■臆子妄論   修養団のこと    西村 徹


■合宿と講演


  中学二年のことだったと思う。つまり1940年、修養団の人がやってきて、夏
休みの終わりか初めか、その前後か、合宿していろんなことをした。なにをし
たのか、ろくに覚えていないが一斉に拳を突き上げて「流汗鍛錬、同胞相愛」
とか声を揃えて言った。意味よりもリズムがおもしろかった。「流汗鍛錬」と
「修養(足らんね)」がギャグとして流行した。「ギャグとして」といったの
は、どこか笑いを誘う突っ込みとして、概して明るい場面で使われたことを意
味する。
 
  修養団のなんたるかをまったく知らなかったが、合宿はけっこう楽しかった。
大勢でいっしょに寝泊りするのはそれだけで楽しかったし、その間教師の殺伐
な視線からは逃れられた。とにかく開放感があった。じつは兵営宿泊でさえそ
んなところがあった。それほど学校の日常は重苦しく陰惨であった。修養団か
ら来た中年の講師には武張ったところ、威圧的なところなどまったくなかった。
少なくとも教師一般より温もりのある、安心できる感じの人だった。熱っぽい
ところはなくて、笑わないで笑わせる人であった。


■修養団が軍歌を批判 


  講堂で全校生徒がその人の講演を聞いた。講演の中身はさっぱり記憶にない
が、ただ二つだけ今も鮮明に覚えている。当時さかんに歌われた軍歌に「露営
の歌」というのがあった。その三番に「弾丸もタンクも銃剣も しばし露営の
草まくら 夢に出て来た父上に 死んで還れと励まされ さめて睨むは敵の
空」とある。その「死んで還れと励まされ」について、講師はなんとも呆れた
という顔で言った。「死んで還れなど、こんなことは言えません。こんなことを
言う親はいません」と。「死んで」と「こんな」に力をこめて言った。

 これはおどろきであった。その逆の、つまり死の賛美が声高に叫ばれていた
なかで、しかも軍歌を批判しているのだからおどろきであった。いっとき漣の
ように静かなどよめきが会場に広がった。國民の上にのしかかって息の根も止
まるほどに締め上げている価値観を覆すことだったにもかかわらず、いやそれ
ゆえだったかもしれないが、生徒は眼を丸くして嘆声を洩らし、そして緊張が
ほぐれたように、ほんのしばらくざわめいて鎮まった。閉め切った部屋の一角
に突然風穴が開いたような気分だった。
  陪席の教師たちはなんとも気まずい顔をしていた。毎日書かされて毎週検閲
を受ける「修養日記」に、もし同じことを生徒が書いたならば大目玉を食らう
だけですまない。教員室じゅうに知れわたって「国賊」とか「非国民」とか札
つきになることはまちがいなかった。私の苦い経験からそれは断言できる。


■修養団がシゴキを批判


  もう一つは、運動部活動のシゴキを批判して「柔道の稽古などを見ていると
猫がねずみをいたぶるように大きな上級生が小さい下級生をダンゴのようにこ
ねたり丸めたりして、転がしている」と言った。哄笑の渦になった。ひときわ
大きな声で笑った教師がいた。講師が怪訝な顔をするほどの下卑た笑いであっ
た。
  いつも和服で、いつも酒の臭いをさせている剣道の教師で、国語も教えたが
俗にアンチョコとも三文とも、あるいはトラとも言われる自習書をそっくりな
ぞった授業をした。兇暴なだけでなく口実を見つけては「ヤマトダマシイある
か」と言っては生徒の股間を探る奇癖を持っていた。ちなみに評論家の荒正人
も東京府立第九中学校の教師をしていたころ「ヤマトダマシイあるか」とは言
わなかったが、同種の奇癖を持っていたと、九中出身者から聞いた。奇癖でも
ないのかもしれぬ。

 この二つだけ憶えているのは、この二つが私の意中にあることと響きあった
からであり、教師の口からはめったに聞くことのできない刺激的な意外性に充
ちていたからである。以来修養団にはある種の懐かしさはありながら知識を持
たないまま、今はもう存在もしないものと思っていたが、ふと思い出してちょ
っと平凡社の「世界大百科事典」(1966年)を覗いてみた。


■百科事典によれば


 「忠誠,献身、勤労などを普及して帝国政府の御用をつとめた教化団体」で、
「師範学校生徒だった蓮沼門三が創立し・・“人格の修養、心霊の向上”をめざ
す小地主的な学生の精神運動だが・・平沼騏一郎をはじめ財・官界の巨頭の支
持と皇室への接近によって急激に発展した。・・“流汗鍛錬、同胞相愛”を標語
に"愛なき人生は暗黒なり、汗なき社会は堕落なり" などと唱え・・戦争への国
民精神総動員の軸になった」とある。佐木秋夫という人が執筆している。

