【自由へのひろば】

仮説・戦後政治の舞台から社会党が消えた日

— 社会党の「裏方・回顧シリーズ」の発刊を終えて —

浜谷 惇


 過日筆者は、『オルタ』を主宰される加藤宣幸さんとの歓談の席で、「社会党は1996年9月に歴史的役割を終えて戦後51年の歴史に幕を閉じた」、とする仮説を開陳したことがあります。そしてこの仮説は筆者一人の考えによるものではなく、かつて社会党本部に勤務した4人が社会党本部時代を“問い・問われる”回顧作業を続けるなかで得た一つの共通認識であることを付け加えたところ、後日、加藤さんから「社会党が消えた日」について原稿を書くようにとの依頼が届きました。

 そこで、4人が共通認識に至った経緯の紹介と、筆者なりに若干の考えを加えて、以下「仮説・戦後政治の舞台から社会党が消えた日」としてまとめてみることにしました。

◆社会党を回顧する報告・勉強会で得た4人の共通認識◆

 前述した社会党時代の回顧作業を続けた4人とは、船橋成幸、早川勝、園田原三の各氏と筆者です。
 船橋さんは57年〜88年まで本部に勤務、その後、田辺誠委員長のブレーンとして、また社会党改革議員連合の事務局を担うなど、96年9月まで間接的裏方の活動をしてきました。早川さんは71年〜86年まで本部の裏方を、その後86年〜96年は衆議院議員として表方の活動をしています。また96年以降は愛知県・豊橋市長を3期務めました。園田さんは71年〜96年まで、筆者は65年〜96年まで、ともに本部で裏方を担いました。
 4人は、もともと職歴、ポジション、立ち位置、所属した派閥・グループを異にしているものの、それぞれの体験と見聞したことを戦後社会党私史の記録として整理し合う目的から2012年以来、報告・勉強会を重ねてきました。

 幸いにも報告・勉強会の記録は、4人の回顧シリーズとして——船橋成幸著『革新政治の裏方が語る13章』、早川勝著『社会党—裏方・表方・市長』、園田原三著『村山首相秘書官—社会党人生の軌跡』、と拙著『政権と社会党—裏方32年の回顧談』——を「オルタ出版室」から発刊することができました。
 いずれの著書もそれぞれ独自の体験、独自の回顧、独自の所感が記録されていますが、他方で共通した認識も少なくありませんでした。

 昨年秋に4人がそれぞれ出版のための執筆作業に入ることになり、その前段としていくつかの討論テーマを設定したなかの一つ、「社会党は戦後政治史のなかで何時まで存在したのか、何時その役割を終えたのか」について意見交換したことがあります。その結果、新党づくりに失敗し、96年総選挙を直前に社会党が分散・分党状況に陥った「96年9月」に社会党は戦後51年の歴史に幕を閉じた、とする認識で大筋一致しました。

 回顧をまとめるにあたって、4人には各自が体験したこと、見聞したことの記録性を重んじることから、記録と所感にわたる記述の違いを、できるかぎり区分しておきたいとの強いおもいがありました。その意味で、4人には「分党」後の社民党の位置付けを明確にしておくことが不可欠でした。

 それを「仮説」として共有認識することによって、お互いに自社さ村山連立政権の歴史的位置付け、55年政治体制の捉え方の視点についてより明確にすることができました。また今日、政党政治がかかえている問題、とりわけ政党とは何か、議会制民主主義のあり方などの課題を考えていくうえで、いくつものヒントを得ることができたようにおもえます。そんな効用を手にすることができました。

◆社会党が「幕を閉じた」とする根拠◆

 社会党が「幕を閉じた」とするその根拠は、96年9月12日と同18日の2回の中央執行委員会(常任幹事会)の決定にあったと考えます。
 先ず「9月12日」。この日開催された中央執行委員会は、村山富市委員長から提案された「分党方式」——当面、党所属の衆参議員の対応を(1)衆院候補者は新党の「民主党」でたたかう、(2)参議院議員や地方議員は社民党(96年1月19日の大会で党名を社会党から社会民主党に変更)に残る、(3)その後の推移を見て新党問題に結論を出す——を決定しています。
 もう一つの「9月18日」。この日開催された中央執行委員会は、(1)新党を実現させることができなかった、(2)総選挙は社民党でたたかう、(3)総選挙の予定候補者が自らの判断で民主党に参加することを拒まない——を決定しています。

