加藤宣幸さんを偲んで

唐笠 一雄

 去る2月17日、加藤さんが逝去されました。
 2011年12月、江田五月参議院議員の事務所に、篠原令さん、加藤宣幸さんが来られました。当時、私は生協役員を退任し、江田事務所のスタッフとして江田議員の政治活動を手伝っていました。日本で暮らす華僑・華人(日本国籍)の方々が困っている問題の一つに、子供たちが中国語を学べる小学校が欲しいという課題があり、2012年日中国交正常化40周年を記念して、日中友好国際学校を作ろうという話しでした。日本には華僑・華人の子弟が通う中華学校は5つしかありません。いずれも1条校(学校教育法第1条に定める学校)でなく各種学校です。日本に住む華僑・華人は80万人近くいます。在日外国人の中で一番多い。中国語や中国文化を学べる学校があれば、日中両国の文化交流の拠点になります。学校設立運動を契機に、加藤さん、篠原さんとは何回か、会合を重ね、懇親を深めてきました。

 加藤さんは、江田三郎さんの側近で、社会党書記として政治活動を担ってこられました。構造改革論という用語はイタリア共産党第8回大会のテーゼにあった「構造的改良の道」に由来し、これを改良主義と攻撃されるのを恐れて「構造改革」と造語したのは加藤さんだった、又、社会党の欠陥として、日常活動の不足、議員党的体質、労組依存の三点を指摘した成田知巳元社会党委員長のいわゆる「成田三原則」の原案を書いたのは加藤さんだった、という話を聞きました。

 私は20才頃の大学生の時でしたか、当時の総選挙で、下町の選挙区から出た社会党の渋沢利久候補の選挙を手伝いました。選対の事務局長が今泉清(当時、江戸川区労協)さんでした。今泉さんは豪快かつ行動力旺盛なアイデアマンで、地域活動にも熱心でした。この選挙は惜敗でしたが、集まった人のなかで、三多摩で生協活動を進めていた方がいて、その方から「北海道よつば牛乳」を知り、江戸川で「よつば牛乳」の共同購入に取り組み、江戸川生協へと発展させました。今泉さんは、その後、下町タイムスを発行し、ユニークな活動を次々と展開し、残念ながら2001年他界されました。私は随分勉強させてもらいました。
 加藤さんとお話しした中で、今泉さんも江田三郎さんの親衛隊の一人で、当時の政治状況について加藤さんから詳しく教えてもらったことも思い出されます。

 中国には「十年樹木、百年樹人」(10 年先を考えたら木を植え、100 年先を考えたら人を育てる)という諺があります。かつて日本は孫文らの辛亥革命の揺籃の地でした。そして日本に留学した多くの清国人留学生がその後の新中国の指導者として育っていきました。又、遣唐使の時代には多くの日本人留学生、留学僧が唐の都長安で学んできました。「一衣帯水の日中両国は互いに尊重し合い、協力し合って共に新しい時代を築いていく必要がある。そのために将来、日中友好の架け橋となる人材を育てることが大事だ。」と加藤さんは考えていたのかと思います。

 加藤さんは戦前・戦後の日本の政治活動に生涯をかけて取り組んでこられた方で、本当に頭が下がる思いです。
 心から御冥福をお祈り申し上げます。

 (日中友好国際学校設立協議会代表)

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