを思い出します。

 さて、5月20日、沖縄・宜野湾市で開かれた日本ペンクラブ「平和の日」の集いのシンポジウム「人 生きゆく島 沖縄と文学」では、長い準備期間を含めて日本ペンクラブのためにご尽力いただきありがとうございました。集い当日は、バランスのとれた司会進行ぶりで沖縄文学が浮き彫りにされ、私もいろいろ知らなかったことが判り、興味深く拝聴しました。

 縁あって、大兄の小説『G米軍野戦病院跡辺り』を後日早速拝読しました。今回の「南島紀行(2)」は、あなたの文学作品を本土の人たちに紹介する形で、苦難多き南島・沖縄の一断面を見てみようと思います。

 私は1971年1月、復帰前年の沖縄を訪れたことがあります。米軍占領下の社会、沖縄の表現で「アメリカ世(ゆー)」と呼ばれていましたね。「高等弁務官」というアメリカの陸軍中将が歴代、権力のトップの地位につき、行政だけでなく、司法も牛耳っていたことを、沖縄滞在のわずかの期間ながら体験しました。その時の友人が、今回も那覇で出迎えてくれました。

 2018年5月18日、那覇空港に降り立った私は、知人の車に乗せてもらい、まず、普天間基地(行政は、「基地」ではなく、「飛行場」と表現するのですね)の全景が見える場所に連れて行ってもらいました。那覇の郊外である宜野湾市の嘉数(かかず)高台公園の長い石段を登り、さらにその上にある展望台から普天間基地の全景を視察しました。嘉数高台は、沖縄戦当時は、「第七〇高地(こうち)」という激戦地(1945年4月)であったと聞きました。
 展望台の近く、少し下ったところに日本軍が戦闘に使用した分厚い鉄筋コンクリート製の「トーチカ」(防御陣地)が米軍の攻撃を受けて半壊した姿のままで、今も残されています。1945年4月以降、米軍が上陸した沖縄戦は、米軍の砲撃で「鉄の暴風」が襲いましたね。暴風の跡が、このトーチカからもうかがえます。

 今も、日本政府・安倍政権は、冒頭に描写したように、沖縄に鉄の暴風を吹きつけ続けています。大兄の『G米軍野戦病院跡辺り』に入る前に、大兄の『奪われた物語 大兼久の戦争犠牲者たち』という作品に触れたいと思います。というのは、この作品に「嘉数高台公園」という文章が収められているからです。少し長いけれど、引用したい、と思います。

 「私は、現在、宜野湾市の嘉数に住んでいる。背後には嘉数高台公園があり、普天間飛行場が一望できる。展望台からの人声も聞こえてくる。訪れる人々の姿も間近に見える。展望台から普天間飛行場へ直線を引くと、私の家はその真下に位置する。発着する航空機の進路にもなっている。嘉数高台公園は周知のとおり、沖縄戦での激戦地の一つだ。戦時中は第七〇高地と命名された。嘉数高台の争奪をめぐっての攻防は、「嘉数の戦い」と称され、一九四五年四月八日から一六日間に渡って行われた。この戦いは沖縄戦最大級の戦闘の一つとして知られるほどの激戦であった。日本軍は斜面に生い茂る木々の中に陣地を構築して迫り来る米軍に頑強に抵抗した。嘉数高台での戦いは凄惨を極め、米軍からは『死の罠』『忌わしい丘』などと呼ばれた」という。

 20日の夜、那覇のホテルで大兄と言葉をかわす前、18日の夕方、私は嘉数高台公園の展望台からまっすぐ普天間基地に視線を巡らし、密集した住宅地の中に、強引にぽっかりと構築された軍機の発着場という空間を見ていたのですね。大兄の自宅がその地域にあるとも知らずに。

 私は、1947年生まれ、大兄も同年生まれ。私たちは同時代を生きてきたのですね。でも、小説を読めば、直面することになるでしょうけれど、大兄と私の「時空間」のうち、時間はほぼ共有するとしても、空間は、異空間でしょうね。作品の中から共通する時間と相違する空間をきちんと読み取ってみたいと思います。