 以上、2回の決定内容には大きな違いがありますが、大事なことは積極的か、消極的かは別として、ともに「分党方式」を認めている事実です。それこそが「幕を閉じた」と判断できる最も重要な要因だと考えています。党の存立をめぐって政党内の主義主張が一致しない場合、その政党はしばしば分裂、解党、分党、分散、他の政党への合流を余儀なくされることになります。

 96年の社会党(社民党)は、前述のとおり「新党づくり」に失敗したことを認めて「分党」を決定しています。この「分党」について筆者は、「話し合いによって複数の党に分割した」と考えています。したがって、この時点で社会党(社民党)は二つの党に「分党」したと見るべきです。一つは合流を認めた「民主党」であり、もう一つは新党としての「社民党」です。現在の民主党はその時点で誕生した「新党」とみるべきだという見解です。

 とは言え、現在の社民党は「分党」後も政党助成法や政治資金規正法に則して旧社会党(社民党)を引き継いでいることから、前述の「仮説」は成り立たない、とする批判があるかもしれません。形式論的に言えばそういう主張に余地を残しているかもしれませんが、後で述べる新党づくりの経過やその後の社民党の実態から見て、同じ名称であっても、「分党」した時点から「別の党」になったと捉えたほうが至当だというのが筆者の立場です。そして何よりも96年以降の社民党には、古い言葉を使いますが、社会党時代の幅広い党結集の根幹を成してきた「共同戦線党」的性格としての要素を見ることができません。

◆「消えた日」に至る補足的な根拠◆

 以上にみてきた「戦後政治の舞台から社会党が消えた日」に至ることになった根拠を別の視点から整理しておきます。

 その一つ。社会党は、93年の細川連立政権に参画するころから、新たな時代に役割を担える社会党のあり方を、それまでの「党改革」による手法ではなく、「新党づくり」に求めはじめていました。そして94年の自社さによる村山連立政権の誕生によって、新党づくりは、手法に違いはあったものの、新党を必要としている点においてほぼ党内の合意となっていました。つまり、戦後政治史のなかで社会党はその歴史的役割を終えたことが前提とされていたということです。社会党が96年1月の大会で、党名を「社民党(社会民主党)」に変更しますが、この名称変更はあくまで「新党」が実現するまでの過渡的名称としての性格を持っていたという事実を付け加えておきます。

 しかも、この新党は、社会党が戦後50年間の運動と国会審議を通じて蓄積してきた「資産」引き継ぐことと、幅広い国民政党をめざす点においても、ほぼ党内の合意を得ていました。当時、結集の幅をめぐって「社民・リベラル」か、「民主・リベラル」かの違いがありましたが、やがて「民主・リベラル勢力の総結集」に集約されています。

 なお、引き継ぐ「戦後資産」とは、憲法の理念と精神を尊重した政治です。外交・安全保障政策分野では、個別的自衛権による専守防衛に徹する憲法解釈であり、村山首相談話であり、軍縮であり、非核三原則、武器輸出三原則、日米安保条約の厳格な解釈・運用の歯止めなどです。生活向上の仕組みづくりにかかわる分野では、福祉と分権、年金・医療、介護、雇用・最低賃金、環境(公害)、教育、男女共同参画社会——などについての制度設計の蓄積です。
 現在の社民党が、これら「資産」を大事に引き継ぐことは大歓迎ですが、かといって幅広い国民政党をめざす理念・政策を欠いているとしたら旧党である社会党の轍を踏むことになってしまいます。

 その二つ。社会党が「新党づくり」を選択した(せざるを得なかった)のは、何よりも国民意識と情勢の激変があったからだということです。同時に、すでに80年代の後半から社会党を支えてきた基盤が大崩れしている状況を強く意識したからでした。
 それは、社会党を支えてきた総評の解散、連合の誕生、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への移行、さらに80年代末から始まるソ連邦、東欧の社会主義体制の崩壊、東西両陣営の対立構造の終焉、グローバル化、それらを背景にした国民意識の変化でした。

 しかし、社会党は、山花貞夫前委員長、久保亘書記長、村山富市委員長に代表されるリーダーによって推進してきた「新党づくり」を結実させることができず失敗しました。これが前述した96年総選挙を目前にした9月です。そこで社会党は「分党方式」を決定しますが、それは即、戦後51年の社会党の歴史に幕を引くことだった、というのが筆者の見方です。

(4人の報告・勉強会をリードしてくださった船橋成幸さんが、2015年5月23日に急逝されました。船橋さんはすでに刊行していた早川勝さんと未刊であった園田原三さん、筆者の校正ゲラを読みアドバイスしてくれたことを附記します。合掌)

 (筆者は(一般社団法人)生活経済政策研究所参与)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