【北から南から】フィリピンから(8)

処刑された人たち、遺された言葉

—「お父さんお母さん、お側に参ります」—

麻生 雍一郎


 前々回(第6回目)のこの欄で、太平洋戦争中のレイテ決戦の生き残り、旧陸軍第一師団副官の松本實さん(94)が戦後、25回も続けてきた鎮魂、慰霊の旅について書いた。その関連で聞いたり、調べたりしたことを今回、追加的に記しておきたい。

 松本さんが満州(現中国東北部)時代から仕えた故片岡董(ただす)師団長のことを語り始めると、話が止まらなくなる。軍用列車で中国を南下し、上海を経てフィリピンのマニラ、そしてレイテとずっと行動をともにし、レイテの戦いでも常に傍で仕えた片岡師団長は、松本さんにとって上司という以上に庇護者であった。砲弾の破片を足に受け、動けなくなったときは師団長自ら松葉杖を作ってくれた。「自分のそばを離れるな」。師団長はそう声をかけた。レイテでの敗北が決定的となり、山を下り、セブ島へ脱出というとき、松本さんは始めは這いながら、途中からこの松葉杖を使って海ぎわまで必死についていった。脱出用の上陸用舟艇、大発に乗ることができたのも師団長の命令があったからだ、と思っている。

 片岡師団長は陸軍士官学校卒(27期)、後に東大法学部に派遣され法律、経済を学んだ後、陸軍大学教官、近衛騎兵連隊長などを経て1944年10月、第一師団長となり、フィリピンへ渡った。空と海の支配権を失ったレイテで圧倒的な装備の米軍と対峙し、山岳戦などの指揮を取ったが、1万3500の師団将兵のうち1万2000人までが戦死し、年明けの1945年1月、大本営の命令でセブへ脱出した。片岡氏には『レイテ戦従軍記』という手記がある。復員後、遺族に戦場の様子を理解してもらえたら、と兵庫県豊岡市の自宅で鉄筆で書き込み、わら半紙に謄写版印刷したという。1963年逝去、その後、松本さんが中心になってタイプ印刷したものを遺族へ届けた。

 手記にはレイテ戦の詳細がびっしり書き込まれているが、ここではそれらを割愛して、戦後のあまり知られていないエピソードの部分を紹介してみたい。1952年、復員局から片岡氏の元へ小包が届き、中から1冊の英書が出てきた。レイテで第一師団と直接戦った米軍第24師団に所属した歩兵第21連隊長フルベッキ大佐が書いた戦闘記録で、大佐からの要請で届けられたものだった。大佐はオランダ系米国人で、祖父は幕末の安政年間に日本伝道を志して長崎へ来航、幕府の長崎洋学局で英語を教えた。明治2年、新政府の招聘で政府顧問となり、岩倉大使一行の欧米巡遊を進言して、実現させる。その後、明治学院神学部教授として教育に当たること20年、明治30年、東京赤坂の自宅で没したという。

 フルベッキ大佐は日本で片岡氏との面会と祖父の墓参を希望し、2人の対面は朝鮮戦争に従軍していた大佐が1954年、釜山から米国へ帰る途中、立ち寄った東京で実現した。このとき大佐は片岡氏、松本さんらとともに靖国神社を参拝し、歓談に移ると「米軍は自分の連隊だけで大砲を70門、全部合わせると数百門を下らなかった。この優勢に日本軍は一歩も引かない。実に精錬勇敢であった」と称えたという。また「祖父は東京帝大の建築に従事し、父は日本で生まれ、明治維新の上野の戦争を見た。日露戦争の時、大方の米国人はロシアが勝つと思っていたが、父は一人で日本が勝つとがんばっていた」との思い出話も披露したという。大佐自身も戦前、在日米大使館付き武官として日本に滞在した。日本はこうした親日派までを敵に回して戦争をしたのだった。

 片岡氏が感動を持って記しているのは大佐の態度である。「私はいま、株式の外交員をしています」。片岡氏は最初に自分をそう紹介したが、大佐は片岡氏に対して上官の礼をとり、宿舎の山王ホテルの廊下では片岡氏に絨毯の真ん中を歩かせ、自らは端を歩いて案内者の役周りに徹した。握手の後は不動の姿勢をとって、厳格な挙手の敬礼をしたという。「終戦以来、これほど鄭重(ていちょう)な扱いを受けたことは未だかってない」。片岡氏はそう記している。

 セブでの投降、武装解除の後、片岡師団長はモンテンルパの監獄へ収容される。日本人収容の第一号だった。次の日に山下泰文大将(フィリピン派遣の第14軍司令官)の一行が入ってきた。片岡氏は山下大将とのやりとりを手記に記している。「祖国の再建は科学の振興以外にない」と片岡氏が述べたのに対し、山下大将は再建の基礎は婦人教育にあり、として「三ツ子の魂百まで。性根が据わるのは学校に通うまで。この間に人間の性根を据えてくれるのは母親だ。母親の責任は重大で、民族の興廃は一に懸かって母親の双肩にあり」と語ったという。

 片岡師団長は起訴されず、未決の天幕に移された。死刑が確定した山下大将は1946年2月24日早朝、厳重な警戒態勢が取られる中、煌々と照明に映える絞首台の13階段を昇った。絞首台へ向かうジープの中でも山下大将は「立派な人間を養成するのは母親の力」と語ったという。続いて1時間足らずの間にフィリピンの憲兵隊長だった太田清一中佐と通訳の東地琢磨氏が住民虐待を理由に処刑された。太田中佐の最後の言葉は「天皇陛下並びに皇室の御繁栄と国家の隆昌を祈ります。お父さんお母さん、お側に参ります。どうか子供の教育を宜しくお願い致します」だったという。東地通訳の最後の言葉は「永久にさよなら」だったと記録されている。

 処刑された人たちはそれぞれに不満、憤懣があっただろう。しかし、遺言や最後の思いを伝えることができた。レイテ戦に参加した日本軍将兵は8万4006人、生存者は7926人と記録されている。生存率は6パーセント。戦場に散った7万6080人は最後の言葉を残す機会までも奪われた。今年の夏、25回目の鎮魂・慰霊の旅を行った松本さんは「英霊は家族に看取られず、1人寂しく戦死されています。兵隊さんは孤独なのです」と言い、「行けるうちは今後も何とかレイテへ行きたい」と語った。終戦から70年を経たが、松本さんにとって戦争はまだ終わっていない。

 (筆者は日刊マニラ新聞セブ支局長)


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