【自由へのひろば】
労農派、講座派の末裔たち (1)
◆二葉亭四迷と樋口一葉の新評価
平山昇さんがすてきな本『土着社会主義の水脈を求めて−労農派と宇野弘蔵−』(社会評論社)を大内秀明先生と共著で書き下ろされた。年末に「ソウル宣言の会」でその見出し草稿を見せられてワクワクしていたが、1月25日、東京・連合会館でその分厚い本の出版記念講演会が「蘇るW・モリス、宮澤賢治そして共同体社会主義へ」とロマンゆたかなタイトルのもとに開かれた。そこには、150名をこす人が集まり、宇野弘蔵を敬愛すると公言する佐藤優元外交官もかけつけ、懇親会では長老曽我裕次さんが乾杯の音頭をとった。労農派という言葉が飛び出したのも実に久しいことだ。
昔話になるが、労農派とは戦前だけでなく、戦後は社会党にとっては左派を意味し、曽我さんは社研と社青同解放派を率い、『進歩と改革』は山川均・大内兵衛の社会主義協会の流れにある。その系図的な常識を平山氏はとび越えて明治以来の運動者たちの立ち位置を語る着想が魅力的だ。
平山さんとは1990年前後に共同社会研究会(主宰・清水慎三・樋口篤三・石見尚)で一緒した。平山さんのいた下町のたつみ生協(現在はパルシステム)と地域社会での新しい労働を議論しあい、私は生活クラブに韓国からの生協研修生を迎えた頃だった。
今回の平山さんの「労農派とその周辺」は明治の草創期に、自由民権運動を背景に登場してくる、それも各地の藩の没落リストラ家族から東京の下町に出て貧困と向き合った青春群像から土着社会主義が生まれたとして、輸入社会主義・共産主義と一線を画して語られるのが痛快だ。
二葉亭四迷と樋口一葉から始まり、ウイリアム・モリスと宮澤賢治に、幸徳秋水と夏目漱石、堺利彦、山川均、石川三四郎へと光が当てられていく。その時代の文化と政治のからみあった青春のみずみずしさが昨日のことのようにうかびあがる。今では分野で棲み分けられ出会うこともない人たちが、下町で平山も育った地域で暮らし議論する横通しの情景活写がすばらしい。
プロローグは「二葉亭四迷の社会主義」。四迷を私たちは『浮雲』で言文一致の文章で近代文学を切り拓いた人としてしか知らないが、平山は、自由民権運動の加波山事件、大阪事件の最中に「社会主義という言葉を自らに引き付けて自覚した人」として掘り出す。『浮雲』以前にツルゲーネフの『父と子』が『虚無党刑気』の表題で未発行にいたるのは木下尚江から背景は思想問題だと引き出し、内田魯庵からも「純粋の革命家」の言葉をひろっている。堺利彦は「日本の社会主義運動は、中江兆民あたりの系統を引いた自由党左派の間から発生した」(『日本社会主義小史』)と書いたそうだが、平山はそれをヒントにして調べこんだのかもしれない。
明治20年代前半の東京の生業ルポを描いた『最暗黒の東京』の松原岩五郎のことや『日本の下層社会』を記したが、運動史では消えているフーテンの人横山源之助が四迷を仰いで訪ね歩く。
その横山の住むところの眼と鼻の先に樋口一葉がいる。一葉は17歳で戸主、借家で裁縫と洗い張りで生計を立てようとするが「家のうちに金といふもの一銭もなし」「窮甚し」の状況。それでも深く下層社会に共感し、荒物・駄菓子屋を開こうと吉原遊郭に近い竜泉寺町に引っ越す。「貧民救済之事につきてはなしあり」を『塵中日記』の中にひらう平山は、相場師久佐賀義孝から一千円を引き出そうとして「妾になれ」と迫られそれを拒否する姿も照らす。一葉研究家の和田芳恵は一葉が久佐賀に「頼んだ事業は、下層社会を対象にした実際運動」と推測している。「唯おのれのよしとみて進む処にすすまんのみ」と『たけくらべ』『にごりえ』で一転、評判をとる。一葉は「死後に作品集が出る時は横山か緑雨のいずれかにその編簒にあたってほしい」(註1)と託し、24歳の若さで肺結核で急死する。斎藤緑雨は堺利彦、幸徳秋水の『平民新聞』につらなる人物。
