【コラム】風と土のカルテ(83)

医療支援で関わったミャンマーの今を憂う

色平 哲郎

 ミャンマー情勢の悪化に心を痛めている。ミャンマーの非暴力民主化運動の旗手で、ノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スー・チーさん率いる国民民主連盟(NLD)の民主的な政府が誕生して5年。総選挙でのNLD圧勝を追い風に2期目に入ろうとした今年2月、突然、何の前触れもなく、ミン・アウン・フライン総司令官が君臨する国軍がクーデターを強行。クーデター後、国軍の弾圧で3月26日までに328人が死亡している(3月27日時事通信)。スー・チーさんは拘束されたままだ。無抵抗の市民を虐殺する連中への怒りと悲しみで胸が張り裂けそうだ。

 私自身、ミャンマーとはいささか関わりを持ってきた。京都大学医学部の学生だったころ、スー・チーさんが京都に滞在していた。1985年10月1日から翌年の6月30日までの9カ月間、当時40歳だったスー・チーさんは京都大学東南アジア研究センターに客員研究員として留学していた。研究テーマはビルマ(ミャンマーの旧称)独立運動の歴史をたどること。スー・チーさんの実父は、「ビルマ建国の父」と呼ばれたアウン・サン将軍である。物心つく前に暗殺された父と縁の深かった日本で、旧軍関係者への聞き取りや、資料調査をしておられた。

 そのことを私たち京大生に教えてくれたのは、医学部の病理学教授だった故濱島義博先生だった。濱島先生は、1968年、医学部チームを率いて、鎖国中だったビルマの第2の都市マンダレーから南へ車で2時間ほどのポルパ山を訪ね、医療支援を開始した。驚いたことに4,000人の村人全員が「目を開けられない状態」だったという。極端な水不足で洗顔や手洗いができず、トラコーマの結膜炎が慢性化して瞼が癒着していたのだ。濱島先生は「少々の抗生物質では、どうにもならない。患者さんを治す前に、まず水道を引かなければならない」と痛感したそうだ。

 その後も京大医学部のビルマ支援は続き、病院や医学研究センターが建設される。しかし、何よりも軍事独裁という「大病」を治さない限り、ビルマの将来は暗かった。

●濱島先生が見たスー・チーさんの演説

 1988年、生活拠点の英国オックスフォードからビルマに帰国したスー・チーさんは、政治の激流の真っただ中に飛び込む。折しも「8888民主化運動」が燃え上がっており、戒厳令下のラングーン(旧ヤンゴン)では学生が大規模なデモを実施していた。8月26日、スー・チーさんは50万人が集まった大集会で演説を行う。彼女の登場を待ち受ける民衆の中に濱島先生もいた。

 「そのときの彼女の演説は、決して激しい口調ではなかった。興奮する大群衆をなだめるような優しい表現だった。『平和的手段で、すべての民族が仲良く力を合わせて、民主化を実現させよう』。説得するかのような彼女の姿に、私は非暴力主義を提唱したガンジーの姿をダブらせていた」と濱島先生は語っておられた。

 だが、国軍は民主化運動を弾圧し、多数の民衆を虐殺。クーデターを起こした。NLDの結党に加わったスー・チーさんは「国外退去」を求められたが、拒否。実に十数年に及ぶ自宅軟禁生活を強いられる。ビルマは1989年に英語呼称をミャンマーに改称した。

 ミャンマーの政治的混乱の根元には民族問題が横たわっている。全人口の68%がビルマ族で、シャン族、カレン族……と続き、実に135民族からなる。また、仏教徒主体のミャンマー政府はイスラム系少数民族のロヒンギャを「不法移民」とし、民族として認めていない。国軍はしばしば少数民族を攻撃し、「国家統一」を進めてきた。

 1991年にはロヒンギャを討ち、25万人の難民がバングラデシュへ逃げている。ちょうど医師国家資格を取ったばかりの私は、東京都内で2人のロヒンギャの若者から健康相談を受けた。彼らの故郷は国軍に蹂躙されており、帰るに帰れない。若者2人の心理状態は半ば恐慌を来していた。支援者たちとつながって、どうにか生活を維持していた。

●人々には活力がみなぎっていたが、、、

 2000年代に入り、経済のグローバル化が進んでミャンマーに外国資本が入るにつれて民主化熱は一段と高まる。2007年、政府がガソリンなどの燃料価格を引き上げたのを機に反政府運動が再燃した。学生や反政府活動家に加え、数千人の僧侶も加わった。軍事政権は市民デモ隊に発砲し、日本人ジャーナリストも被弾して死亡した。非暴力民主化運動は、何度も銃弾によって粉砕され、ミャンマーの市民はその都度、立ち上がる。

 そして、2016年、ようやく総選挙でのNLDの大勝利を経て民主政府が誕生し、ミャンマーの人びとは明日への活路を見いだした。翌17年、私は国際協力機構(JICA)のプロジェクトで、宝石の産出で有名な東部のシャン高原を訪問した。政府系病院が住民との関係を強めるために「病院祭」を検討していた。私の勤務する佐久総合病院は長年にわたって病院祭を開催しており、そのノウハウをレクチャーするためだった。先方の国家公務員のドクターは、落ち着いた物腰で色々尋ねてきた。人々は解放感に浸り、活力がみなぎっていた。

 あのミャンマーが、、、失われてしまった。

 国軍がクーデターに踏み切った背景はあれこれ語られているが、息のかかったクローニー企業(国家系企業、財閥)を通して確保した利権が民主化によって脅かされていることが最大の理由ではないかと私は考えている。今後、中国、米国、ロシアなどがどう動くかで、ミン・アウン・フライン総司令官の出方も変わってくるだろう。国軍とパイプがあると自負している日本政府は状況をしっかり把握して、事態収拾に向けて行動してほしいものだ。

 (長野県佐久総合病院医師・『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2021年3月30日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202103/569677.html
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