【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

仏教と国王が信奉されるとするタイで、敬愛されたのはプミポン一代か

荒木 重雄

 昨年11月、タイの首都バンコクで、王室改革を求める若者たちのデモが、一刻ながら燃え上がった。一昨年の7月から11月にかけて、タイでは、軍事政権の流れをくむプラユット政権の退陣や、軍の影響力を保持している憲法の改正、さらに、不敬罪の廃止や予算の削減、政治への不介入を含む王室改革を求めるデモが盛り上がっていたが、新型コロナの感染拡大とリーダーの相次ぐ不敬罪での起訴で下火となっていた。ところが、憲法裁判所が、改めて、王室改革要求は違憲との判断を下し、運動の中止を命じたことで、逆に活動が再燃したのだ。

 不敬罪は恣意的に適用されがちなうえ、1件につき禁錮3年から15年と刑罰が重い。政治弾圧の手段として効果はあろうが、国王と国民の間に以前のような信頼や親しみが失われた現在、王室批判は繰り返し噴出しよう。
 ここでタイの王制の成立ちを、仏教とのかかわりを重点に振り返っておきたい。

 ◆ 仏教と国王を国の要として

 タイの政治に国王と仏教を復権させたのは、1957年、西欧型民主主義を進めるピブン政権をクーデターで追い落としたサリット陸軍司令官であった。彼は、議会制民主主義はタイに腐敗・汚職と政治的混乱をもたらすだけとし、「タイ式民主主義」を掲げて、かつてスコータイ王朝のラームカムヘン王(13世紀)が理想とした「ポークンの政治」の復活を唱えた。ポーとはタイ語で「父」、クンは「王」であり、国王と国民は、「支配する者・される者」ではなく親子のような「庇護する者・される者」の関係であると説く。

 サリットは、ラーマ6世(治世1910-25年)が唱えた「民族・仏教・国王」の三位一体論を新たな国民統合のイデオロギーに据えなおし、タイ民族のアイデンティティを構成する要素は仏教と国王であり、国王は仏教の最高の擁護者として民族を代表し、その国王を守るのが政治指導者および国民の最大の責務であるとした。
 まだ若い前国王プミポンがサリットと組んだ。

 ◆ プミポン国王が演じた役割

 サリットはこうして、1932年の立憲革命以来低下していた国王の権威の回復を図るとともに、仏教界の抜本的な改革に着手した。まず、サンガ(仏教界)を内務省が管轄する中央集権的組織に改変すると同時に、「僧侶は国家の建設と国民の繁栄に貢献すべし」として、村々の住職を村落開発委員会の顧問に任命したり、バンコクの青年僧を地方の開発に大量動員したりした。東西冷戦下、インドシナ半島不安定化のなかで、共産主義勢力の浸透防止がその目的であった。

 サリットの後を継いだ陸軍司令官タノム首相とプラパート副首相の政権下で、この趨勢は一層強化され、僧侶は、軍人や内務省の地方官吏、村民が結成する自警団とともに、地方における反共政策の要とされ、「仏教信仰に消極的な村民は非国民であり、共産主義支持者である」とのキャンペーンが展開された。

 タノム=プラパート政権はやがて、目にあまる強権ぶりと不正蓄財から、学生・市民の大規模な反対運動に遭遇し、ついに73年10月、学生・市民と軍・警察が衝突して多数の死傷者を出すに及ぶと、国王はテレビ・ラジオを通じて声明を発し、文民の新首相を任命して、タノム、プラパートらに国外脱出を指示した。
 この決断は国民にプミポン国王の威信を印象づけ、以後、国王は政治に主導権を発揮して、新憲法の制定やクーデターの承認などの政治の節目には必ず登場するようになった。

 束の間、享受された民主主義体制はしかし、そのさらなる進展に危機感を抱いた王室の支持のもと、軍・警察と右派勢力による攻撃が開始され、軍服を僧衣に着替えたタノム、プラパートの帰国を機に、ついに76年10月、「血の水曜日」事件として歴史に残る残虐なしかたで民主派勢力は壊滅させられた。紆余曲折の後、タイ政権は王党主義者プレム陸軍司令官に引き継がれていった。

 さらに1992年5月、スチンダ陸軍司令官の軍事政権に反対する市民の集会に軍・警察が無差別発砲し多数の死傷者を出した「流血の五月」事件が起きると、国王はスチンダと市民側リーダーのチャムロン前バンコク市長を王宮に呼びつけ、拝跪する両名に直ちに事態を収拾するよう命じた。このときはテレビが中継したその映像で、改めて、国内外に国王の権威を焼きつけた。

 ◆ 社会変化で翳った国王の威光

 しかし、2001年、タクシン氏に率いられた農民や貧困層に基盤を置く新興政治勢力が台頭してくると、都市部を基盤とする既得権益層との間に深刻な摩擦が生じた。既得権益層の政治的・経済的特権を後ろ盾として支えてきたのが、他ならぬ軍と、王室の威光であった。ここに至って、国王はもはや、私心なき「超越した調停者」ではなく、対立の一方の「当事者」とならざるをえなくなった。06年にタクシン政権を倒したソンティ陸軍司令官によるクーデターも、14年にタクシン氏の妹インラック政権を倒した現首相プラユット陸軍司令官(当時)のクーデターも、国王の承認のもと、国王側近のプレム枢密院議長の指示で行われたとされている。
 プミポン国王が調停者として登場することはもはやなく、16年に88歳で没した。

 ◆タイ王制の行方はいずこ

 前国王にはそれなりの栄光もあり、国民的人気もあった。だが、ワチラロンコン現国王は人望にも欠ける。王室の莫大な資産を国王個人の名義に移したり、形式的に全軍の最高司令官であるのに加え陸軍の二つの精鋭部隊を国王直属としたり、そもそも国王でありながらタイに滞在する期間が少なく、ほとんどをドイツで暮らし、外遊には王妃と随行員250人余りにペットのプードル30匹が同行などの贅沢三昧。巷で語られる数々のゴシップからは、いかに強権で抑え込もうとも、もはや、仏教とセットになった王権の威信をタイに復活させるのは難しそうだ。
 王室はこれからいかなる道を歩もうとするのか。

 (元桜美林大学教授)

(2022.1.20)
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