【コラム】
『論語』のわき道(12)

信  仰

竹本 泰則

 『論語』の中には神という字が何度か出てくる。神の一字だけの場合もあるし、神祇、鬼神という熟語の形で出てくることもある。また、神の字がなくても、神に祈ることを表す文もあれば、「竈(かまど)の神」や「山の神」などを祀るというならわしが読み取れる記述もある。
 さらに社稷(しゃしょく)という語が現れる。「社」は土地の神、「稷」は五穀の神だという。建国にあたっては、まず社稷の壇を設け、そこで君主が祈りをささげるということが行われた。だから国があれば必ず社稷は祀られていた。そこから国家を社稷ともいうようになったという。

 孔子の時代に神の概念はあったし、それへの信仰も存在していたことは確かだ。そのことには何の違和感もないが、『論語』に出てくる神と自分がイメージする「かみ」とはずれがあるような気がしてならない。古代中国との時空の隔たりが大きいこともあろうが、どうもそれだけの理由ではなさそうに思える。

 まず『論語』の中で神を追ってみる。
 ひとりの弟子が「知を問う」。そのときの孔子の答え。

  民の義を務め、鬼神(きじん)は敬してこれを遠ざける、知というべし

  人としての道理を大切にすること、鬼神に対しては敬いをもちながらも遠ざかっていること、
  こうしたことが知者たる資格といえよう

 ここで鬼神というのは人の能力ではとらえきれない霊的な存在といった意味のようである。文字から見て、これには神も包含されていると考えていいだろう。
 孔子は鬼神について、おろそかにあつかってはいけないが、しかしそれには近寄らないようにすること……つまり神に対して距離をおくこと、それを「知」としている。これなど現代人にとっては一つの考え方として十分頷ける。しかし、二千数百年前の言葉となると、また違った意味が隠されていやしないかと頭をひねるところもある。
 蛇足ながら、敬遠という言葉は今では野球などで打者との勝負を避け、わざと四球を与えるといった使い方が専らとなっているが、この語はここから出たものだそうだ。

 もう一つ、子路という弟子が「鬼神に事(つか)えんこと」を質問したときにはこのように応えている。

  いまだ能(よ)く人に事うることあたわず、いずくんぞ能く鬼(き)に事えん

 事えるとは奉仕するといった意味合いだとされている。
 大意としては、生きている人間にすらまだ十分につかえることができないのに、どうして鬼(き)などにつかえることできようか、といったくらいだろう。
 さらにこんな文もある。

  子は怪力乱神を語らず

 怪力乱神の四文字は一つ一つを独立して読むのが普通とされる。怪しげで理解しがたい現象、人間の力ではありえないような仕業、人倫あるいは社会秩序を乱すような行為、そして神あるいは神がかったこと、これらのことを孔子が語るようなことはなかった、そのように読める。
 こうみてくると、孔子は神を信仰の対象としていたとは思えない。むしろ習俗、俗信の世界に神をとらえているように思えるのである。

 神を遠ざけた孔子であるが、信仰が一切なかったわけではなさそうだ。その言動からは「天」に対する信仰が感じられる。
 「天」の思想は漢民族に古くからあったようだが、儒教においても中心的な思想とされている。そして、この思想は周辺地域にも伝播して、人々に深い影響を与えたようである。

 わが国もこれに染まっている。天の文字は天皇という呼称に採り入れられているし、古くから元号にも使われたりしている。
 また、わが国では太陽のことを「おてんと(う)さま」という。この語は『論語』にも現れる「天道」という漢語から派生したものという。
 天という言葉は、平安時代の半ば頃には漢学者に限らず一般の人々までが日常語として使うくらいに定着していたらしい。そういえば、平仮名の「て」あるいは片仮名の「テ」のもとになった漢字(字母)は天である。天が古くからなじみの深い言葉であったことがわかる。

 近代になってからでも天は健在だ。「儒流」の学を批判した福沢諭吉は『学問のすゝめ』を「天は人の上に人を作らず……」の句で説きおこす。夏目漱石は自身の晩年の境地を「則天去私」で表した。子供たちの世界では、いつの頃からか「どれにしようかな、てんのかみさまのいうとおり・・・」などという言い方があった。
 天は儒教という枠を超えて日本人の意識の奥にまで染み込んでいるようにも感じられる。