 「帝国政府の御用」とか「戦争への国民精神総動員の軸」とか、相当に右翼
的国粋主義的な団体らしく書いている。平沼騏一郎などという巨魁の名前がぬ
っと出てきてまがまがしい。しかし共鳴者として平沼騏一郎の名を出すならば
渋沢栄一や田沢義鋪の名前も出さないと帳尻が合はない。渋沢が賛同したのは
1910年。修養団創立(1906年)のわずか四年後である。平沼が食い込んだの
は彼が枢密院議長になった1926年以後だ。また軍部の介入を排し青年団の主体
性を保持しようとしたとされ、「青年運動の父」とも仰がれる田沢が修養団に賛
同したことは平沼の便乗介入にもまして大きいはずだ。後藤新平もまた賛同者
のひとりだし安岡正篤もいて幅がひろい。

 また「小地主的な学生の精神運動」はわかりにくい。「小地主的な学生の」
「精神運動」なのか「小地主的な」「学生の精神運動」なのかあいまいだ。お
そらく蓮沼門三が会津草莽の「師範学校生徒だった」ことに絡んで「小地主」
という小意地の悪い常套句は出てきたものであろうが、そもそも精神運動を規
定するものとして「小地主的」とはどういうものか、漠然とした蔑み、あるいは
偏見の含意を示す以外に具体的にはなにも意味をなさない。「センチメンタル」
と言っただけでは単に分類をおこなったというだけで否定的にも肯定的にも、じつ
はなにひとつ価値判断をおこなったことにならないのと同じである。仲間内だ
けに通じる差別的業界用語でしかない。「小ブル」「小役人」「プロレタリア」
「ブルジョア」、これら単なる分類のレッテルに「的」を付けただけでなんらか
の判断を代行させるのは思考の怠慢でしかない。


■天皇の「おことば」


 佐木秋夫が書いているようなものだとするならば蓮沼は追放になり修養団は
解散させられているだろう。ところが追放も解散もなくて、蓮沼は1980年98
歳で死んだが修養団は延々と今日なお健在だという。2005年11月13日、創立
100周年記念式典には天皇皇后の行幸啓があり天皇が祝辞を述べている。「皇室
への接近によって急激に発展した」と佐木のいうところから不思議はないこと
かもしれぬ。しかし今の天皇は権力とも名利とも縁がないから言うことに邪心
がなく純粋で、過不足なく言葉を選んでいるから、いいかげんな政治家や評論
家などより信用できる。「天皇陛下のおことば」なるもの全文は以下のごとくで
ある。

【本日,修養団創立100周年記念大会に臨み,多くの関係者と一堂に会するこ
とを,誠に喜ばしく思います。
  修養団は,明治39年,東京府師範学校において,蓮沼門三を中心とする学生
たちによって創立され,以来100年の長きにわたり,「愛と汗」の実践という理
念の下に,幾多の困難を乗り越え,幅広い社会教育活動を展開し,人材の育成
を通して社会に貢献してきました。30年前,創立70年記念大会において,当
時既に90を超えられた蓮沼門三主幹にお会いしたことを思い起こしつつ,氏の
運動を支え,今日まで継承してきた関係者のたゆみない努力に対し,深く敬意
を表します。
 
  お互いに思いやりの心を持ち,愛し合い,共に働き,良き社会を建設しよう
という修養団の精神は,高齢化の進むこれからの我が国の社会にとっても,ま
た,我が国の人々が,今後貧困や紛争など,世界における様々な問題の解決に
貢献していくに当たっても,大きな意義を持っていくものと思われます。
  ここに,修養団の創立100周年を祝うとともに,修養団の様々な事業を始め,
我が国における社会教育活動が,人々の幸せと世界の平和を目指して,更に力
強く展開されていくことを願い,大会に寄せる言葉といたします。】

 どちらが正しいかと言うのではない。天皇は戦前戦中について明るくはない
だろうし、佐木は戦後のその後(1966年以後)を知らない。戦中において佐木
の言うような側面はあったであろう。それは天皇の「幾多の困難を乗り越え」
に含まれていて、それは負の面をも背負い、かつ乗り超えてきたことをもふく
んでいる。また現在文科省所管であることからして、現理事長が元文科省事務
次官であることからして、今日において天下りの受け皿でありうることも想像
できる。しかしそれは戦後のことであって、当該講師がわれわれの学校に来た
時代にはそのようなことはなかったものと思う。


■1940年(皇紀二千六百年)―― 映画「母(かあ)べえ」の時代


 1940年は斎藤隆夫反軍演説を最後に言論自由の息の根は止められ、第二次
近衞内閣が新体制の掛け声のもとに翼賛議会へのレールを敷いた年である。皇
紀2600年であり日独伊三国同盟の年であり、賃金、物価、家賃などが統制され、
隣組がつくられ「贅沢は敵だ」の標語が叫ばれて一種奇妙な擬似社会主義ムー
ドが、今にして思えばカーキ色平等幻想とでもいうべきものが剣呑な新鮮さを
たたえて人々を上気させていた。「近衞さんは京都帝大で河上肇の弟子だ」と、
ある感慨をもって大人が口にしていたことを憶えている。
  子弟がアカで検挙されたという過去が「えらい秀才で」とヒローイックな風
合いで噂に上る家庭もあった。図画の教師は「美は人を惹きつける」と言った
ついでに「アカはいかん」と十分にアリバイを作りつつ「ああいうものが青年
を惹きつけたのは思想美があるからだ」と言った。「美がある」のに、なぜ「い
かん」のかはなにも言わないから「思想美がある」だけが、いっそう謎めいて
好奇心をそそった。
 