日本に海外から社会主義が本格的に紹介される以前に、リストラの貧窮にあう民衆に心寄せる土着の思想が四迷−横山−一葉−緑雨に胚胎し、自由民権から平民社−労農派に至る生活に密着した土着社会主義を引き出した。平山は、自らも50歳を過ぎて失業、それをリーマンショック後の若者の不安定就労に思いを寄せてこの本を書いている。
平山は「明治三十年代に日本の社会運動が分裂していく背景は、外国から持ち込まれた知識によるモダニズム型社会主義と、日本の運動に根差した土着型社会主義の分化にある」として、幸徳秋水が田中正造の足尾鉱毒事件の直訴状を書き、堺利彦が万朝報から平民新聞、さらに大逆事件の後「ペンを持ってパンを求めることを明言」した売文社をはじめるそのリアリティある現実感覚に共鳴する。堺の「寄り合い=小社会としてのコミュニティ」の生き方、多様な働き方の生業創りの「屯田策」に今の格差・貧困社会にも必要な「脱労働力商品化としてのコミュニティ、アソシエーションの形成」のヒントがあるとして共同体社会主義を展望する。
堺利彦はモリスの『理想郷』の共同体社会主義を山川均とでマルクス・エンゲルスではなくマルクス・モリスの流れで紹介、1921年には社会主義同盟を発足させるが解散命令にあい、共産党を非合法で創立、委員長に堺利彦がなる。メンバーは、堺、山川、荒畑寒村、野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親。ところがコミンテルンの幹部となった片山潜は堺の委員長就任に反対・解党。関東大震災のなか山川は「方向転換論」で共同戦線党論を展開する。共産党は1926年、山形・五色温泉で再建する。
夏目漱石がその幸徳や堺と絡み合う展開が面白い。このくだりは漱石がロンドンでモリスの本を収集するとして描かれるところだが、私には、社会主義協会で「たとえ別党コースとよばれても」と向坂逸郎をして再建『社会主義』に走らせた水原輝雄さんが、1987年、川上忠雄・粕谷信次の『社会観の選択』の第一章で「日本人とは、いま?」で、漱石を意識して「世界と日本の『それから』」で“戦前からの日本人の生き方について「やっぱりそうだったのか?!」と思いあたる”と引くことから論を始めている。薩長維新体制の強固な脱亜入欧の官僚体制は容易には崩れないことを漱石はおさえた上で『それから』なのだ。
その水原さんは、共産党九州地方委員会で谷川雁と三羽烏に数えられた一人。宮本顕治の秘書もしたといい、党員がコッペパンをかじる時代、厚底のアルミ弁当にぎっしり詰まったメシの恨みを語っていたのを思い出す。話が脱線したが、堺が初代共産党委員長で、労農派の突出した社会主義協会事務局長が共産党国際主義派の流れの摩訶不思議の事実を誰も語らない。
◆川上徹さんが『襤褸の旗』再上映直後に逝去
同時代社の川上徹さんが正月2日に亡くなられた。12月半ば、川上さんが待望してよびかけられた田中正造を描く映画『襤褸の旗』上映に闘病の床からでてこられ、ようやく復調かと思った矢先の訃報だった。60年代の民青全盛期の全学連、また民青同盟委員長として知られ、「朝鮮問題」で最も活動的であった川上さんが党の「査問」にあい、離党後、同時代社をおこし、樋口篤三さんの「横断戦線」を継承されてきた努力が一つの区切りを迎えた早春の落花だった。その「お別れの会」が1月24日、日本青年館で開かれ300名をこす人たちが集まった。いわば講座派系の人たちを中心に「これからの社会を考える懇談会(コレコン)」の人たちが参加した。もっとも川上さんは1972年の「新日和見主義事件」で幹部の座を追われたので、正系の講座派系の人には〈末裔たち〉のよび方には異議があるかもしれない。
