■ 侵略戦争の総括について 船橋 成幸
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私は1925年、あの悪名高い治安維持法が制定された年に生まれた。物心つ
き始めたころ「柳条溝事件」(31年9月、「満州事変」の始まり)が惹き起こされ
て中国侵略が本格化し、以来、日中戦争から第2次世界大戦へと、日本軍国主義
が休むことなく暴走をつづけた。この時代、幼いときから思春期を経て成人に至
るまで、戦争は逃れるすべもなく私たちの日常を取り囲んでいた。
小学校の国語教科書(国定)は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」で始ま
り、「肉弾三勇士」など数々の軍国美談が飾っていた。まさに幼児教育からマ
スコミュニケーションにも及んで、軍国主義のキャンペインは社会の隅々にま
で浸透した。そして国民の大多数が、日本が進める戦争はアジア諸民族解放の
「聖戦」だと信じ込まされ、その勝利のためには自己の命をも含むいかなる犠
牲も惜しんではならぬと観念させられていた。天皇を神とあがめ、その「大御
心」には絶対無条件に服従すべきとする「皇民」意識が、当時の民心をあまね
く支配し、日本軍国主義の精神的支柱となっていたのである。
1945年8月の敗戦は、そうした戦時中の既成観念を一挙に転倒させ、代わ
りに占領国がもたらした「自由と民主主義」の新たな価値観が、あっと言う間に
一世を風靡するようになった。そのことは戦時中ほとんど世間の目に触れないよ
うに逼塞させられていた左翼の運動家には「解放」であり、また、大正デモクラ
シーの記憶を残し、それに郷愁を感じていた人びとには「復活」とも位置づけられ
ただろう。だが、私たちの世代、純粋培養の軍国青少年だった人間が戦時中の洗
脳の影響から脱け出すには、一定の時間と努力が必要だった。何しろ「自由主義
は堕落の思想、社会主義は破壊の思想」といった教育をいやというほど徹底され
、脳裏に刻みつけられていたのだから。
それでも、「戦争は大変な間違いだった」という反省と、「二度と繰り返しては
ならない」という決意が、誰であれ当時の日本国民に共通していたことは確かで
あった。戦争放棄・非武装を定めた平和憲法が、そのような国民の普遍的気運の
もとで制定された。
ところがその後、朝鮮戦争を契機に再軍備など逆コースの施策が繰り返され、
また、経済を中心に国力が大きく回復するにつれ、日本の世論動向はしだいに変
容を重ねた。
とりわけ、冷戦という時代背景が大きかった。講和の前後を通じて日本に支配
的影響力を及ぼしたアメリカの権力者は、反共・反ソの基本戦略を踏まえ、「敵
の敵は味方」の論理に沿って日本の旧指導層にできるかぎりの免罪符を与えた。
占領中の極東軍事裁判も、その意図を含んでA級戦犯の範囲を極力せばめるよう
に運ばれた。結局、被害者、告発者たるべき日本国民を除いて戦勝国だけで行わ
れたこの裁判は、戦争犯罪者に対する国民の怒りをすり替え、緩和するための代
償措置として機能した。
また、冷戦が長く続くあいだに、新たな戦争への不安とともに反戦平和運動の
高揚が見られた反面、在日米軍の異常な長期駐留や自衛隊戦力のエスカレートに
対する抵抗感がうすれ、むしろ「平和と安全」のための必要条件とみなす風潮さえ
つくられてきた。そのなかで、過去の戦争指導者への怒りも、責任追及の気運も
、時とともに衰えていくのは避けがたいかのように見えたのである。
他方、第2次世界大戦で日本の同盟国だったドイツでは、敗戦と同時にベルリ
ンの地下壕で自殺に追い込まれたヒトラーをはじめ、ナチス幹部の責任がかれら
の終生に及んで徹底的に追及され、侵略の歴史を反面教師としたうえでの再建が
進められてきた。同様にイタリアでも、独裁者のムッソリーニは逃亡中にバルチ
ザンの手で逮捕・銃殺され、逆さ吊りの無残な姿をミラノの広場にさらすことに
なった。このときの「怒れる民衆の力」が、戦後イタリアで民主的発展の原動力と
なったことは周知の通りである。
ところが日本では、同じ敗戦国のドイツやイタリアのように国民自身の手によ
る戦争責任の追及はまったく不徹底で、むしろ戦後の新たな権力者によって的を
外され、巧みに回避されてしまった。だから、敗戦のわずか12年後、こともあ
ろうにA級戦犯被疑者の一人が総理大臣の椅子に座ることさえできたのである。
1995年8月、戦後50周年に際して発表された村山首相〔当時〕の談話は
、その2ヶ月前の国会決議の趣旨を深めて明確化し、わが国による植民地支配と
侵略の歴史的事実を初めて公式に認め、反省と謝罪の意を表明したものとして画
期的であった。それ以来、現在の麻生内閣に至る歴代政権も「村山談話を踏襲す
る」との言明を繰り返してきている。
にもかかわらず、それらの反省が真剣で、侵略戦争への的確な総括につながっ
たとは決して言えない事例やふるまいが、一部の政治家やオピニオンリーダーの
間で同時進行的に続いている。小泉元首相が在任中に重ねた靖国参拝はその典型
だが、それだけではない。最近の田母神論文事件に見られるように、公然と侵略
戦争についての歴史認識をゆがめ、「軍国日本」の指導者たちを崇敬して憚らない