★ 小説集『G米軍野戦病院跡辺り』

 大城貞俊『G米軍野戦病院跡辺り』という連作小説集のタイトルを見た時、タイトルの一部にある「G」が、何か、よく判らなかった。これは何かという思いを抱きながら、冒頭の小説「G米軍野戦病院跡辺り」を読み進んでいった。やがて、「G」が、「G村(そん)」という地名のことだと判った。「G村」以外の地名は、皆、実名なのに、「G村」だけは、最後まで「G村」だった。なぜなのか。その「G村」は、周辺の描写を読み取った私の推理では、宜野座村(ぎのざそん)のことではないかと思った。その後、私信で著者にその旨を尋ねたところ、その通りだという回答をいただいた。
 しかし、厳密に考えると、宜野座は、1946年まで、金武村宜野座だったのではないか。『奪われた物語』に出てくる著者の「我が故郷・大宜味村(おおぎみそん)大兼久(おおかねく)」が、沖縄本島北部の村なら、宜野座村は、中部の村である。大宜味村は、本島北部とはいうものの、本島中部の中核的な都市である名護市と隣接している。「G米軍野戦病院」とは、著者の故郷の近隣に仮設された米軍の野戦病院のことであり、この物語は、象徴的な「G」野戦病院をめぐる話であることが判る。

 「G米軍野戦病院跡辺り」という作品は、戦後38年経ったG村の米軍野戦病院の跡地にある戦時中の遺体埋葬場。主人公の女性は、1945年5月、弟と一緒に、ここに母と妹の遺体を埋葬した、という。当時、主人公は16歳、弟は10歳、死んだ妹は13歳、母親は、43歳だった。父親と兄は、出征したまま、還らぬ人となっていた。

 1983年、小説の中の村役場の職員が声を張り上げる。「遺体の埋葬地はこの一帯に間違いありません。ここには、沖縄戦当時、米軍の野戦病院がありました」。38年ぶりの遺体発掘作業が始まるのだ。4~500人の遺体があるという。米兵と日本兵の戦場を逃げ回ったという主人公や弟の回想を含めて遺体発掘・遺骨収集作業の様子が描かれる。

★ 「K共同墓地死亡者名簿」

 連作小説集『G米軍野戦病院跡辺り』に所収されているもう一つの作品「K共同墓地死亡者名簿」を取り上げてみよう。既に述べたように、宜野座村は、1946年まで金武村宜野座だった。小説では、こう記されている。
 「戦争中の私たちのG村には、米軍の野戦病院があり、捕虜収容所があった。そこでは、次々と死者が出た。その死者を埋葬するための名簿が、父が作成した『K共同墓地死亡者名簿』である。当時、私は十二歳だった。四人姉兄の一番末っ子で、次姉と私との間には、兄が一人いたが、戦争直前に病死していた。十五歳だった」。
 「戦争直前」というのは、別の箇所の記述では、「米軍が沖縄に上陸するその前の年」ということであった。

 「K共同墓地死亡者名簿」の別の箇所には、「遺体は、隣接する野戦病院から、次々と運び込まれた」とも書いている。つまり、「K共同墓地」は、金武村宜野座の米軍野戦病院の隣りにあった共同墓地のことである。Kは金武だろうが、ということなら、「K」も「G」も、金武村宜野座ということになる。ならば、「K」も「G」も、交換可能な単なる記号なのかもしれない。

 「父は、K共同墓地に埋葬する死亡者の名簿を、どのような経緯があったのかは知らないが、最初から作成することを思いついていたようだ」と当時12歳の少女は、回想する。このように、1945年4月からの沖縄戦で、次々に殺された人々の遺体は、米軍の野戦病院、捕虜収容所から隣の共同墓地に埋葬された。その死亡者名簿の煩雑な記録作業は、ある家族の善意のリレーで、父から、母、娘へと戦後の長い歳月の間も、引き継がれていた、というのである。まるで、沖縄の人々の心根の真髄にグサリと通じるような作品になっているように思う。

 その上で、「K」も「G」も、私が推測したように、交換可能な単なる記号ならば、「G米軍野戦病院跡辺り」というタイトルは活かしながら、「K共同墓地死亡者名簿」という、なんともストレートな小説のタイトルの方を変えてみたいような誘惑にかられる。私なら、小説のテーマを象徴する小道具から「赤瓦の墓碑」とでも、してみたい。というのは、「あんたのお父がね……、名前を書いた赤瓦を、私の夫の胸に抱かせてくれてね、丁寧に葬ってくれたんだよ……」という箇所が出てくるからである。地面に建てられた墓標は、長年の風雨にさらされて、「ほとんど朽ちかけて」、文字も読めなくなってしまったが、遺骨の胸に抱かれた赤瓦の墓碑は、「黒々とした文字がそのまま刻まれたままで表れて」いた、という。