『葦牙』はその33号で「宮本顕治を検証する」(註2)を出すが、その発行時の7月に宮本は98歳で逝去する。そこでは「わり算の文学」を中里喜昭が、「何が変わり変わらなかったか−処女作『敗北の文学』を読み直す」を牧梶郎が書いているが、「新日和見主義事件」の言及はない。この「新日和見主義事件」については「突然の査問」で始まり、「共産党指導部が(1967年当時)朝鮮労働党の南進論に恐怖し、その不安と猜疑心から生まれた“冤罪”であり、まったく理不尽な出来事」(註3)とされる。また「自らの体験を綴った『査問』(ちくま文庫、1997年)を出版、…人権を蹂躙した共産党による査問の実態を告発したこの書が広く読まれるに及んで、共産党は同時代社の出版物の「赤旗」への広告を拒否した。その結果、同時代社の売り上げは激減したというが、半面で川上さんは出版人としての自由を獲得したともいえる」がこの間の事情を伝える(註4)。このことに関していえば、私は1964年の総評への「4.17挑発スト」論と同じ異常な大衆闘争への憎悪を感じてきた。
だが私には、先に水原と共産党九州地方委員会のオルグであった谷川雁が、共産党員の多かった「サークル村宣言」で「一つの村を作るのだとわたしたちは宣言する」「サークルとは日本文明の病識を決定する場所としてこの上もなく貴重な存在である」として、地域に自律的アソシエーションの形成をすすめることに土着的共同体主義の実践を見る。谷川は今では吉本隆明の言語論的展開に席を譲ったかのように語られているが、吉本は高度消費社会をたたえ、原発推進論者であった凡庸さを思えば、むしろ谷川の実践的創造性を通して状況を集団の中で自律的な個をみがいて突破しようとした共同体的土着性に着目すべきではないか。
それは石牟礼道子や森崎和江というポストモダンの語り部と共働したことだ。石牟礼は「気狂いのばばしゃんの守りはわたしがやっていました。そのばばしゃんは私の守りだったのです。ふたりはたいがい一緒で、祖母はわたしを膝に抱いて髪のしらみの卵を、手さぐりで(めくらでしたから)とってふつふつ噛んでつぶすのです。こんどはわたしが後ろにまわり、白髪のまげを作って、ペンペン草などたくさんさしてやるといったぐあいでした」とサークル村機関紙に日本のサバルタンをやさしく書いている(註5)。
もう一つは、川上さんのような「査問」ではなく「除名」攻撃とその反撃の瞬発力である。「7.15 杉原茂雄・小日向哲也・沖田活美は日共より除名処分を受ける。処分の理由は、トロッキスト集団の行動と方針を積極的に支持し、党の方針に反対したというもの(註:除名の三名、離党の四名ともに「サークル村」会員。なお、「サークル村」運動の指導者、谷川雁は地区細胞員、除名処分を受く。)(註6)。
谷川雁を新左翼と思っている人も多いが、「人民の敵、反共“左翼”挑発者集団に転落した谷川雁、杉原茂雄、小日向哲也、沖田活美の除名について」が共産党遠賀地区委員会の名でビラまきされ、1960年7月29日、「これでも人民の敵か? 共に新しい時代の先頭に立ちましょう!」のビラで反撃する。そして沖田活美日録は「8.4 日共を除名された三名と離党した四名によって共産主義同志会を発足させる」とある。そしてその思想の具体化を目指して「三池をしめくくる夕べ」を企画していく。
森崎和江は「無名通信」の中で、「闘いはここから」を作詩した森田ヤエ子の「もえつくす女のこぶしがある」がうたごえの指導部によって「頑張ろう!」となり「燃えあがる女のこぶしがある」に変えられ、荒木栄作曲で広がる顛末を語る。ギリシャの『旅芸人の記録』ではないが、エレクトラが演じる劇は歴史の状況の中で変わるのは確か。しかし日本の労働運動の中でもっとも唄われ続けたこの歌が、その作詩者の意図に思いをはせたことのなかったのも事実。民衆の集団的共同体をめざす地方にうずもれた記録と記憶が眠ったままである。
註1 関良一 『一葉研究小史』
註2 『葦牙』33号 2007.7 同時代社発行
註3 朝日健太郎「川上徹さんのご逝去に思う」『先駆』921号
註4 牧梶郎「川上徹さんを追悼する」『葦牙』116号
註5 森崎和江『闘いとエロス』(三一書房 1970)
註6「大正行動隊」㈵
(筆者は共生型経済推進フォーラム事務局長)