■偽善のすすめ (LETS PRETEND) 西村 徹

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 日本の自衛隊は、中身は紛れもない軍隊なのに軍ではないとして、それを自衛
隊と呼び続けるのは偽善である。読売新聞の渡辺恒雄氏はそのようにいう。まっ
たくそのとおり間違いなく偽善である。そして渡辺氏は「偽善である」と言い切
ったところで、同時に偽善は解消されるべきことを自明としている。
 もし解消されるべきものだとすれば、二つの道がありうる。「戦力は、これを
保持しない」という憲法の理念と、紛れもない戦力を保持している現実との乖離
を埋めるには、どちらか片方に手を加えて辻褄を合わすことになるのだから道は
二つに一つということになる。氏は理念を現実に合わせる道を自明の選択として
いるが、そう考える自由は直ちにその逆を選択する自由を奪うものではない。
 
 理念から遠ざかってしまった現実を元に戻して理念に合わせる道もある。実際
にそのように主張し続けている人たちはいる。ただそれはもはや現実的でないと
する勢いが強くなって、理念派は少し劣勢になっているらしい。しかし理念派の
いうことも、よく聞いてみると、それほど非現実的でなくて、現実を元に戻すの
は気長にやればよく、なにも慌てて理想を捨て去るには及ばないといっているだ
けのようでもある。
 しかし、どちらも二者択一としてしか考えないからガチンコになる。二者択一
でなく、どちらをも選ばない第三の道はないか。なにもいじくりまわさないで、
どちらの立つ瀬もあるような手立てはないか。偽善を解消しないという「解消」
は考えられないか。つまりは偽善を承知で偽善を続ける道はないものだろうか。
額面と株価は違うように、どこの国にも類似のことはあるはずだ。日本国憲法そ
のものの中にも矛盾はある。人間そのものが矛盾に充ちた存在だ。
 
C.S.ルイスという人に"LET'S PRETEND"という文章がある。ラジオ放送を記
録した"BEYOND PERSONALITY"という1944年に出した冊子の中の一文であ
る。「その振りをしよう」とでもいうことだろうが、拙文の標題はそれを借りた。
ちなみにこの人は今ごろ映画で評判の『ナルニア国物語』第1章「ライオンと魔
女」の原作者である。この文章の中で「きわめて多くの場合、ひとつの美質をほ
んとうに身に付けるには、すでにそれが身に付いているかのように振舞うことか
ら出発するのが一番だ」という。
 ルイスが使っているpretenceという語は「偽りの演技」「偽装」のことだから、
つまりは「偽善」でもあるだろう。この偽善には二種類ある。人を助ける振りだ
けして実はまったく助けようともしないのは悪い偽善だ。ところが、助ける振り
をしているうちに、だんだんとその気になって偽善が偽善でなくなってゆくよう
なら、それはよい偽善だ。格別優しさはないが優しくすべきだという分別がある
なら、優しい振りして実際より善人らしく振舞うのが一番よい。数分もすると誰
にもよくあるように、今までの自分より、ほんとうに優しい人間になっているだ
ろう。
 
 そのようなことをルイスはいう。子供は兵隊ごっこや、お店屋ごっこをして、
大人のふりをしては現実の大人になる素地を身につけてゆく。『美女と野獣』の
物語では、野獣と結婚する羽目になった美女が、その野獣をまったく人間扱いに
して接吻すると、野獣は美貌の男子になった。醜男が美貌の仮面を被り続けて永
年を経て、仮面を脱いだら仮面どおりの美貌になっていたという物語もある。こ
ういうことからルイスは話しを起こしているが、逆に偽悪を続けていると、それ
が偽悪でなくてほんもののワルになってしまうことも思い出してみるとよいだ
ろう。現に悪しきアメリカ人の振りをし続けて、ついに悪しきアメリカ人のクロ
ーンになってしまった日本人も、政界やメディアの世界には見受けられる。
 
 ルイスはクリスチャンの立場でものを言っているから、日本ではあまりなじま
ないかもしれないが、義理立てして付け加えると、「主の祈り」こそ、よい偽善
の極みだという。「主の祈り」は「われらの父よ」で始まる。神の子イエス・キ
リストによって発せられた言葉を、資格もない私たちが唱えるのは、資格もない
のに自分を神の子の立場に置くことであり、とりもなおさずキリストを装うこと
である。したがって唱えると同時に、それが佯わりであり、自分が神の子などで
はなく、自己中心の怖れ、望み、欲張り、嫉み、自惚れのかたまりで、ひとしく
死に定められていることを痛切に自覚する。しかも、その自覚を神は命じるので
ある。つまりはキリストに倣うことによって、限りなく遠いキリストに限りなく
近づくことができるようにとの、それは神の計らいだという。これがルイスの、
偽善のすすめの理由である。
 