傾向さえ、いまや無視できない勢いでひろがってきている。いったいなぜ、この
ような倒錯が生じているのか。
私は、過去の侵略戦争の総括が、日本では欠落したままであることに深刻な問
題を感じている。そしてその総括を妨げる要因が、明治以来、この社会で醸成さ
れ、いまも強固に根を張る特殊日本的な思想・社会の構造と統治の構造に潜んで
きたと考えている。
敗戦の直後から、日本社会全般に厭戦・反戦の気運は深く浸透していたにもか
かわらず、侵略戦争における加害と被害の関係を明確にし、内外幾千万の被害者
の立場から戦争指導者を糾弾する世論は極めて弱かった。そのことの社会外の要
因、冷戦や東京裁判の影響については前述したが、さらに根深く、日本社会に内
在する要因があったことにも触れなければならない。
敗戦後まもなく、国民大衆の間では「一億総懺悔論」がひろく流布されていた
。「誰が悪いのでもない、国民全体の努力や犠牲が足りなかったのだ」という「
反省」である。
それを象徴する一つが例えば広島の原爆死没者慰霊碑に見られる。そこには「
安らかに眠って下さい 誤ちは繰り返しませぬから」という碑文が刻まれている
。これについては幾度か論争があり、1970年に「主語は全人類」とする公式解
釈でケリがついたとされているが、私はこれによって日米の戦争指導者の責任を
覆い隠したことに強い抵抗を感じる。誰よりも重い責任が日本の軍国主義者にあ
ったと見るのは当然だが、他方、日本の壊滅的敗北が明白となった時期に、あえ
て原爆を投下して無辜の民間人数十万人を一挙に殺傷した責任も、決して曖昧に
すべきではないと思う。
ともあれ、「一億総懺悔論」の背景には、かつて丸山真男氏が指摘した「どこに
責任があるのか見えず、だれも責任を取らない」統治の構造が戦後の日本でも崩
れなかったことがあり、その頂点に、明治憲法の「天皇は神聖にして侵すべから
ず」という一種の絶対主義がまだ命脈を残していたことを指摘できるだろう。
いささか旧聞に属するが、かつて昭和天皇が、「退位するといったことはな
い」「国民の付和雷同性が戦争防止を困難ならしめた原因の一つ」と、側近〔
故徳川侍従長〕に語った記録が明るみに出たことがある〔99年1月6日付、
朝日新聞〕 この「付和雷同性」とは、いったい何のことか。戦中派の私たち
にとっては、それは徹底した言論統制と洗脳教育の結果以外ではありえなかっ
たのである。
また、敗戦直後から、「天皇陛下のおかげで戦争を止められた」という世論づく
りも盛んであった。だが、その戦争を始めたときの天皇の役割や責任が、ほとん
ど問われることがなかったのは大きな矛盾ではないのだろうか。
日中戦争以来2百数十万人といわれる戦死者遺族の心情も、巧みに利用されて
きている。多くの遺族にとっては、戦争で奪われた身内の生命が「誤った戦争の
惨めな犠牲」だったと認めるのは忍びがたいことである。そうではなく「祖国と
天皇に捧げた栄光の死」と位置づけなければ戦死者が浮かばれないという、そう
いう思いにつないで、戦死者遺族のなかでは戦争そのものにも何らかのポジティ
ブな意義なり必然性を認めたいという衝動が生じていた。与野党一部の政治家が
先頭に立った靖国参拝の慣行は、そうした衝動に乗じて侵略戦争の歴史的事実に
白粉を塗り、捻じ曲げようとする策謀に通じている。
戦死者遺族の心情も分からぬではないが、しかし、それでは戦場以外に空襲な
どの巻き添えに遭った百万人近い民間戦没者の犠牲はどうなるのか。また、2千
万人を超えたとも言われる中国やアジア諸国民から「奪った命」をどのように考
え、何をもって償うのか。国籍や民族の違いはあっても、人間の命のかけがいの
なさ、尊さに差異はない以上、他国の、しかも侵略の被害者に思いを及ばさない
のは非道であり、人間として許されないことではないだろうか。私は、靖国神社
への「合祀」は遺族の自由な選択にゆだね、それとは別に、国内外すべての戦争犠
牲者を対象とした慰霊施設の建立を急ぐべきだと考えている。
加えて言えば、過去の侵略戦争について真剣な総括を欠落させたままなら、日
本の国際的地位への深刻な影響も避けられないであろう。なぜなら、いつのまに
か歴史認識をゆがめ、偏狭なナショナリズムに傾いている日本の政治家やオピニ
オンリーダーたちのいまの風潮は、国際社会の不信と危惧を招く結果にしかなら
ないからである。
かつて中国の周恩来首相は「ひとにぎりの軍国主義者は絶対に許せないが、か
れらに扇動されて侵略の先兵とされた日本人民もまた犠牲者である」と明快に語
っている。私たちはこの道理ある言葉を想起するまでもなく、国家の名のもとに
強行された侵略戦争という最大規模の殺人・破壊行為について、加害者と被害者
の関係区分を明確にしつつ、あらためて真剣な総括を行うべきである。
そのことは、戦後64年を経た今日の日本が国際社会において「名誉ある地位」
を築き、とりわけアジア諸国民から心からの深い信頼と友情を得るためにも、決
して避けては通れない道を選ぶことである。
(筆者は元日本社会党中央執行委員)
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