 天について孔子はこのようにいっている。

  天 何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天 何をか言うや。

  天は何か言うだろうか、(いや何も言いやしない)。
  何も言わなくても四季はめぐり、万物は生長している。
  天は何か言うだろうか(いや何も言いやしない)。

 四季は整然と移ろい、諸々の生命が生まれ成長していく。何もかもがそれぞれに活動と変化を繰り返している。それでいて全体には秩序がある。このあり様は偶然とは思えない。何かが取り仕切っているのではないか……。
 天だ。姿を見たり声を聞いたりすることはないが、天がすべてをコントロールしているのだ……。
 大方、このような認識であったのだろう。つまり天は、人間の運命も含めて万物・万象の主宰者であるという風にとらえられていたらしい。

 たとえば人の運命についてはこんな言葉がある。
 孔子が高弟の一人である子貢に向かって、世間が自分を認めてくれていないことを嘆いた述懐である。そこには現世において栄達が得られなかったという無念な思いを、天に対する素朴な信仰が慰撫しているような雰囲気がある。

  天を怨(うら)みず、人を尤(とが)めず、下学(かがく)して上達す。
  我を知る者はそれ天か

  (世間に認められることがなくても)天を怨むことなく、
   他人のことをとがめもせず、多くのことを学び、修養をやり通した。
  (こんな)わたしのことを分ってくれているのは天だろうなぁ。

 このほかにも『論語』の中には天がよく出てくる。そして、孔子が天を口にするのは日常と違う非常のときであることが目につく。たとえば、最愛の弟子であった顔回(がんかい)が夭折したときには、孔子は悲しみを抑え切れず慟哭しながら「天、われを喪(ほろ)ぼせり」を二度も繰り返しなげいている。

 また故国を離れて流浪の旅の最中、ある国でその国の軍隊の指揮官が率いる一隊に襲われるということがあった。その指揮官の名前は桓魋(かんたい)といった。弟子から早く逃げるようにせかされる中、孔子は「天はこのわたしに徳を授けてくれているのだ。そんなわたしを桓魋ごときがどうすることもできようはずがない」(天、徳をわれに生(な)せり。桓魋、われを如何(いかん))と言い放つ。

 さらに匡(きょう)という土地では住民に取り囲まれて襲撃されるという目にあった。そこでは「ここでわたしが命を落とすようなことになれば、この身が体得した往古の文化が消えてしまい、後の世には伝わらなくなってしまう。天が昔の文化など滅びてもいいというのでない限り、匡の人たちはわたしに何が出来ようか」と言う。天は古い文化を残そうとするはずだから、その体現者である自分は天によって必ず守られると信じていたのだろう。
 揺らぐことが一切ないわけではないが、孔子は自らの使命感とそれの基となる天への信仰を保ち続けたように思える。

 現代人に信仰は遠い。生死を支配する「かみ」や創造主あるいは天といった次元の概念を虚心に受け容れることが困難になっている。
 「戦争の最中、僕は宗教的帰依心について考えつづけてきた。唯一者への全き帰依――この情熱が遺憾ながら僕にあっては不安定なのである」。――亀井勝一郎は奈良にいる友人に宛てた書簡の形式で心のうちをこのように吐露している。

 亀井は絶対的な信仰が安定しない理由として二つのことを挙げる。一つは、いくつかの対象を比較してしまうために唯一つに絞ることができず、思いが分散してしまうこと。もう一つには知性を挙げる。「信仰という分別を超えた問題に面すると、僕の知性は猛烈な抵抗を開始するのだ。すべてを割り切ることの不可能はよく知っている。知性の限界を心得ている筈だ。それでいて知的な明快さを極限まで追い、合理的に説明しつくそうという欲求にかられる」からだとしている。そして知性があることによって「冷徹な批判家たりえても、愚直な殉教者たりえぬ。そういう不幸を僕らも現代人として担っているのではなかろうか」と継ぐ。
 信仰と知性とを対立的にとらえる考え方は受け入れやすい。

