【追悼】

仲井富さんを偲ぶ

初岡 昌一郎

 2月15日早朝、仲井富さんは長男の均君と長女の圭さんに看取られて、波乱に満ちた91歳の生涯を閉じた。1月24日に飯田橋の逓信病院へ救急車で入院してから、3週間余の集中治療室で手術と救命治療をうけた後、帰らぬ旅路に出立した。最後の瞬間は苦しむことなく、意識を取り戻した彼は、お子さんたちに微笑みかけたそうだ。

 1月26日午後に彼を見舞ったときには、薬と麻酔のために熟睡中だったが、これが最後の別れだと直感した。医師はあらゆる手段と最新の医療技術によって救命に当たる姿勢であったが、本人はかねがね「延命措置を断る」といっており、その意思をお子さんたちは尊重していた。

 入院後に聞いたところによると、彼の体は既にボロボロだった。これは驚きであった。長年にわたって付き合ってきた私は、彼に時々老いを感じることはあっても、そこまで彼の消化器、腎臓、肺、心臓の基本的な諸器管のいずれもが弱り、危機的な健康状態にあったとは、夢にも思わなかった。彼は決して愚痴や弱み、不安をこぼす人ではなかった。いつも我々は自分のことではなく、世の中の今と今後を話しあっていた。そして、彼も私も今後の人生について「死ぬときは、死ぬがよし」(良寛)と、少なくともうわべでは達観する態度をとっていた。彼は6回の四国お遍路を、道々空き缶を拾いながら歩いて済まして以来、生死の境を越えた生き方に入っていたと思う。

 仲井富さんと初めて出逢ったのは、1955年の夏だった。70年近くも前のことだが、いまだによく覚えている。参議院議員会館に江田三郎さんを訪ねて行ったところ、議員室にいたのは江田さんではなく、仲井さんだった。彼は統一前の左派社会党本部青年部事務局長に選任され、当時三宅坂にあった同党本部で専従者としての仕事を始めるために、上京してきたところであった。私もその年の春に上京してきたばかりだった。われわれは岡山弁で話して、お互いに県北美作地方の田舎もので、社会党と江田の支持者であることが分かりすぐに意気投合した。
 彼はまだ宿舎が決まっておらず、議員会館の当時は狭かった江田部屋に寝泊まりしていた彼は、すぐに私の提案を入れて、井の頭公園の裏手にあった私の下宿にその日から越してきた。リュックだったか、風呂敷包みだったか覚えていないが、数日の旅に出かけるほどの身軽さだった。彼が結婚するまで半年余り、4畳半の部屋をシェアすることになった。

 私は高校時代より平和運動や政治活動に関心があり、大学に入ってからも左翼的な社研にはいっていたので、学外でも積極的に活動しようとする気持ちがあった。仲井さんと同居したことから、その道が具体的に開けることになった。彼の誘いを受け、砂川闘争など学外での政治的な活動にのめりこみ、左派社会党青年部活動家になるのに時間はかからなかった。2歳年上だった仲井さんは既に世の中をよく知っており、私の先達となった。彼から自分の将来の生き方に大きな刺激と具体的なチャンスが与えられた。
 仲井さんはその年の暮れ、統一された社会党の専従中央試執行委員になった西風勲を後継する青年部長となった。その後、彼は国民運動局に移り、当時盛り上がっていた軍事基地反対闘争や大衆的国民運動に没頭し、その恐れを知らない度胸と行動力によって党内外で頭角を現した。特に、安保闘争前期において、当時、全盛期にあった全学連と大胆に提携する道を選んで注目を浴びると同時に、党内外で大きな反発も買った。

 彼は10代後半から早くも社会党岡山の専従者となり、江田三郎最側近の一人として常に江田と行動を共にしていた。60年代中頃には、社会党内において新路線と党の近代化によって政権を目指そうとする江田派と守旧的な自称左派の対立が頂点に達していた。その当時、本部組織部副部長として党改革を模索しており、後に「オルタ」の創始者となる加藤宣幸さんと富さんは意気投合、彼ら党本部改革グループの若き盟友となっていった。