★ 「サナカ・カサナ・サカナ」

 「サナカ・カサナ・サカナ」は、タイトルの意味が判りにくいかもしれない。一人娘・紀和子が「敵国」のアメリカ兵と結婚することが、どうしても許せない父親・徹雄の違和感がテーマ。沖縄の人たちには、アメリカ兵は、自分たちの郷土を蹂躙した「敵国」というイメージが拭えないのだろう、ということは、私のようなよそ者(ナイチャー)にも理解できる。大事な一人娘から「アメリカー」(アメリカ人)との付き合いの告知、結婚への許可願いから始まって、父親は、娘の行動に反対し続ける。しかし、若いふたりの仲は、進行する。同棲、妊娠など、妻の邦子から断片的にその後の娘を取り巻く状況を聞くたびに、父親は、激怒するだけ。「駄目なものは、駄目だ」。理屈にならないが、一人娘のアメリカー、それも米兵との結婚を許す気持ちにならないから、父親には怒りが湧いてくる。そこの部分を作者の大城は次のように書く。

 「徹雄が結婚に反対する大半の理由は、戦争のせいだ。邦子にうまく説明出来なかったが、今の徹雄の生活は、戦争と関係ないことだとは思えない。戦争で父親が奪われなかったら、今の日常は変わったものになっていたであろう。母のマツも、あれほどの苦労をせずに済んだはずだ。/
 あるいは、戦争で死んだ父や弟や叔父たちの姿は、徹雄が勝手に作り上げた歪んだ像かもしれない。でも、日常の生活は、徹雄の記憶と関係ないことだとは思えない。過去を忘れてはいけないのだ。/
 徹雄は、紀和子とアメリカ兵との結婚を許すことは、なんだか過去を清算することに繫がるように思われるのだ。やはり、それは出来ないことだ……」。(引用者注——「/」は、改行)

 その上で、徹雄は、一緒に海釣りに出た末の弟・徹三に対して声を張り上げる。

 「『戦争だよ』/
 『えーっ?』/
 徹雄は、もう一度徹三を見て、思い切り大きな声で言った。/
 『戦争のせいだよ。俺が紀和子の結婚に反対するのは、戦争のせいだ。記憶を、奪われたくないのだ』」。 

 新聞に載った古い日本人家族の写真。この写真を保管していた、かつての沖縄戦従軍の元兵士のアメリカ人の来日をきっかけにして、頑固な父の娘への気持ちが融解する。日本軍から捨てられ、洞窟に置き去りにされながら米軍の捕虜になることを嫌って戦死した日本兵が持っていた写真を、このアメリカ人は遺族に届けに来たのだ。抵抗した日本兵を殺せと命じたのは私だという懺悔を遺族に伝えるために。

 元米兵の好意に感謝した徹雄は、こう思った。「父を殺せと命令した相手に『有り難う』というのも変だが、その言葉に偽りはなかった」。

 仏前に祈りたいという、その元米兵は、魚をたくさんごちそうするという徹雄に「オー、カサナ大好き。サシミ、大好き」。

 この場面は、この連作小説集全体のテーマ(沖縄の戦争体験の重層性)を浮き彫りにしている、と思う。

 ところで、「サナカ・カサナ・サカナ」というこの作品の意味は、判るだろうか。
 「カサナ」は、この元米兵の言う表現。では、「サナカ」は? 「サナカ」とは、作品の中での説明によると、こういうことだ。幼かった頃の娘は、「『魚』のことをうまく発音出来ずに、『サナカ』と言ってみんなに笑われていた」。

 「サナカ」は、娘、「カサナ」は、元米兵。いずれも、こだわりのあったアメリカーとの関係性を象徴する表記。だから、小説のタイトルは、「サナカ・カサナ・サカナ」になったのだろうが、それでも、やはり、読者に作品を読ませる瞬発力が乏しい。このタイトルでは、テーマが判りにくいのではないか、と懸念する。余計なお世話だが、私なら、「アメリカーとの結婚」とでも、つけてみたい気がする。