 この際クリスチャンとか神とかキリストとかの詮議は棚にあげる。棚にあげた
上で「主の祈り」の位置に憲法を、とりわけ9条を持ってくるという類比は考え
られないだろうか。
 護憲派の中にはガンディーのアヒンサーを貫いて非武装を唱える絶対平和主
義の人々もいる。その中にはクェーカーなどの宗教者も多い。それを貴いものに
思うし、そういう人はいてもらわねばならぬ。それを嘲笑するような昨今の風潮
には与しがたいが、しかしまた同時に、「鳩のように素直である」だけでなく、
その前に「蛇のように聡く」もあらねばならぬようにも思う。なぜならば、残念
ながら人間はみな性善ではない。ふたたびルイスによれば人は罪に堕ちている。
 C.S.ルイスは1958年『宗教と宇宙開発』という文章の中で、その後に現実と
なる米ソ宇宙開発によって、もし仮に他の星に住む生物に出会ったとして、その
とき生じるであろう惨禍について、ほとんど絶望的な予言と警告を発している。
その十年後の1969年、はやくも無菌清浄の月面に滅菌処理のないまま人間の征
服欲の旗印が打ち込まれたことを私たちは知っている。中東の主権国を侵略した
帝国が、侵略された国の元首の銅像を引き倒した跡に建てたのと同じ旗印であっ
たことをも知っている。
 
 このルイスの文章は『栄光の重み』(新教出版社)に拙訳があるが、アマゾン
にもリストアップされないほどみごとに売れていない。誰も読んでいないと思う
ので、しかるべき箇所を、少し手を加えて引く。
 「その思考の根底に、わたしたちとは全く異なる構造をもつ(感覚も欲望も異
なる)生物、・・・ことによるとわたしたちより秀でた、しかもそれゆえにこそ、
わたしたちの水準に歩み降りることのできる知性、・・・わたしたちほど強くは
なく、また才走ってもいないが、汚れなく幼な児のような被造物に会うならば」
そのとき人類はなにをするものか。
 「人はできる限りのすべての種を滅ぼし、奴隷にする。文明人は蛮人を殺し、
奴隷にし、欺き、堕落させる。無生物をすら人は砂塵と瓦礫の山にする。・・・
彼らが自分より弱いものに出会う時どうなるかは黒人とネイティブアメリカン
が知っている。・・・仮に私たちが、人間とは違うが理性をもった被造物に出会
えば、・・・できるかぎりのあらゆる罪を、・・・顔かたちと皮膚の色の違う被造
物に対して既にわたしたちが犯してきたあらゆる罪を犯すだろう。・・・ひとし
きり強掠に耽ったあとで、・・・たぶん宣教師を送るだろう。・・・『大砲と福音
と』は、過去においておぞましくも結びついていた。」
 
 いま「福音」は「民主化」と「拝金宗」とに世俗化しているが、これが地球上
の現実であり、これからも変わらぬとするペシミズムを私はC.S.ルイスと共有
する。それゆえ、大方の風潮に抗して非武装を唱える人々には深く敬意を払いつ
つも、その高邁を共有する血気を私は持たない。人間の環境破壊がこのまま進め
ば人類の寿命は200年だと多田富雄氏はいう。僅かそれまでの間ならば、それ
ならばこの美わしき偽善を抱きしめて、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ」その
刺の痛みに、むしろ歯噛みして耐えようではないかと思う。
 野獣に対するに美女として振舞うことは叶わずとも、仮面がいつか肉となり生
身の顔にならぬともかぎらぬ。少なくとも、後ろめたさが後ろ髪を引っぱって、
独善排他の驕慢に陥ることから、悪魔の僕に堕ちる事から私たちを救うであろう。
それが諸国それぞれにも良心の刺となり、それぞれの隠す偽りを、それぞれの胸
の底のひそかな後ろめたさを、およそ国家というもののまぬがれ難い原罪を炙り
出す篝火になるやもしれぬ。G.K.チェスタートンは言う。「屈めば高くなる」(We
become taller when we bow)のだ。
 [付記] これを書き終わって後、丸山真男に全く同名の「偽善のすすめ」が『思
想』の65年12月号にあることを人づてに知った。偶然ながら、不明について
は苦笑のほかない。
                   (筆者は大阪女子大学名誉教授)

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