2008年1月26日に封切られる映画「母べえ」は反戦を唱える人物が治安維
持法違反で検挙されるところから始まるらしいが、その舞台も1940年。まだア
カは否定的な形で十分温度を保っていたことがわかる。アカという語はかなら
ず声をひそめて口にされたから、よほど強力で、どんなにかエライものなのだ
ろうと、かえって心の隅に漠とした憧れが育まれた。そこでいま、あの講師は、
左翼転向者が満鉄調査部などに身を隠したように、ひょっとすると修養団にひ
そんで世を忍んでいた隠れ「主義者」だったのではと、はなはだロマンチック
に私は想像したりもする。


■蓮沼門三の誓願


 蓮沼門三は師範学校の廊下があまりに汚れているので一人で雑巾がけを始め
た。それがきっかけで運動は始まったという。黙々とタバコの吸殻やゴミを拾
う「かんかんラリー」と同じボランティアの活動が始まりであったかに見える。
その誓願というものを以下に掲げる。

 人よ醒めよ醒めて愛に帰れ
  愛なき人生は暗黒なり
  共に祈りつつ全ての人と親しめ
  我が住む里に一人の争う者もなきまでに

  人よ起てよ起ちて汗に帰れ
  汗なき社会は堕落なり
  共に祈りつつすべての人と働け
  我が住む郷に一人の怠る者もなきまでに

 「誓願」の語は仏教めいているが、思想的には、創立をほぼ同じくする西田
天香の一灯園ほどに彫りの深いところはなく、宗教性も格別にない。あるとい
えば素朴な謙遜の「祈り」が、むしろ福音書風の情調と語調にまぶされて表現
されているていのものである。「誓願」に加えて「明魂」をもあわせ見ると明治
のこの時期のさまざまな潮流を習合していて、ちょっとお寺のクリスマスみた
いな、当時としては案外モダンに響いたのかもしれない。明治末期すでに大正
デモクラシーのとば口にさしかかっていて、いくぶん日露戦争勝利後の驕りに
対する警鐘のようにも思えてくる。むしろ「小地主的」より「篤農家的」とい
うべき、尊徳の報徳思想や、宮沢賢治にもつながる側面もうかがえる。あるい
はトルストイの匂いがしなくもない。


■格差社会の対立軸として


 思想的には単純素朴であったがゆえに、かえって右翼国粋主義者に乗ぜられ
ることになったのかもしれない。なにしろ理事長当時の平沼騏一郎は枢密院議
長として「総親和、総努力」などと修養団の精神を自前であるかのように口に
しながら、1936年大本教本部を爆破した張本人である。しかしそれは門三の誓
願それ自体の罪ではまったくない。それどころか「我が住む里に一人の争う者
もなきまでに」と平和主義もまた「誓願」には掲げられている。

 「愛と勤勉と祈りによって平和を」というのだからアメリカ人のプロテスタ
ント的なものどころかクェーカーとさえ合致する。多くの団体と同じく昭和軍
国主義の波にさらわれて誓願の初志を失いかねない紆余曲折はあったであろう。
小学生のとき学校行事として観た「すわらじ劇団」の劇も白衣の傷痍軍人が主
人公の時局の色濃いものであった。結局修養団を米軍が追放も解散もしなかっ
たのは頷けるように思う。
 
  沖縄タイムス2007年1月28日は、修養団による沖縄遺骨収集活動の2001
年終了後も「最後の一柱まで探したい」という全国の会員からの声にこたえて
沖縄がじまる支部主催で続行が決定されたと伝えている。これを見ると、すく
なくとも修養団の現在と今後あるべき方向については天皇の「おことば」のほ
うが正しく捉えていると思われる。

 この静かな団体がジャーナリズムで論じられるのを見ないのは私の不明にの
みよるのであろうか。毒にもクスリにもならないからだろうか。毒にもクスリ
にもなる時期に来ているようにも思う。ただ単に既成の体制を補完するにすぎ
ないものと片付けてご機嫌でいると、えてしてこのような和解と協調を説く団
体は、言われるごとく労働側の矛先を鈍らせる道具にもされかねまい。だから
手をこまねいての全否定でなく、逆に企業のモラルハザードを牽制する回路と
してこの団体を活性化すべく働きかける道はないのか。
 
「高齢化の進むこれからの我が国の社会にとっても,また,我が国の人々が,
今後貧困や紛争など,世界における様々な問題の解決に貢献していくに当たっ
ても」,弱肉強食がむきだしになっている格差社会の対立軸として、修養団がそ
の核に持っている土臭さとつつましさは、その分析と批判を含めていま少し見
直されてよいように思う。安倍晋三の暴走はその未熟によって自ら潰えたが、
ほっと安堵の胸を撫でている今だからこそ、それは必要なことに思う。
                (筆者は大阪・堺市在住)

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