 当時の江田派の面々には、風格のある紳士的な人が多かった。今風に言えば、やや市民社会的なグループだった。リーダーが采配を振ればそれに従うような、いわゆる一致団結型のタテ派閥とは異なっていた。他面、悪く言えば、戦闘力と牙のない、結束力に欠けた集団に過ぎないと若い私の目には映った。
 その中では、仲井さんの存在はかなり異彩を放っていた。国民運動の広い人脈や旧青年部のネットワークを持つ仲井さんは、常に軽快な行動力をいかんなく発揮、党大会のおける代議員対策や役員選挙運動でもその先頭にいつもいた。
 江田さんが役員選挙に負けると「富さんの票読みが甘い」という批判をする人もあったが、彼にとっての票読みとは評論家風の予測ではなく、達成すべき目標に他ならなかった。さすがに、江田さんはこれをよく理解していた。江田さんの委員長選敗北に意気消沈する仲間をしり目に、「しゃない」の一言で江田さんと仲井はすぐに立ち直るのであった。

 仲井さんは自分のカンに頼る傑出した行動派であった。理論は他人の経験をもとにして練り上げたものであるが、カンは自分の経験によってのみ養われる。1960年代中葉、社会党が選挙に大敗、党内において江田三郎とその路線が決定的に否定された時、当時党本部機関紙局経営部長という、その柄にも合わないポストにいた富さんは、選挙で大敗した社会党書記局、特に大きな世帯で江田派の牙城とみられていた機関紙局は人員整理を迫られていた。
 そこで、江田さんに「こういうときは自分の派からまず切るべきだ」と彼は進言した。江田は即座に「仲井、それはいい考えだ。まず、お前から辞めよ」と申し渡した。これは富さんがよく話していたエピソードだ。彼は江田の判断の公正さの例として挙げていたが、聞く人の中には「江田の冷たさ」と受け取る人もいた。だが、このエピソードは社会党に全力を投入してきた彼らの深い絶望を示すもの、とわたしは直感した。

 富さんの真骨頂は、社会党一筋の前半生から離脱して、組織に依存することのない一匹オオカミの道を選ぶことになった後半生に最もよく発揮されたといえよう。この後もお互いの間の親密さは変わらなかったが、中年期のそれぞれが自分の仕事に没頭、シェアする時間と会う機会が大幅に減った時期であった。
 社会党からの退職金をつぎ込んで公害研究会を創立し、市民運動に打ち込んだ後半生でも、彼の興味と関心はますます多岐にわたっていた。「金を稼ぐのに時間を取られ、またそれを使うのに時間を取られるのは人生の無駄」と早くから喝破していた彼は、省ネルギー型の生活を実践しながら、幅広い仲間と友人を垣根を越えて紡いでいった。私も常にその周辺に居たが、その時期を私よりよく知る友人たちが、後半生から最近までの彼について回想されるのを待ちたい。

 全生涯を通じ、彼ぐらい自分の田んぼに水を引くことを優先せず、常に他者に配慮し、自分の利害に直接関係のない問題を通じて、広い社会的政治的な一般的利益を追求した人はそう多くはないだろう。それを決して誇ったり、自慢したりせず、また肩をいからせることもなく、しなやかに生き抜いてきた。これはなかなか真似て同行できない道だ。彼の生き方に同化しえないが、それを応援したいと思った人は少なくなかった。私もその一人である。
 長い付き合いを振り返ってみて、彼に助けられたり、励まされたことはしばしばあった。だが、不愉快な目にあわされたり、不信感を持たされたことは絶無であった。彼の生き方のさわやかさや、物事に拘泥しないおおらかな性格は、若いころから顕著であった。それは年とともにさらに磨きがかかっていった。

 人生の達人であったわれらが友、仲井富さんにたいする惜別の言葉は尽きない。だが、長話をいつも嫌った富さん、お別れの時だ。さようなら。(2月16日早朝)

(2024.2.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