 知性は「合理」なものに信頼を置く。一方、信仰は「不合理」の世界にあるものと分別される。人は合理のみを選択することで安定を得られるだろうか。
 宗教学者・山折哲雄はこんなことをいっているという。
 「素粒子というものは科学的に証明できるかもしれないけれども、実感としてその存在を感じられない。魂というものは科学的には証明できなくても、実感としては強く感じることができる」
 わたしたちは不合理と感じるならそれを真実と受け容れることができないし、かといってひたすらに合理に徹せよという知性の要求に従いつくすこともできないように出来上がっているようだ。

 もう一つ、夭逝の哲学者・池田晶子の言葉も考えさせられる。
 「遺伝子がすべて解読されたところで、人が生きて死ぬということそのものの謎は、ほんの少しも動いていない」。
 わたしたちが合理・不合理いずれにも貫徹できないという以前に、この世界あるいは人間として存在すること自体がそのふたつを包含するものであるのかもしれない。

 偶々「仏像疎開」の話題に出くわした。
 つけっ放しのテレビのうるさい音声に嫌気して、あてもなくBS(衛星放送)番組に切り替え、漫然と聞いていた。
 先の大戦中、戦局が厳しさを増していた昭和十八年十二月に、文化財等を戦禍から守るために「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」が策定され、「建造物は偽装し、貯水池や防火防弾壁をつくり、宝物は分散疎開」することが決められている。正式な閣議決定を経ての国策である。

 昭和十九年三月には東大寺本坊、興福寺内の国宝が、円照寺という市街地から離れたお寺に移された。奈良における最初の国宝疎開・仏像疎開である。その後も別の寺や旧家の大きな土蔵などに多くの仏像が運び込まれた。その中には東大寺・三月堂の四天王立像なども含まれていた。興福寺の阿修羅像などは列車で三時間くらいかけて吉野山の旧家まで運ばれたという。一方で疎開をせぬまま残った仏像も多かった。

 仏像の疎開には大きな問題があった。荷造り、輸送に要する人手や費用の問題もあったようだが、何より大きく立ちはだかったのは信仰の問題であった。ご本尊が不在ではお寺でのおつとめなど出来なくなる。
 法隆寺では金堂に安置する釈迦三尊像、薬師如来像、阿弥陀三尊像と聖霊院の聖徳太子像、そして夢殿の救世観音像は敢えて疎開をしないことに決めていたという。当時の貫主の決断によるらしい。

 昭和二十年三月に東京は大空襲に見舞われる。その後も名古屋、大阪という大都市が立て続けに壊滅的な被害を受けている。名古屋を襲ったB-29の編隊は奈良の上空を通過しており、大阪への空襲では赤く染まる夜空が奈良からも山越しに見えた。
 同年六月以降、仏像疎開は本格化した。それでも法隆寺の本尊が寺から動くことはなかった。
 そのことについて語る当時の貫主の声(後の回想談だろうか)が耳に入った。記憶だけなので正確には再現できないが、こんな内容だったと思う。

 (ご本尊の仏さまは)「聖徳太子さまのご遺徳によって守られる」(だから疎開はしない)


 「もし万一のことがあれば、池に仏さまを沈め自分も一緒にお供する」

 思わずテレビに見入ったが後の祭り。画面はたちまちに変わってしまった。録画もしていないので、再び見直すことができないままである。
 この言葉は乱暴というか、無茶な論理に聞こえる。しかし、薄っぺらな屁理屈などを蹴とばして突き刺してくるような力があった。

 調べてみると、この方は佐伯定胤(さえきじょういん)とおっしゃる方で、金堂の火災のときにも現場に駆けつけ、燃え盛る堂の中に飛び込もうとするので、弟子が齢八十を超える老体を羽交い絞めまでして必死に止めたという人であった。
 宗教人であるから、これを広く敷衍するのは無理があるかもしれない。しかし、この人には聖徳太子に寄せるただ一縷の信仰と、その信仰に殉じるゆるぎない気迫、覚悟のようなものを感じた。

 合理だ、不合理だというような料簡を超越したところに信仰は存在するのだろうか。
 法隆寺など奈良のお寺の仏たちは空襲を受けることなく残った。

 (「随想を書く会」メンバー)
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