★ 大城貞俊作品の特性

 こうして初めて読む機会に恵まれた大城貞俊作品。今回読んだのは、『G米軍野戦病院跡辺り』と『奪われた物語 大兼久の戦争犠牲者たち』のふたつだが、紹介してきたように、『G米軍野戦病院跡辺り』は、大城貞俊の出身地、大宜味村(おおぎみそん)の隣の宜野座村(ぎのざそん)がモデルであるG村を軸にした住民、日本軍、米軍のトライアングル(三角関係)を描く連作小説集。沖縄の住民は、日本軍と米軍という二つの敵と戦ったのだ。さらに、G村をGという表記にしたことには、そういう沖縄戦の特殊性を示す象徴性を込めている、と私には思われる。

 『奪われた物語 大兼久(おおかねく)の戦争犠牲者たち』は、大宜味村大兼久という、大城貞俊の出身地区とその周辺の人々の戦争体験の聞き書きであり、「聞き書き」(ノンフィクション)のレベルを超えて、「物語」(フィクション。しかし、その物語は、奪われている)へと飛躍しそうな、まさに跳躍段階の個人的な史実を収集・分解して見せてくれているユニークな体験記のように思われる。

 このように『奪われた物語 大兼久の戦争犠牲者たち』は、沖縄本島北部・中部地区在住、あるいは、出身の人たちの戦争体験の聞き書き・収集と伝承を探ったものだ。この本の特徴は、その対象が時空間とも限定されていることだろう。それは、以下のようなことだと思う。

 空間:1)故郷とその近隣。2)身内(家族、親類、近所、知人など)。
 時間:1945年の前後。つまり、「戦(いくさ)世(ゆー)」。

 大兼久という地域は、山が海岸まで迫り、海を生活の場とする「ウミンチュー」(漁業従事者)だけでは、生活ができなかった。戦時中には、本州の大阪などばかりでなく、パラオなどにも移民・出稼ぎに行かざるをえなかったようだ。移民の村といえば、信州の寒村から満州開拓団として移住(事実上侵略の片棒を担がされた)させられた人々の物語を連想する人もいるかもしれない。さらに、私も連想した。教育の信州。戦後、沖縄の教育界を担った人々も大兼久という地域は多いと聞いた。そういうことも含めて、この地区は、まさに、沖縄の信濃ではないか、と思った。

 『奪われた物語 大兼久の戦争犠牲者たち』は大宜味村の大兼久地区の戦争体験を記録する、という作品。地域の奪われた物語が郷土愛、隣人愛に溢れる手法で掘り起こされ、次の世代へ伝承するために記録されて行く。「南島紀行(1)」でも触れたように、何よりも、まさに「井の中の蛙大海を知る」という取材手法である。自分の生まれ、育った在所の身内から大城貞俊は、インタビュー(聴く)を始める。身内だから、ということで、安心して相手も話してくれる。それを、大城は、聞き書きではなく、ひたすら傾聴する。「聞く」ではなく、「聴く」に徹している。途中で、口を挟まない。話を聴き、頷く。

 時に共に笑い、時に共に泣く。相手が目に涙をためていると、こうして「聴く」ことが悪いのかと反省する。悩む。確かに、身内だと相手も嫌なことでも話さなければいけないと忖度しがちだが、「涙を滲ませて、記憶を呼び起こして語ってくれる遺族の思いに、私の思いは、足元に及ばない」と、反省する。

★ 「古井戸」に蛙飛び込む水の音

 古い井戸。つまり、身内、地域という「井戸」、の「古い」歴史(1945年前後の苦しい体験)だから(もう、73年、いや、まだ、73年しか経っていない)、しゃべりたくないかもしれない。それなのに無理に口を開かせ、喋らせようとしているのかもしれない、という自省がある。蛙に化身した大城貞俊は、それでも、古井戸に飛び込んでしまった。井戸の中に水の音が広がる。水面の波紋も広がる。いずれも、私(あるいは、本土)の体験との「異空間」。読者が抱くはずの、この異空間こそ、本土による沖縄差別なのだろう。
 井の中の「奪われた物語」は、井の外にいるはずの私にも、波紋を、大きなうねりとしての波紋を伝えてくれた。大城貞俊作品は、井の外にも「水の音」を響かせた。やはり、この大城貞俊の作業の結果も、キチンと聴き、「後世に残したい」。

 この「南島紀行」シリーズでは、今回(18年5月)の沖縄の旅などで、私が接触した沖縄の作家、詩人を中心に紹介し、読者の皆さんにも沖縄の文学の一端を知ってもらおうと、数回(不定期掲載)に亘って、書いてみたいと思っている。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)

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